第7話グラデーション

「よっ」


「あ、おはよう」


 下駄箱で靴を履き替えていると、登校してきたカズが挨拶をしてくる。


「ん、なんかいいことあった?」


「まぁ、昨日ぐっすり寝たから」


 昨日の私は作業に集中して、ご飯も食べずにいつの間にか眠っていた。


「そういうのじゃないんだけど、まぁいいか」


「なにそれ」


 カズは何か含みがあるようなことを言うと、私より先に靴を履き替え、自分の教室へと向かっていった。


「んー……」


 カズの知ったような態度に私は少しムッとした。しかし、そのおかげで救われていることも確かで、それが余計に私の腹の虫の居所を悪くしていた。


 授業が終わると私はすぐに下校し、画材屋へと向かった。昨日描き始めた絵に、足りない色があったのだ。正直自分でも驚いていた。普段は足りない色があっても、適当な色でごまかしていた。


「こんなにこだわれるんだ、私……」思わず心の声が口から洩れていた。


 私は絵を描くことが好きだったことを改めて再認識した。画材屋に着いた私は、少し店内を物色する。欲しかった絵の具を見つけて購入した後、私はそのまま帰路についた。


「今日何して遊ぶ?」


「そうねぇ」


 帰り道、下校途中の小学生達とすれ違う。


「維人……」


 以前、維人がいじめられていた現場の近くを通った私は、あの時の光景を思い出して、絵の具が入った袋をぎゅっと胸で抱きしめた。


 しばらくして、私は帰宅道の河川敷を歩いていた。夕日の綺麗さに目を奪われて川の方をみて歩いていると、何やら騒がしかった。どうやら子供たちが取っ組み合いをしているようだった。


 というよりは一方的に一人の子がやられていた。


「え?」


 私は目を凝らすと、思わず叫んでいた。


「維人!」


 以前、恐らく維人に荷物を持たせていた三人組が、維人を囲んで袋叩きにしていた。三人組が私に気付き、こちらを向く。


「え、あれってこいつのおねーちゃんじゃ」


「ほら、お前の大好きなねーちゃんが来たぞ」


 三人組のリーダーであろう一人が、私にも聞こえるくらいの声で言う。私はその言葉と今の状況に怒りがふつふつと湧いてくるのを感じた。


 ごめん、カズ。前言撤回。私はいてもたってもいられなくなり、走り出す。


「構わん、一人残らずやってしまえ」と、頭の中でカズの声が聞こえた気がした。


 なんだ、私もカズのこと分かってんじゃん。


「維人から離れろ!」


「お前のねーちゃんも、お前のこと好きなんだな」


 私の怒りの炎に薪をくべるかのような言葉が聞こえてくる。彼らの策略にはまってやることにした。


「ブラコン舐めんな!」


 私は怒りに身を任せ、大声を出しながら、彼らの戦場へと突っ込む。


「うわ、きも、逃げろ!」


 維人を囲んでいた三人は私が向かってくるのを見ると、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「ハァ、ハァ……」


 維人のもとにたどり着くと、三人組は既に見えなくなっていた。


「ハァ、なんで、ハァ、こんなことに」


 私は息を切らしながら、維人に尋ねる。


「……」


 維人は泣きそうになっていたが、耐えている様子だった。


「だから、どしたん」


 体力が戻った私は、維人と視線を合わすためにしゃがみ込み、維人の顔についた泥を拭う。そして私は、維人が手に何か持っていることに気付いた。


「それって」


 私はその正体に気付くと、えも言われない感情が私の中で生まれたのを感じた。維人が手にしていたものは、昔私が描いた維人の似顔絵だった。しかし、紙はクシャクシャとなっており、おまけに作者を誇示するサインの如く、大きな足跡が刻まれていた。


「それ、昔私が描いた……似顔絵だよね」


「……うん」


「え、持ち歩いてんの?」


「……」


 答えはしなかったが、反応でバレバレだった。


「いや、確かにそれはキモイよ」


 本当は嬉しさが湧き上がっていたが、バレないように笑いながら維人に軽口をたたく。


「そう?」


「うん。というか、なんでこんなになるまで何も言わなかったの」


「……」


 維人が黙り込む。少ししてから、「言ったら困らせて……安心して家出れないと思って。おねえちゃん、優しいから」と維人が言った。


 思ってもみなかった言葉が返ってきたことに私は戸惑う。


「でも、あいつら……おねえちゃんの絵を見て、ヘタクソって言ってきてそれで、僕も……」


「……」


「僕……おねえちゃんの絵好きだから……続けてほしいから」


 維人は泣きそうになりながら、必死に言葉を紡ぐ。


「僕のせいで……僕が無理やりついていこうとして……迷子になった日からおねえちゃん……楽しそうに……絵を描かなくなったから……」


「維人……」


「だから……」


 パンッ!


「え?」

 

 維人は何かを決意したかのように自分の頬を叩き、涙で濡れた顔を自分の服の袖で拭い、勢いよく立ち上がる。


「見て!」


「うそ……」


 私はそのあとの光景を見て言葉を失った。維人が拙いながらもダンスを始めたのだ。ボロボロだった服や体にさらに泥が纏われていくが、維人は意にも介ず、純粋にダンスを楽しみ、私にそのエネルギーをただただぶつけるかのように踊っている。


 まだ練習中なのだろう。所々、私でも間違っているのが分かる。しかし、そのダンスは確実に私の心に響いていた。


 ダンスも終盤に差し掛かり、維人がフィニッシュを決める。少しの余韻の後、私は吸い込まれるように小さく拍手をした。


「ヘタクソ」


 とてもカッコよかった。世界一カッコよかった。


「えー、カズ君に教えてもらって、いっぱい練習したのに……」


 私はカバンからタオルを取り出し、維人の体を拭いた。私よりも小さい癖に。私は維人の体を拭きながらそんなことを思っていた。


 そして、私も維人に言わなければならないことがある。


「維人」


「なに?」


「私、絵続けるよ」


「え?」


 維人は文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。そして、意味を理解したのか、少しずつ口元が緩んでいくのが見えた。


「維人にね、色んなこと教わったよ。私も色んな人の心を動かしたいと思って絵を描いてたなーって。今もそう。だから私も見せたいものがあるの」


 私はタオルを置き、自分のカバンを探ると、スケッチブックを取り出した。


「見て、まだ完成じゃないけどね」


 維人にスケッチブックを手渡す。


「わぁ」


 維人は私の絵を見ると、感嘆の声を漏らす。今回描いた絵は、一人称視点ではなかった。ちゃんと私がいて笑っている。そして、隣に維人が笑っている。


「今までゴメンね」


 維人が私の謝罪を聞くとキャンバスを下ろし、私の顔と対面する。維人は私の顔をしばらく見ると、徐々に泣きそうな顔へと変貌していく。最後、耐えきれなくなった維人は「僕もゴメン」と言いながら私に抱き着いて大声で泣きじゃくる。


 ボコボコにされていたときは泣かなかったくせに。私は抱き着いてきた維人の背中をさする。維人が謝ることじゃないと思いを伝えるために。


 姉の威厳を失わないように私は泣かないつもりだった。


 しかし、姉の威厳を保てたのは、ほんの一、二秒という僅かな時間だけだった。


 

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