宰相の嫁の素顔



「あら。ジーンさまではなく、ナターシャ様だったのね」

 アリシアは興味深そうにナターシャを見つめてくる。


「アリシア様、ごめんなさい。見逃してくださいませ」

 ろくに説明もせず、半ば強引に出て行こうとしたが、彼女に「待って」と、腕を掴まれた。


「旦那様がいない間、この屋敷を任されているんです。男装してどこへ行こうとしているのか教えてくださいませ」


 真剣な顔のナターシャを振り切ることができなかった。部屋の中へ戻り、説明をはじめる。


「隠密で、婚約者の素性調査でございますわ」


 アリシアはナターシャを見つめたまま固まった。

「男装して?」

「ええ。令嬢として正式に会ってしまえば婚約の話が進んでしまう。それに、わたくしに合わせた対応をしてしまうでしょう?」


「つまり、自分の正体は伏せて、婚約者候補の方々の素性を自ら赴いて暴き知りたいと、そういうことですか? そんなことをしてもしばれたら、相手方に反感を抱かせてしまいます」


「反感を覚えるようなら、こっちから願い下げ。結構ですというもの。騙されたと笑い飛ばせるほどの器が欲しいのです」

「ナターシャ様」

 咎めるようなアリシアの声にナターシャは苦笑いを浮かべた。


「令嬢としてふさわしくない行動だということは自覚しております。ですが……」


 時間がない。ナターシャは兄夫婦の子どもが生まれるまでには家を出たかった。

今から正式の手順を踏んで見合い相手全員と何回も会って決める。なんて悠長なことはしていられない。


「結婚をするなら早くしたいのです。そして、最良の方を選びたいと考えております」


 やっぱり、リアム様が好き。

 幼いころからずっと、何年も好きだった。初恋の人を一月くらいで簡単には忘れられないし、忘れるつもりもない。


 ナターシャは兄の言うとおり吹っ切れていなかった。彼の口からはっきりと断られ、リアムの妻になることを諦めただけ。慕うだけなら自由だ。


 婚約者候補の中に、皇帝リアムを超える相手はいない。それでも、その中から選ぶようにと家長の兄から言われている。


「プロフィールを読んだところで、その人の人となりはわかりません。生涯を共にする相手を自分でしっかりと見極めて、納得したいのです。そのための男装ですわ」

 

 家のために、気持ちは後回しにして嫁にいくが、幸せを諦めたわけではない。


 このままの自分を受け入れてくれて、さらに、心穏やかにいられる人をナターシャは選びたかった。可能なら兄夫婦のようにその人を愛し、仲睦ましい夫婦になりたい。


 見た目も、考え方も、リアム様に似ているイライジャ様では、彼自身を見て愛せる自信がないわ。


「お兄様がいない今しかチャンスがないのです。だからどうかアリシア様、わかってくださいませ」


 切実にお願いすると、アリシアはナターシャの腕をそっと離した。


「婚約者様がどのようなお方か不安に思うお気持ち、わかります。私は、ジーンさまのことをずっと前から知っていましたが、ナターシャ様はそうじゃない。見て知って納得されるのなら、お止めしません。協力いたします」


 義姉がナターシャを見つめる眼差しはやさしく慈愛に満ちていた。 


「アリシア様。ありがとうございます。ではさっそく行ってきま……、」

「お待ちください。ただし、条件が少々ございます」


 アリシアはナターシャの頭から下までを流して見たあと、目をすぼめた。


「そのままでは男ではないとすぐにばれます。今のままでは行かせられませんわ」

「変装、どこかおかしいかしら?」


 ナターシャは自分の身なりを見た。胸の膨らみはマフラーでうまく隠れている。筋肉のない柔な身体は、外套で隠した。


 アリシアはずいっと顔を近づけ、真顔で言った。


「男性になりすますための特訓があなたには必要よ。僭越ながら私が指導して差し上げますわ」

 彼女はこほんと咳払いすると、姿勢を正した。


「まず、声は発しないようにしましょう。ナターシャ様の声は高くはありませんが、男の人の物とは明らかに違います。それに、話し言葉で良家の者だとばれる可能性があります」

「そうね」


 いきなりはじまった特訓に気後れしながらも従う。ナターシャは兄なら平気ではむかうが、義姉アリシアには逆らえない。


「立ち姿も、もっと男の人っぽくしましょうか。足をそろえすぎですわ。足幅を広げて横柄な態度を」

 長年淑女らしく務めてきたナターシャは無意識に、行儀良く足をそろえていた。見よう見まねで男のように立ってみる。


「どうでしょうか?」

 ナターシャの問いに、アリシアの顔がぱっと咲いた花のように明るくなった。


「ナターシャ様、すてき。本当に、ジーンさまにそっくりで……私の好み!」

「え……?」

 空耳だろうか、今、『好み』と言われたような?


「ああ、懐かしい。十代のころのジーン様みたい。うっとりしてしまう……」

「あ、りがとう。義姉様?」

 今まで見たことのないアリシアの姿だった。目が恍惚と輝きはじめている。 


「旦那様が今日から十日間もいないなんて、寂しい。ナターシャ様はすぐに帰ってきてくださいね? ね?」

 足を広げて立っただけなのに、彼女の急変具合に戸惑う。潤んだ瞳で見上げられて、ナターシャは身の危険を感じた。


 わたくし、兄が義姉様にベタ惚れの理由がわかったかもしれないわ。


 アリシアはやさしく、すてきな女性なのは間違いない。普段はおしとやかで控えめ、花のような可憐な淑女。ただ、ここぞというときには可愛らしく甘え、相手を虜にする魔性の女だった。


 天性のギャップ、わたくしは持っていないわ!

 兄様、この人に骨抜きにされていないか、心配になってきたわね……。

 

 ナターシャは抱きつかれそうになって、急いで身を翻した。

 アリシアから逃れるとそそくさと部屋のドアに向かった。


「あら、私のレッスンはまだ済んでいないわよ」

「もう充分です義姉様、きゃあ……っ!?」

 後ろを見ながら廊下に出たナターシャは、思いっきり頭を誰かにぶつけた。


「痛いじゃない。気をつけて」と言って見上げたナターシャは、血の気が一気に引いた。


「イライジャ様……どうして?」


 いきなり現れた彼は、無表情で見下ろしていた。その目が流氷のように冷たい。ナターシャは思わず目を細めた。


「なぜあなたがここにいるんですかと、聞いているのだけれど? いくらイライジャ様でも許可なく、私の屋敷に入ってこないでいただけますか?」


「許可なら私が出しましたわ。というより、呼び出したのは私ですと、お伝えした方が正しいかもしれませんね」


 ナターシャは振り返り、室内から出てきたアリシアを見た。彼女はいつものように、やんわりと笑った。



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