13. パン屋の店員さんが応援にきてくれた話③
「────そ」
ぷるぷるぷるぷる。
われながら、なかなかクサいセリフを吐いてしまったと後悔するのはその日の夜の話。が、現時点で真っ赤なこんにゃくゼリーとなっている長船にはそれを気にする余裕はなかったらしい。
口を“お”の形にして言葉を紡ごうとするも、なかなか至らず。結局それがかたちになったのはきっかり十秒後のことだった。
「……そ、そ、そうでしょうとも! 当たり前じゃないですか、せっかく……あの、来てあげたんですから! むしろ、ちゃんとがんばれてててくれないと困ります!」
こぶしをにぎったり、ひらいたり。うでをふりあげようとして、おろしたり。
くりっとした
(そんなに取り乱すようなことか……?)
まじめに“ありがとう”を言っただけなのに。
しかしよくよくかんがえてみると、こうして素直に気持ちを伝えるのは初めてかもしれない。
ふだんの邪見な素振りからしてみれば、彼女にとっては青天の霹靂だったのだろう。めちゃめちゃきびしい人たちがふいに見せたやさしさのようなものである。人目を気にする余裕とか、理性的な振る舞いとか、もろもろぶち壊しちゃっていたとしてもおかしくはない。
だとすると、突発的にはじまったこの個性的な盆踊りの原因の一端は俺にもあるということになる。もうちょっと優しくした方がいいのかもしれない。
「あれなんですから、私の応援は、それはもう、こう、ものすごいというか! 女神様のような包容力というか、なんか神々しい加護みたいなのが与えられる……みたいな! 本気を出せば、一般市民に過ぎない先輩なんて塵に帰すことまちがいなしなんですから!」
しなくていいかもしれない。
いまだに視線をうろうろさせている少女にちょっと残念な目を向ける。
てっきり善意による応援だとおもっていたが、本来の目的は俺を消し飛ばすことにあったらしい。照れ隠しにしたって火力が高すぎる。……べつに照れてるわけではないにせよ。
「……にしても、“先輩! せんぱーい!”だけじゃ、なにをどう頑張ればいいのかわかんなかったけどな」
「贅沢いわないでください! 私に名前を呼んでもらえるだけでもうれションものなんですからね!」
「うれションておまえ」
それに名前は呼んでもらえていない気が。初対面からこっち、“先輩”以外の呼ばれ方をしたことは一度もない。
だからなんだ、って言われれば、べつになにも、って言うしかないけど。
「先輩ってけっこう贅沢思考ですよね、私といてもあれなとことか、私と話しててもあれなとことか、私を前にしてもあれなとことか!」
「ごめん、補語を明確にしてくれないか。不安になる」
「鈍感、卑劣、醜悪、女の敵、です!」
「ごめん、やっぱなしで。ちょっと生きる気力なくなりそう」
急激にしおれる俺をまえに、長船はぷんぷん怒りつづけている。頬にはかすかに赤味がのこっているものの、わりかしいつもの、感情表現ゆたかな長船カナの姿だ。
ともかくも。
なにが引き金となったのかはわからないが元気になってくれたみたいだ。運任せみたいでみっともないが、背に腹は代えられないというやつだろう。彼女にバレないよう、心の中でほっと息をつく。
(──やっぱ、こっちの方がらしいというか。元気あってこその長船というか)
どこか保護者めいた気分でひとりうなずいていると、長船の奇行がぱたりと止んだ。
ただならぬ気配を感じてそちらを見ると、ジトっと湿気をふくんだ目がこちらをにらんでいる。
「……なんですか。その生温い視線は」
「ん。まあ、夏だからな」
「それでごまかされるとおもわれてるんでしょうか……不愉快です」
しばらくの間にらみつづけていた長船だが……やがてあきらめたように、もういいです、と息をついた。先輩ですもんね、とつづいたのが気になるところ。
それから我慢できないとばかりに、ぐいっと体をちかづけてきた。
「ちょ……」
おもわず息がつまる。これはたぶん、やばいやつだ。
