Symposion Ⅱ
宮条 優樹
第一幕 波間に揺れる恋心
波間に揺れる恋心 ➀
声麗しく、ムーサたちは歌いたもう。
大地揺する者、馬馴らす者、
船乗り恐れさす荒ぶる海の守護者。
魔物引き連れ、
その神の傍らに座を占める、栄えある妃の宝冠を戴くのは誰ぞ。
海の賢者の数多いる美しき娘たち、その中の最もたおやかなる女神。
白波に乗り潮風と踊る、足首優しい海の女神よ。
歌声高く、ムーサたちは物語をつむぎたもう。
荒ぶる海神と海の女神、そのなれそめの物語を。
* * *
一面の青。
空の青を映して輝く、どこまでも広がる果てしない海。
この世で最も美しく、豊かな海洋、エーゲ海。
まだ神と人とが共に同じ自然の元で暮らし、様々に関わり合いながら生きていた時代のギリシアである。
その東に広がり、大小数多の島々をゆったりと両腕に抱き込むエーゲ海は、今日も至極穏やかな表情を保っていた。
きらめく波間にたゆたい水面の泡に戯れて、優美な海のニンフたち、のんびり屋の海獣の群れ、そして気まぐれな海の魔物たち、彼ら海に暮らすいろいろな種族たちが勝手気ままに自らの領分でくつろいでいる。
のどかな日常、平和な一日の情景――のはずだった。
突如の異変に、まず気づいたのは耳ざとい海獣たちだった。
次に、魔物たちが不穏な気配を察して一斉に首をもたげ、その彼らの様子にようやくニンフたちが気づいて、同じ方へと怪訝そうに視線をやった。
静かだった海の上を、遠くから地鳴りに似た音が走ってくる。
土煙の代わりに白く水しぶきを巻き上げながら、迫る波濤の勢いで駆けてくる馬蹄の響きと戦車の轟き、そして魔物たちの狂乱したような雄叫び。
翼ある魔物は潮風を切って飛び回り、尾びれを持つものは潮流を切り裂いてひとかたまりとなって泳いでくる。
くつろぎの時間を打ち破られた者たちが唖然とする間にも、それはすぐ間近に迫ってきた。
「オラオラオラオラァッ!」
戦車の上から浴びせられた怒声にぎょっとして、ニンフも海獣も魔物たちも、慌てて次々に海中へと身を隠した。
荒々しく力強い四頭の白馬にひかれて、絢爛豪華な二輪の戦車が海面を蹴立てて駆けていく。
馭者台で手綱を取るのは若い男で、たくましい両腕で荒っぽい手綱さばきを繰り出し、車輪の下から水しぶきを立ち上げていく。
波しぶきに青黒い髪を濡らして馬を操る様はいかにも男らしい青年だが、その引き締まった顔に浮かべた笑みは粗野な印象で、真夏の陽光に似て苛烈にきらめく
「どけどけぇっ! ポセイドンさまのお通りだぜ!」
馭者台の男は上機嫌で魔物たちと気勢を揚げる。
波濤を引き連れ打ちかかる力は、ときに大地を揺るがすほどに強大。
彼こそが、偉大なるオリュンポス十二神に名を連ねる海の支配者、黒髪の主、轟音とどろかし大地震わす神ポセイドンである。
ポセイドンは巧みに手綱を操って、縦横無尽に戦車を走らせる。
海面にしぶきを上げて、恐れ知らずの無茶な技の数々を披露してみせるポセイドンに、取り巻いた魔物たちは喝采を上げ、翼や尾びれを打ち鳴らしてあおり立てる。
碧の双眸を光らせて満足げな笑みを見せると、ポセイドンはひときわ音高く手綱を鳴らし、雄叫びを上げる魔物たちを従えて大海原へと戦車を駆った。
嵐のような大騒ぎを繰り広げポセイドンと魔物たちの一群が去って行った後、ようやく波の静まった海面に、ぽっかりと三人のニンフたちが浮かび上がって顔をのぞかせた。
「……行ってしまった?」
恐々と波間から顔をのぞかせる一人に、あとの二人がほっとした様子でうなずいてみせる。
「もう見えないわ……今日もずいぶんご機嫌だこと」
「ねえ、毎日毎日、飽きもせず騒がしいったら」
「やめなさいよ、うっかり誰かの耳に入って告げ口でもされたら面倒よ」
「でも」
「今はあの暴れん坊がこの海の主なんだから」
「そう、我らが海の王。
そして、ゼウス様の二番目の兄君」
「でも、やっぱり苦手だわ。
乱暴なんですもの、ポセイドンさまって」
「短気だし」
「ガサツよね」
言って、三人は顔を見合わせてクスクスと笑う。
そして、気分直しの楽しい遊びを探しに、たおやかな肢体をくねらせて浜辺へと泳ぎだした。
荒ぶる力を自在に、ときに気まぐれに振るう神ポセイドンは、オリュンポス十二神の上位に名をあげられると共に、冥府の神ハデスに次ぐ、主神ゼウスの兄神としても名が知れている。
しかしながら、ゼウスの持つ人々を惹きつける支配力、ハデスの同じ神々からも畏敬される威厳、そういった支配者としての魅力が、この力ばかりが強い主神三兄弟の次兄には欠けているらしかった。
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