波間に揺れる恋心 ③


「アムピトリーテ」


 穏やかな声に呼び止められて、金髪の女神――アムピトリーテは、海底の住まいに向かって慌ただしく家路を進んでいたのを止めた。


 声の主が、小山のような岩の上に座した老人とわかって、アムピトリーテは自分を守って取り囲んだイルカたちにそっと目配せをした。

 賢いイルカたちは、その態度から愛らしい友人の身はもう安全と察して、護衛のための囲いを解いて自分たちの住処へと帰って行った。


 親切なイルカの群れを見送って、アムピトリーテは岩の上へと泳いでいった。


「ただいま、父さん」


 親しげに身を寄せてくるアムピトリーテに、老人は穏やかな表情でうなずいてみせた。

 白髪白髯の老人の姿をしたこの神は、この世に海が生まれたときからその底に住まい、潮の流れの激しいときも静かなときも見守り続けてきた海の賢者、名をネレウスという。

 アムピトリーテはこの温厚な海の賢者の、娘たちの中の一人なのだった。


「おかえり。ずいぶん大慌てで帰ってきたね、娘や」

「だって……ねえ、父さん聞いて。

さっきおかしな奴に会ったの。

初対面なのに、いきなり話しかけてきて変なこと言われて……なれなれしくって変な奴だと思ったから、相手しないで逃げて来ちゃった」

「おやおや……」


 疲れた様子で肩にもたれかかってくる娘に穏やかな微苦笑を向けて、ネレウスはおっとりとした口調で尋ねた。


「それはどんな御仁だったかい?」

「どんなって……若い男だった。

黒髪で、いかにも荒くれ者って感じ。

派手な戦車に乗ってたかな」

「ああ、なるほど……そのお方はポセイドンさまだね、きっと」


 父の口から出た名前に、アムピトリーテは眉根を寄せて首をかしげる。


「ポセイドン? あの頭悪そうな奴がそうなの?」

「そんな口をきくものではないよ。

彼はこの海の支配者で、我々の王なのだからね」

「何よ、支配者って」


 アムピトリーテは父親から身を離すと、憤然とした様子で目尻をつり上げた。

 元から気の強い性格を表して輝く水色の瞳が、今は内心のいらだたしさもあらわにぎらついている。


「海は誰のものでもないわ。

あいつに偉い顔される筋合いないわよ。

あたしたちはあいつが来る前からずっとここに暮らしてて、自由に好きなようにしてきたじゃない。

それでうまくやってきたのよ。

あたしたちに王さまなんていらないわ。

しかも、それがあんな気持ち悪い奴ならなおさら」


 まくし立てて、アムピトリーテはほうっと溜息をついた。

 そして、黙然と娘のいらだちを受け止めてくれる父に、甘えるように身をすり寄せてつぶやいた。


「父さんが王になるんだったらよかったのに」


 ネレウスはそのつぶやきを聞いても凪いだ海のような表情を崩さない。

 思慮深いこの老父は、娘の怒りにも愚痴にもただ黙々と耳を傾けるだけだ。

 それが不満で、アムピトリーテは唇をとがらせると視線をあさっての方へ向けた。


 すねてそっぽを向いてしまった娘をなだめすかすように、ネレウスは枯れた手で優しくアムピトリーテの細い肩をたたいてやって言った。


「それよりも、姉妹たちが、お前がいないと言ってずいぶん探していたようだったよ。

早く行って、帰ってきたと知らせておやり。

きっと母さんのところにみんないるから」

「……どうせ、誰がいるかいないかなんて、ほんとはみんな気にしてないくせに」

「そんなことはないだろう、皆、大事な姉妹なのだから。

さあ、機嫌のいい顔を見せてごらん」


 ネレウスの手のひらがアムピトリーテの白い頬をそっとたたく。