まるで“言いたいことが山積みです!”とでも言いたげにこちらを見上げるきらきらした瞳。興奮のせいか、いつもより距離が近い。熱っぽいものを浮かべた瞳が直視できない。
逃げるように顔をそむけた俺に、至近距離ですぅと息を吸いこむ音がきこえた。
「先輩の試合みてました! すっっごくかっこよかったです!」
「……あーうん、そいつはどうも」
「長距離の人ってあんなに速く走れるんですね。ずっと走れるのもすごいですけど、ずっと速いのはもうワケわかんないです。しかも最後にカランカランって鐘がなったら、みんなもっと速くなって! おもわず『わぁぁぁっ』って言っちゃいましたもん、私!」
「……おう、そうか」
「あ、それと走るときのフォームも! ほんとにきれいっていうか、ぴしっとしてるっていうか! 先輩がユニフォームで走ってる写真、いっぱい撮っちゃいました! 一生の宝物にします!」
「……へいへい」
「あと、うえからみると走ってるみんな、ぐるぐるまわってハムスターみたいでした!」
「それは誉め言葉には聞こえないよ?」
すん、と冷静になる。おもわず
“同じところぐるぐる走っててなにが楽しいの?”とか“もうそれあれだよね、とっとこ走るよハ○太郎だよね”とか、長距離を走ってると割合よく言われるセリフではある。だが、そこはアスリート的に、こう、譲れない一線とおもっていただけるとうれしい。
どう褒めたらいいかわからないからって、とりあえず『かわいいものに例えておけばオッケー』みたいなの、やめよう。
「私、中学も部活とかはいってなかったので、すごく新鮮でした。大満足です。しいていえば先輩からファンサービスをもらえなかったことだけが心残りですね」
「アイドルじゃねえんだよ。必死こいて走る連中になに求めてんだ、おまえは」
走ってる最中に客席にむけて指さし、手を振り──とか考えてたんだろうか。
そんな余裕のあるやつはいないだろう。
とはいえ、悪気あってのセリフでないということはわかっている。
彼女にとってはほんとうに初めての経験で、初めて見た感想を、思ったまま口にしているだけなのだ。純粋無垢で、ときどきあさっての方向をむいた表現の数々に、おもわず苦笑してしまう。
(……ああ、でも)
長船はうれしそうに目をかがやかせていて。
満足げに笑っていて。
見ていて楽しかったです、と言ってくれて。
そこで俺も納得しておけばよかったのに、どうしても心にひっかかるものがあった。
聞いてどうにかなるものでもない。聞けば気まずくなるとわかっている。それでも──気づけば俺は口を開いていた。
「……そんなにがんばってるように見えたか」
「ええ、それはもう。普段の先輩はぶすっとしてだらーんとして『水分おおすぎちゃったパンです』みたいな顔してるのに、今日の先輩はふっくら焼き立てフランスパンでしたから! ……えと、あんなに真剣でがんばってる先輩は、私も初めてっていうか……その、かっこよかったと、思います、よ──」
「1位じゃなかったのに?」
長船はきょとんとした顔になった。
そして、間髪入れずにこう言った。
「順位なんて関係ないじゃないですか」
えっ、と声がもれる。長船はそのまま不思議そうに首をかしげる。
「あれだけ必死に、あれだけ苦しそうな顔をしながら走ってたんですから。誰がどう見ても先輩はがんばっていたとおもいます。点数でいえば100点中120点、そこから今後への期待と失礼な態度と愛の言葉が足りないので90点にしておきます」
「……」
「ぜんぶ知ってるとは言わないですけど、私だって先輩がどれだけ真面目に練習してたかわかってるつもりです。放課後も、夏休みにはいってからも、死にそうになりながら毎日走ってたじゃないですか。1位じゃなきゃがんばってない、なんてただの思い上がりだとおもいます。鬼畜です。鬼教官です。そんな先輩も好きです」
「……とくしゅな性癖だな」
つっこみをいれつつ、まあそうだよな、と内心で思う。
結果よりも過程が大事。積み上げた努力をこそ誇るべきだ。もっと気楽に、がんばったじぶんをほめてあげよう。
