波間に揺れる恋心 ②


「……ヒマだなぁ……」


 馭者台に長々と仰向けになって、ポセイドンはつぶやいた。


 思う存分エーゲ海を暴走し、海の住民たちの憩いの時間をひとしきり引っかき回して、ポセイドンと魔物たちは大海原の真ん中に陣取って狂乱の余韻に浸っていた。

 魔物たちがそれぞれ勝手にじゃれ合っているのを尻目に、ポセイドンは濡れた髪を潮風で乾かしながら溜息をつく。

 甘く香る潮風と肌に刺さる陽光の暑さが心地いい。

 その心地よさに、しかしポセイドンはなぜか身をゆだねきれないでいた。


 横暴なる父神クロノス率いるティターン神族と、ゼウス率いるオリュンポス神族とが、ギリシアの大地の支配権を争って激しい戦い――ティタノマキアを繰り広げていたのはつい最近までのことだ。

 長く続いた争いに決着がつき、ゼウスを主神とする新しい支配体制の元、ギリシアに生きる全てのものがようやく訪れた平和を享受している。


 だというのに、ティタノマキアで多大な功績を挙げ、そのためにギリシアの全海域の支配権を得たポセイドンがこぼす独り言はなぜか不満げだ。


「戦争終わって、親父から支配権ぶんどって、この海全部俺のもの……だってのに」


 こんなものか、と思う。


 十年続いたティタノマキアも終わってしまえばいやにあっけない。

 戦いの中にあったときの血の沸くような高揚感が、平和な海の上にいると懐かしく思い出された。

 勝利の熱狂の勢いで海の支配権を引き受けたものの、力を見せればあっさりと従属する単純な海の住民たちに拍子抜けした。

 持てあます気力の向けどころを見失って、思いつくままにまき散らしてもすっきりしない。


 海の支配者としての毎日はそれなりに愉快だ。

 だが、それだけだ。


 この広い海、さえぎるものは何もなく、自分を縛る何ものもない。

 なのに、今の自分は不自由で、息苦しささえ感じるのはなぜなのか。


 こんなものか。


 ポセイドンは、早くも自分がこの平和に飽きはじめていることに気づいていた。


「何かおもしろいことねえかなぁ……」


 心の底からのぼやきは、誰に聞かれることもなく潮風に乗って消えてしまった。


 その潮風が、ポセイドンの耳にかすかに響く歌を運んできた。


 イルカの歌だ。

 澄んで響く声で、イルカたちが唱和し、調和する音色を作り上げて歌っている。


 ポセイドンは馭者台に起き上がって耳を澄ませた。

 いつも大人しいイルカたちが今日はやけに楽しそうだ――潮風に運ばれてくる合唱に耳を傾けていると、次第に興味を惹かれていく。


 気になるものは行って確かめずにはいられない。

 ポセイドンは立ち上がると荒々しく手綱を振るった。

 海水で身を休めていた四頭の白馬は、急き立てられて慌ただしく首を巡らし波を蹴立てて駆け出す。


 小突き合いをはじめている魔物たちをほったらかしにして、ポセイドンは歌声をたどって戦車を一直線に走らせた。




 風の吹いてくる先へ、歌の聞こえる先へとたどって馬を駆り、たどり着いたのは岩ばかりの小島だった。


 白波の打ちかかる小島を取り囲んで、イルカの群れが集まっている。

 イルカたちは海面に頭を出して、声をそろえて歌っている。

 その歌に合わせて、小島の岩肌を舞台にし、ひとりの少女が踊っているのを見留めて、ポセイドンは思わず目をみはった。


 それは金色の髪の女神だった。

 顔立ちに幼さの残る女神が、肩の辺りで切りそろえた輝く金の髪を潮風になびかせて踊っている。

 ほっそりとしたしなやかな手足を伸ばし、広げて、そのまま風に乗って飛んで行ってしまいそうなほど軽やかに、楽しそうな様子で。


 小さなつま先が波を蹴り、しぶきのベールをかぶって女神は笑った。

 すみれ色の衣の裾をひるがえして、女神はくるくると踊り、水面に跳ね、まるで疲れることがないようにイルカの歌に合わせて動き回った。


 海上の舞踏に見とれてしまったポセイドンは、知らぬ間に女神の方へと吸い寄せられるように近づいていた。

 不意の観客の出現に驚いたイルカたちが、歌声を止めて女神の周りへ集まり固まる。

 踊りに夢中になっていた女神は、イルカたちの歌がやんだことでようやくポセイドンの姿に気づいたらしかった。


 踊りの邪魔をされたせいか、それともポセイドンがぶしつけなほど真っ直ぐに見つめてくるせいか、女神は不機嫌そうに眉根を寄せた。


「……何、あなた」


 女神は、大きな水色の瞳をわずかにつり上げて、ポセイドンを見返す。


 ポセイドンは目の前の女神の機嫌になどまるで気づけない風で、瞬きもせずにその顔を見つめたまま、唐突に言った。


「好きだ」

「…………は?」

「お前に惚れた。俺の嫁になれ!」

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