前座 『ジーン・アルベルト』

ぼくのかわいいお嫁さま

白銀の大地を治めるグレシャー帝国には、『氷の皇帝』がいる。


 一年のほとんどが雪で閉ざされ、本来なら人が生活するには不向きな土地だったが、グレシャー帝国王家クロフォード家は代々雪と氷を魔力で操り、人々が不自由なく住めるように降る雪の量を調整していた。


 現皇帝リアム・クロフォードは、歴代の皇帝の中でも圧倒的な量の魔力の持ち主だった。その彼を補佐するのが宰相のジーン・アルベルトだ。彼には愛する妻がいた。


「ただいま、アリシアただいまー。今帰ったよー」

「お帰りなさいませ。旦那様」


 妻のアリシアは日向に咲く小さな花のように可憐だ。くるりとした瞳は明るい茶色。ふわふわの薄い金色の髪をふわりとなびかせ、柔らかに微笑みジーンを出迎えた。


 一週間ぶりにやっと我が家に帰って来れたジーンは、小柄な妻を腕に閉じ込めた。流氷の上には『氷の宮殿』が建っている。すべてが氷でできてる場所から無事に帰ってこられた自分を褒めて上げたい気分だった。あたたかな安息をえて、至福の溜め息を零す。


「旦那様。少し、苦しいです……」

「ああ、ごめんごめん」

 ジーンは腕の力を抜いて、彼女を解放してあげた。


「アリシアが愛しくて、つい力が入ってしまった。君と、お腹の赤ちゃんは元気?」

「私も赤ちゃんも元気です」

 ジーンは少し膨らんだ彼女のお腹を愛でながらやさしく撫でた。


「大切な時期なのに、家をあけることが多くてごめんね」

「あなたは陛下を支える大事なお方です。宰相様であるジーン様を支えるのは私の務めですわ。家のことはお任せくださいませ」

 ジーンより六歳下のアリシアは、遠慮気味に微笑んだ。


 彼女とは結婚三年目になる。宰相は皇帝陛下を補佐するのが役目で、陛下に代わり、政を執りまとめるのが主な仕事だ。


 建築素材が氷ではない、『旧・氷の宮殿』は色々あって今、修復作業中だった。ジーンたち専用の屋敷もあったが、妊婦の妻を半壊した別邸に住ませるわけにはいかず、今は宮殿ではなく帝都にある本邸にいた。


 アリシアとは政略結婚だったが、控えめな性格ながらも芯があり、しっかりとした意見を言う彼女にジーンはべた惚れだった。


 自分が仕えるあるじリアム皇帝陛下は、結婚願望がまったくない困った人だった。彼より先に結婚したものの、ジーンは最初、自分の子作りに積極的になれなかった。だが、自分の父親が病に倒れ爵位を生前移譲してからはもう、遠慮はやめた。そして今にいたる。


 彼女を嫁にできた喜びを噛みしめていると、こほんとわざとらしい咳払いが耳に届いた。


「お帰りなさいませ、お兄様。お気持ちはわかりますが、義姉さまは妊婦なのよ。玄関ホールでいつまでもいちゃつくのはいかがのものかと」


「おお。そこにいたのか、我が愛しの妹、ナターシャ!」


 ジーンは満面の笑みを作り、挨拶の抱擁をしようと彼女に向かって手を広げたが、ナターシャはつんとしたまま微動だにしなかった。


「私への挨拶は省略で結構ですわ。それよりも早く、義姉さまを暖かい場所へ連れて行って差し上げて」


「……そうだね。ありがとうナターシャ。じゃあ行こうかアリシア」

 ジーンは妻の手を取り、自分たちの部屋へ向かおうとしたが、それを彼女は首を振って止めた。


「旦那様、私は大丈夫です。私よりもどうぞお義父さまの元へ。顔を見せて差し上げてくださいませ」


 アリシアは、ジーンからナターシャに視線を向けた。


「ナターシャ様も、本当は旦那様にお話しがあるんでしょう? 久しぶりの再会なんですから、親子水入らずで、お話しをしてきてください」


 彼女は二人に向かって、たおやかに微笑んだ。



 氷の国は陽が暮れるのが早い。まだ夕刻の時間だというのに、廊下の燭台には火が灯っていた。

 アリシアを部屋に送り、それからナターシャと二人で、暗い廊下を歩き父の元へ向かう。妹はふと足を止め、暗い窓の外を見た。


「お兄様、今日は雪がよく降るわね」

「そう? いつもこんなもんだろ」

「陛下は、ちゃんと元気にしてる?」


 妹がじっと見つめる先には、氷の宮殿がある。


「おまえ、もしかしてまだ陛下のことを、吹っ切れ……」

「今もお慕いしているわよ? だって、我が国皇帝は偉大ですもの。体調を気にしない臣下はいなくてよ。そもそも、リアム様は私の兄のような方ですし」

 振り向いたナターシャはにこりと笑った。


「それに私、ミーシャ様のこと好きですもの。姉のようにお慕いしているわ。

 ……あら、でも彼女、歳は私の下だったわね」


 ミーシャ・ガーネットは、隣国の魔女で公爵令嬢。そしてリアムの婚約者だ。

 

 我が妹ナターシャは、リアム陛下に長い間、恋をしていた。

 しかし、陛下の心を占めるのは一人の魔女、クレアの生まれ変わりのミーシャだけ。ナターシャに振り向くことはない。


 ミーシャがクレア師匠の生まれ変わりと知った妹は良かった、吹っ切れたと喜んだ。

 リアムの想い人は今は亡きクレアだと、痛いほど知っていたからだ。


 ……こいつ。無理しているな。平気な振りしているけど、長年好きだった分、そう簡単には吹っ切れないよなあ。


 兄は、妹を不憫に思いながらも父親が静養する部屋のドアをノックした。



「お父様、見て。私への求婚相手よりどりみどりなの! 皆様とてもすてきなんだけれど、お父様はどの方が良いと思います?」


 部屋に入るなり妹は、お見合い相手の個人情報プロフィールを、嬉しそうに父親に広げて見せた。


 あれ、あれれ……? 妹よ、吹っ切れたってまじだったの?


 ナターシャは、「私も絶対に幸せを掴むわ!」と声高々に宣言した。


 ジーンは、女子ってたくましいと思いながら、妹に言葉を贈る。


「妹よ。幸せは意外と近くにあるかもよ。今まで見えていなかっただけで」


 ナターシャは、ジーンの言葉に一瞬ぴくりと反応したが、聞こえなかったふりをするように、お見合い相手の写真を見つめた。


 その様子を見て、ジーンは静かに溜め息をつく。

 

 ……あいつ、こんな妹のどこがいいんだろうね。


 ジーンは、リアム同様に、長年恋をこじらせている男のことを思いながら、窓の外、雪降る夜を眺めた。



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