そんな言葉は、懸けてきたやつにとってはなんの気休めにもならない。
それはもう、しょうがないものだ。陸上にかけた想いをしらない彼女とでは、埋まらない溝だ。聞いてどうにかなるものでもないし、自分と相手の心の距離を知って気まずくなるだけ。だからほんとうに、これは余計で不要で
まあ、でも。
「安心してください。先輩が走ってる姿は最前列で私が見てましたから。その私が保証してあげます。先輩はいっしょうけんめいがんばってました、すごくかっこよかったです!」
ふん、と両手をにぎって気合をいれながら、どこかあどけない笑みでこちらを見上げる長船。見るものを元気づけるような、見ていておもわず呆れてしまうような、明るくて邪気のないそんな笑顔。
『──きみが順位にこだわるなんて、みたこともきいたこともないんだけれど──』
早乙女の言葉をおもいだす。
だって、それはそうだろう。だれかにほめられたって、だれよりさきにゴールしたって、自分が納得できなければ意味はない。
それが己に妥協を許さないストイックさというのか、傲慢で自己中心的な独り善がりというのかはわからないけど、少なくとも俺はそれでいいとおもっている。自分のなかにひとつくらい、そういう全部を好きに決めていいものがあったって、罰は当たらないだろう。
それでも。
「……そういうもんか」
笑顔の長船に、力なくため息をつく。
それは失望したとかではなく、良い意味のあきらめと、良い意味での敗北感からくるものだ。
彼女がそれで“よかった”というのなら、それならそれでよし、ということにしておこう。
自分が全霊を賭してきたものをだれかの評価に乗せるのはやっぱり抵抗があるけれど、一年に一度くらいはこういう日があったっていい。
だれかが応援に来てくれた日くらいは、そういうことがあってもいいとおもった。
「あ、そうだ、先輩あれ見せてくださいよ」
「あれって?」
「メダルです。3位ってことは銅メダルもらえたんでしょう? 運動会でもらえるような折り紙のメダルとはちがうわけじゃないですか。ほんとに金とか銅とかでできてるのかとか、やっぱり気になるじゃないですか!」
「……今回のはそういうのじゃないけどな」
インターハイやオリンピックなどと勘違いしてるのだろうか。メダルがもらえる大会なんて、そうそうあったりしないのだけど。
純粋な興味に目をかがやかせる後輩に、俺は毒気を抜かれてつい微笑んだりした。
◇
「そういや、まだ会ったりしてないんだっけ?」
「? だれにですか?」
「カナの友だちにだよ。そのための変装だったんだろ? 騒がれるのが嫌なら、一年の女の子たちにだけ声かけてくるけど。せっかく来たんだし、やっぱり話してくくらいはさ」
「みつきちゃんとりょうちゃんですか。んー、会いたいのはやまやまですけど、私もこのあとバイトがありますから……つかまると長くなっちゃうんですよね」
「……あー」
荷物をまとめおわり、俺と長船はサブ競技場の出口へ向かう。
午後からの試合に向け、ウォーミングアップをする人でサブ競技場の中が混んできた。俺たちがいたベンチのとなりにスパイクを
トラックの外側の芝生を歩く俺のななめうしろに、ぴったりと張り付くようにして長船。彼女いわく、“こんなスポスポした場所で文系女子が平気でいられるわけないじゃないですか”とのこと。通気性の良さではなく、スポーツスポーツの訳らしい。
「みっちゃんたちの試合は
「ん、そうか。ならいいけど」
「限られた時間のなか、友情よりも先輩を選んであげたってことですね。はいズキューン。惚れ直しましたか?」
「ん。したした」
「……なんだか先輩の方こそリアクションうすくありません? 疲れてるわけじゃないでしょうし、大人な対応みたいでちょっとムカつくんですけど」
「いや疲れてるんだよ。走ってるとこみてただろ」
「私の先輩はあれくらいで音をあげるほどヤワじゃありません」
「いつからおまえの先輩になった……いや、先輩ではあるけども」