 小さな子供にするような振る舞いがまた不満で、アムピトリーテはつんとあごを上げると岩の上から身を躍らせ、イルカのような身のこなしで住まいに向かって泳ぎだした。




 エーゲ海に浮かぶ多くの島々の中に、ナクソスと呼ばれる島がある。

 そのナクソス島の海底深くに、アムピトリーテとその家族たちは宮殿を築いて暮らしていた。


 濃藍の潮流をくぐり抜け、魚の群れといくつもすれ違ってたどり着く、深く静かな海の底。

 その海底の黒い岩の上に、ネレウス一家の暮らす透き通るように美しく巨大な宮殿は築かれていた。


 きらめく泡の帳をくぐり抜けて我が家に帰り着いたアムピトリーテを迎えたのは、まず盛大な嬌声だった。


「やだぁ、アムピー、やっと帰ってきたわ!」

「どこ行ってたのよ、この不良娘!」

「姉さんたち心配したんだからね! 

黙って出かけちゃだめでしょ!」


 立て続けの甲高いわめき声に、アムピトリーテはうんざりした様子を隠そうともせずに溜息をつく。

 まるでアムピトリーテを待ち構えていたかのように、帰宅するなり騒がしく出迎えたのは三人の若い女たちだった。

 三人とも目の覚めるような美人で、そして非常に声が大きい。

 広い宮殿中に響き渡るかというその声で三人は、


「みんなー、末の妹のお帰りよ!」

「またこの子がどこか行かないように、姉さんたちで捕まえておいてよ!」

「早く来てくれないとアムピーがまた逃げちゃうわ!」


 大袈裟にわめき立てる呼び声に、宮殿のあちこちの部屋から、次々に何人もの顔がのぞく。

 どれも若い女の姿ばかりが続々と――全ての部屋の帳が上げられると、それは何十人という数になっていた。


「なぁに、妹が帰ってきたって?」

「帰ってきたの? よかったわぁ」

「今度こそ家出かしらと思ったのに」

「ちょっと、そこ、何で残念そうに言うのよ」

「無事で帰ってきてくれて安心したわね」

「ほんとに。この姉不孝者!」


 部屋という部屋からぞろぞろと若い女たちが姿を現し、たちまちのうちにアムピトリーテを取り囲む。

 そして、口々に安堵や小言を勝手構わずしゃべり続ける彼女たちの人数を数えられる者が居合わせたとしたら、アムピトリーテを入れて総勢五十人にも及ぶ美女の群れに圧倒されたに違いない。


 彼女たちは皆、アムピトリーテの美しき姉妹たち、全員まとめてネレウスの娘たちネレイデスと世間では呼ばれている。

 全員が同じ両親から生を受けた、若々しく美しい海の女神たちである。

 全員が美しいだけでなく、ネレイスたちは全員が全員、非常なおしゃべりだ。

 なので姉妹が集まると、たちまちに誰が何を言って何と答えているか聞き取れないほどの騒ぎとなってしまう。


 かしましい姉妹たちに取り囲まれて、アムピトリーテは溜息と共につぶやいた。


「……女ばっかり五十人も……」


 これでは、誰がいるのかいないのかなど、たとえ家族であってもわかりようがない。

 だというのに、いつも自分の不在は把握され、帰宅の度にこんな熱烈な出迎えを受けるのはなぜなのか。

 アムピトリーテには納得がいかない。


 そして、納得できないことがもう一つ。


「しかめっ面しないで、可愛い妹」

「そうよ、みんな末の妹のこと心配してたんだから」

「だから、姉さんたちに妹の無事な姿をもっとよく見せて」

「……ちょっと!」


 たまりかねて、アムピトリーテは迫り来る姉妹たちを押しのけて怒鳴る。


「何でみんなして、あたしを末っ子扱いするのよ!」

「だって……」

「あなた、末っ子でしょ?」


 とぼける顔をにらみつけて、アムピトリーテはさらに声を上げる。


「何でそう決めつけるのよ! 

これだけ姉妹がいて誰が上とか下とかわかりっこないじゃない! 

