伯爵令嬢は失恋したので男装して旅に出ます~護衛は近衛騎士団長なんて聞いていない~
*ナターシャ*
あなたを婚約者候補から外します
*
「やっぱり、私の婚約者は『ノア』皇子しかいないと思うの。どうかしら?」
ナターシャ・アルベルトが窓の外、夜のしじまの先にある氷の宮殿を見つめながら深い溜め息をつくのと、兄のジーンが婚約者リストの書類をぱさっと床に落とすのはほぼ同時だった。
「ノア皇子は今、七歳だぞ。結婚適齢期まで何年待つつもりなんだっ! 自分の歳を考えろ!」
「喚かないでお兄様。お父様の身体に障るわ」
「だったらもっと真面目に、まともなことを言え!」
ナターシャはジーンに向かって「本気で言ってますけど?」と答えた。
「ノア皇子が大きくなるまで十年……いえ、八年くらいなら余裕で待てるわ」
「八年って、そのころにはナターシャは二十六歳じゃないか。十五歳の皇太子がかわいそう過ぎる。却下だ!」
「そう? いい案だと思ったんだけれど」
先帝の息子で、今王位継承権一位のノア・クロフォードは、髪の色や目鼻立ちは違うが、利発でやさしいところはリアムの幼少期にそっくりだった。
大きくなればすてきな青年になることは間違いなしで、今から唾を付けておいたらだめかしら……と、ナターシャは本気で思っていた。
「ナターシャなら、立派に陛下を支えられる皇妃になるとは思うよ。娘が幸せになるなら、反対しないがね」
一時期、危篤状態だった父エルビィスは快方に向かっていた。最近は上体を起してベッドに座れるほどだ。エルビィスは柔らかに微笑み、娘をみつめた。
「結婚相手は慎重になりすぎてもいけないが、焦って決めるものでもない。ナターシャは私のかわいい娘だ。いつまでも家にいて欲しいけどね」
エルビィスの発言は、貴族の元当主としては珍しいものだった。
貴族の結婚は自分たちの気持ちよりも、家の都合が優先される。
ナターシャも、伯爵家に生まれたからには一族の地位を確固とするのが自分の務めだという考えだった。嫁にいかないという選択肢はない。
結婚すれば幸せになれる。とは限らないが、兄夫婦は政略結婚なのに幸せそうだった。これから姪か甥が産まれ、賑やかになる。小姑の自分がアルベルト家を出るのなら今だろうと、ナターシャは思っていた。
ジーンは床に落とした求婚者たちの書類を拾うと並べ直し、ナターシャの手に戻した。
「妹よ、家長命令だ。ノア皇子以外で考えてくれ。我が家への求婚は数多あったけど、その中からこの僕が選りすぐった。リストにある男性たちはどの人も素晴らしい才覚があり、何より性格がいい。きっと、ナターシャを幸せにしてくれる。兄の目利きを信じてこの中から選んでくれ」
「承知しましたわ」
ぺこりと頭を下げてから、ナターシャは数枚の紙に目を向ける。
リストにはアルベルト家と同じ爵位を持つ者がずらりと並んでいた。その中で一番高貴な人が兄の推薦なのだろうとすぐに察した。一枚目を捲り、二枚目を見る。
アルベルトよりも爵位が上、婚約者候補の中で一番皇家に近しい者。家柄もさることながら、努力家で今、皇帝陛下の近衛騎士団長を務めている。
実直で融通がきかないし、寡黙な人だ。言葉足らずのために損をすることが多いのは幼いころから一緒にいるため、よく知っている。
目元がリアムに似ている彼、イライジャ・トレバーは婚約者最有力候補だった。
ここ数年イライジャは、ナターシャがリアムを好きだと知っていながら、何度も好きだと気持ちを伝えてくれていた。彼は決まって、
『陛下が好きなナターシャが好きなんだ』と言った。
想うだけでいい。気持ちは返さなくていいの一点張りだった。
言われる度に、現実を突きつけられた。イライジャと自分を重ね、報われない恋が胸の奥に苦い
「イライジャ様は、ないわ」
……リアム様に近い人。だからこそ、イライジャ様を選ぶことはできないわ。
彼のことは嫌いじゃない。しかし、特別な感情があるのかと聞かれると、ないとはっきり言える。
リアム陛下には、あった。彼を前にしたとき、胸の奥から沸き立つような熱い感情が全身を駆け巡ったからだ。
「ナターシャ。ないとか言わず、彼のこともちゃんと見てやってくれよ」
「見た上で言ってるわ。彼の想いが重いのよ」
好きだった人に振られたからって、慰みに彼の気持ちを利用するみたいなことはしたくない。
ナターシャは、イライジャの個人情報がびっしりと書かれた用紙を一番上から一番下に回した。
*
「……ということだから、イライジャ様。あなたを私の婚約者候補から外すわ」
粉雪が舞う晴れやかな日に、皇帝陛下リアムとお妃候補のミーシャがフルラ国へ婚前旅行に出立した。
久しぶりにきた氷の宮殿は、リアムとたくさんの人の手によって予定より早く修繕作業が進んでいた。
ナターシャは二人を見送ったあと、修復が済んだ氷の宮殿の正面玄関ホールにイライジャを呼び出した。
高い天窓から差し込む強い陽の光に、普段は落ち着いた色の
凜々しい眉毛が彼の目力を強調している。じっと見つめられ、射貫かれたみたいに胸が一瞬、静かに跳ねた。
「わかった。外してくれ。ナターシャの好きなように」
イライジャは端正な顔を崩さずに頷いた。
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線画ですが、イライジャのイメージ画を描いてみました。
https://kakuyomu.jp/users/k_akasato/news/16817330654784456857
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