ゲートをくぐってスタンド側へ。
アップのためか、サブ競技場へむかう人たちを避けつつ俺は長船と雑談をつづける。
「ははーん、さては照れてるんですね。本当は私と話せるのがうれしくて仕方がない、と」
「一種の負荷トレーニングだよな、メンタル的な。レース後にここまで自分を追い込める俺は、ひょっとするとほんとにロボットだったのかもしれないと思ってるところだ」
「トレーニング……バーベルを持ち上げる先輩……つまり私はいまから先輩に抱き上げられるってことですね。恥ずかしいですけど、うれしいので我慢します。どうぞ」
「やらないので腕とじてください。相変わらず想像力ゆた──ってかそれもうこじつけだな。連想ゲームもびっくりだよ」
「と言いつつ、楽しい先輩なのであった」
「そんなことはいっさい…………あーうん、そうね。楽しいです。たのしー」
いつもの元気を取り戻した彼女に、逆に元気を吸われながらまえを向いたそのときだった。
「──うん、本当に楽しそうでなによりだ。なにしろ楽しみすぎて時間を忘れるくらいだからね」
ぴしり、と。凍りつくようにその場に固まる。
聞いたことのある声。
見覚えのあるショートヘア。
貫禄のある仁王立ち。
すごくご機嫌なニコニコ顔。
スタンドの入り口まえでは我らが部長、
「なにか言うことは?」
「……抱っこは断る」
「……まだ言ってたのか。そっちはいい、もうとっくに始まっている、ぞ──」
一瞬、呆れるようにしたあと、物凄い冷ややかな目つきで俺を刺し殺してきた早乙女は、うしろにいる誰かに気づいてふっと真顔にもどった。
「──うちの部員じゃないな。はじめ君、こちらの女性は……?」
「あー…………まあ、いちおう紹介するけど」
俺を見る目つきよりずいぶんマシになっているものの、視線は後方にがっつりむけられている。ここで下手にごまかしても彼女にはお見通しだろうし、時間をムダにするだけだし、なにより命の危険がアブナイ。長船にはわるいが、こういうときは素直に話した方が早い。
確認するようにちらりと長船の方を見る。さっきまで半ば俺のうしろにかくれるようにしていた彼女は、いつのまにか真横に立っていた。俺の視線に、長船はメガネをはずして向き直る。
「えっと、じゃあまずカ──長船、この人は同期の早乙女サキ。うちの部のエースで部長をやってる。一年生の間じゃけっこう人気だって聞いたし、名前くらいは聞いたことあるんじゃないか?」
なにも言わずにこくりとうなずいた。視線が俺といたときより険しくなっている。……けわしくなっている? なぜだろう、ちょっと挑むような目つきなのが気になる。
「んで早乙女、こいつは──」
「はじめまして。近江先輩の正妻の長船カナと申します」
「側室がいるみたいな言い方やめてくんない?」
いや、てか妻ですらねえよ。
こいつのボケは一度につっこまなければいけない量が多くて困る。一粒で二度おいしいってやつか。ちげえよ。
「せい、さい。せいさい、制裁、正妻……つま、妻、か。……ふーん」
俺が脳内でひとりボケツッコミをかましているうちに、早乙女は俺と長船の顔を交互に見比べていた。
……なんでかな、なんかふっと瞳からハイライトが消えた気がするんだけど。
「──はじめ君」
「はい」
「説明してもらおうか」
「……はい。えっと、なにを……ですか」
「それはもちろん、きみとここにいる少女との関係についてだけど」
ド低い声。なんというか、生物が出しちゃいけない感じの音階に、反射的に背筋をただす。
それから早乙女はハイライトの消えた目でこちらを見つめ、カクっと首をかしげ、この世のものとはおもえない声音で、こう言った。
「まさかきみ、彼女と付き合ってるだなんて言わないだろうね。長船様ファンクラブナンバー3、通称オサファン四天王の一角を担うこの私の前で」
「すいませんもう一回はじめから言ってもらっていいですか」
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