あたしの下にも妹がいるはずでしょ!?」

「それはねぇ」


 アムピトリーテの抗議に、姉妹たちは顔を見合わせて声をそろえて言った。


「あなたが一番、幼く見えるからよ」


 居並ぶ姉妹たちは、それぞれに容色美しく、それぞれに魅惑的な姿態の持ち主で一人として同じ者はいないが、アムピトリーテよりも成熟した年頃に見えるという点で共通していた。

 自分の幼げに見えてしまう顔、華奢な体つきを姉妹たちと見比べてしまって、アムピトリーテは悔しそうに息を飲み込む。


 昔から、アムピトリーテはこのかしましく世話焼きな姉妹たちの中にいることが苦手だ。

 末っ子扱いされてやたらと構われることがうっとうしくて、ちょくちょく宮殿を抜け出し一人で過ごす。

 大人しいイルカたちと気ままに過ごす時間が何よりの憩いなのだが、それも帰る度にこの大騒ぎにもまれては、心安らかな気分も吹き飛んでしまう。


 今日はそれに加えて、変な男にも出会ってしまった――思い出して、アムピトリーテは眉をしかめる。


 むっつりと押し黙ってしまったアムピトリーテの腕を、何番目かの姉が引いて、


「さあさあ、そんな顔しないで、母さまにもただいまのあいさつをしなさいな」


 そして、姉妹そろって宮殿の奥の間へとにぎやかに連れ立っていく。


 宮殿の奥の間、ひときわ広く区切られた部屋は、ここの女主人のまします秘密の園である。


「母さま、アムピトリーテが帰ってきましたよ」


 金銀の細工物、きらびやかな衣装、織物の数々、紅玉、碧玉、水晶の散りばめられた首飾り、腕輪、宝冠などなど……海の底にもたらされ、そのまま暗闇の中で眠るはずだった目にもまぶしい財宝の全てが、この部屋に集められているかのような絢爛ぶり。


 そして、薄く立ちこめる蠱惑的な香の煙。

 腕を引かれるままに部屋にやって来たアムピトリーテは、めまいがするほど飾り立てられた様子に顔をしかめる。

 姉妹たちはむしろ嬉々として、部屋に入るなり好き勝手に、輝く宝石や装身具に手を伸ばしてはおもちゃのようにいじり出す。


 部屋の中央、深紅の珊瑚を組み上げて作られた玉座に腰掛けた女が一人、はしゃぐネレイスたちをとがめるでもなく、鷹揚な微笑みを浮かべてアムピトリーテを見つめて言った。


「にぎやかだと思ったら、帰っていたのね、アムピトリーテ」

「ただいま、母さん」


 素っ気ないあいさつに、玉座の女は寛容な笑みで応えた。


 たゆたうのは豊かで艶やかな緑の黒髪、おおらかな微笑はどこか官能的で、内に備わった魅力にその体ははち切れんばかりに輝いている。

 外にも内にも成熟しきった美をたたえ、見つめる者を惑わすような容貌と肢体の持ち主。

 珊瑚の玉座に座す彼女が海底の宮殿の女主人、海の美しき魔女ドーリスである。

 彼女こそがアムピトリーテら五十人のネレイスたちを産んだ母であり、海の賢者ネレウスの妻なのである。


「アムピトリーテ、今日はどこまで出かけていたの?」

「別に、いつもの小島。イルカたちと遊んでた」


 玉座の側にしゃがみ込んで、アムピトリーテは母親のひざにもたれかかった。

 ドーリスは長いまつげのせいで重たげなまぶたを伏せて、ご機嫌斜めらしい娘の顔を見つめる。

 探るような視線に居心地を悪くし、アムピトリーテは話題をそらそうと母の手元に目をやった。


「母さん、それ、なあに?」

「これ?」


 ドーリスは手の中の小さな壺を掲げてみせた。


「これはね、カタツムリのエキスで作った軟膏よ」

「……何?」

「これを塗るとね、肌にハリを保つ効果があるのですって」

「へー……」

「あなたも試してみる?」

「全力で遠慮する」


 今にも怪しい軟膏を塗りたくりそうな母の手から、アムピトリーテはさりげなく身を引いた。


 この母の困った趣味だ。

 五十人もの娘を産んだ美しき魔女は、その美貌を保つため、古今東西のあらゆる美容法を研究、実践することを趣味としているのだ。

 自ら実践するだけでは飽き足らず、娘たちをも実験台にしようとするから困る。

 そのたゆまぬ研鑽の成果あってか、ドーリスの年齢不詳な美貌は今なおもって輝いているのだったが。


「この間まで、保湿がどうとか言って油塗ってなかった? 

その前はお酢飲んだりしてたわよね、母さん」

「ああ、あれはね、エジプトではやりの美容法なのよ。

取り寄せるのに苦労したのだから。

さすが、エジプトの女王御用達だけあって、とてもいいものだったわ。

それで、今はこの新しい美容法を実践中」


 楽しげに微笑む母に、アムピトリーテはあきれ果てて溜息をついた。


 アムピトリーテには不思議でならない。

 あの物静かな老父は、この派手やかな母のどこが気に入って一緒になったのだろうか。

 あの父がこの母に、嫁になってほしいなどと言っているところは想像できない――と、思ったところでまた、最前の無礼な男の顔と台詞がよみがえってきて、アムピトリーテは慌てて金髪の頭を振った。


「――何かあったわね、アムピトリーテ」

「えっ……」


 ついあらぬ方へ考え込んでしまった不意を突いて、ドーリスがアムピトリーテの顔をのぞき込んだ。

 とっさにごまかそうとしてアムピトリーテは口を開きかけたが、ドーリスは素早くそれを制して、微笑みを浮かべた唇で強く言った。


「母親に隠し事しちゃダメ」

「うっ……」


 ドーリスの海底に似た深い色の瞳に見据えられて逃げられる者はそういない。

 アムピトリーテは釣り上げられたサバのように空しく口を開閉させて、そして、たっぷり時間をかけてから観念して打ち明ける。


「実は……さっきポセイドンに会ったの」

「あら、あの元気な王さまに? 

そういえば、あなたはお目通りがまだだったかしら。

他の姉妹たちはとっくにあいさつしたのだけれど」

「そう、初対面だったのよ。

だっていうのに、あいつ、いきなり話しかけてきたと思ったら……嫁になれとか、言ってきて……」

「嫁?」


 その一言に、部屋で好き勝手に遊んでいたネレイスたちが一斉にアムピトリーテを振り返る。


「何それ、いきなり求婚!?」

「どういうこと、どういうこと!」

「くわしく話しなさいよ、アムピー!」

「あのポセイドンさまがアムピーに求婚って!?」

「ちょ、ちょっと待って、みんな落ち着いて……」


 総勢四十九人の姉妹たちに一斉につめ寄られ、アムピトリーテはその剣幕に顔を真っ赤にして慌てる。


「うちの大事な妹に手を出そうなんて、いくら王さまでも許さないわよ!」

「だから、落ち着いて……」

「可愛いアムピーがお嫁に行っちゃうなんてイヤー!」

「人の名前、勝手に省略しないで――」

「末っ子のくせに姉さん差し置いて嫁入りしようなんて百年早いわよー!」

「末っ子扱いしないでってば!」


 声を上げても姉妹たちの怒濤の追求は収まらない。

 全員が前のめりになって、一言でも多くネタを引き出そうと食らいついてくる様に、アムピトリーテは圧倒されて身をこわばらせた。


「それでそれで?」

「あなた、なんて答えたのよ?」

「別に……」


 顔を赤くしたまま、アムピトリーテは視線を他所よそにそらして小さくつぶやく。

 その歯切れの悪い様子は、姉妹たちの好奇心を更に刺激し、


「ちょっとぉ、もったいつけずに教えなさいよ」

「まさか受けたんじゃないでしょ?」

「最初はやっぱり、ちょっと思わせぶりに焦らしてみせて」

「そんな駆け引き、この子にできると思って?」

「まだ早いわ、アムピーにそんな恋の駆け引きなんて」

「あらぁ、そんなこと言っちゃう百戦錬磨の口から、ぜひご意見うかがいたいわぁ」


 勝手なことを口々に言い合って盛り上がる。

 そんな姉妹たちの様子を尻目に、怒ったような顔をして、アムピトリーテは素っ気ない口調で言う。


「……別に、なんとも返事なんかしないわよ」


 アムピトリーテの言葉に、母と姉妹たち、五十人分の視線と耳が集中する。


「ただ一言、言ってやっただけ」

「なんて?」

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