12. パン屋の店員さんが応援にきてくれた話②


 足もとに差した影の主を見ようと、俺はおそるおそる顔をあげる。

 予想したとおりというかなんというか、そこには、見慣れた少女の姿があった。


「おつかれさまです、先輩」

「…………きてたのか」

「来ないはずないじゃないですか」

「いや、まあ、うん」


 灰地グレーのワンポイントティーシャツに動きやすそうなショートパンツ。ちっちゃなポーチを肩にかけ、正面に“とてもすずしいIt's so cool!”と英字の入ったキャップをかぶる、夏型スポーティ美少女のよそおいをした長船おさふねカナがいた。


 恰好かっこうとしては例のパン屋で働いているときに近い。どちらかといえば文系よりの彼女にさして違和感がないのはそのためだろう。

 ただし、夏の装いというのもあって攻撃力は2割増しだ。髪はうしろでまとめてアップにしているため、しろい首すじがあらわになっている。丈のみじかいズボンも目に毒だ。

 関係の近しい女子にそう肌色ろしゅつのおおい恰好をされると、男子こちらとしては少々直視しづらいものがある。


 だが、いまはそれより目を引くものがひとつ。


おさ──カナって」

「だれがエンゼルフィッシュですか」

「ふつうサンマとかマグロとかが先にくるんじゃないのか、そういうのって。いや、俺がわるいんだけど」


 意をけっして口を開くも、出鼻をくじかれる。しかもちょっときれい系の魚だ。抜け目ない。


「じゃ、なくてだな。おまえってその……視力わるかったっけ?」

「ダテです」

「……そうかい」

「似合ってますか」

「……」


 すちゃっとインテリ風にメガネをあげて見せる長船に、返す言葉がみつからず口をつぐんだ。

 いろいろとキャパオーバーだ。肉体の疲労とか、精神的なものとか、もういろいろ。


「……なにかいってください」

「……ん?」

「……ですから、その……おかしくないか、とか」

「あーいや、合う合わないで言ったら似合ってる方だとおもう。おまえがメガネかけてるとこなんて一度も見なかったから、ちょっと固まってた」


 不安そうな声。見ると、長船はわりに真剣な表情でこちらをうかがっていた。

 恰好を気にしていたらしい。しおらしげな態度に、どこか違和感を覚えつつ返答する。

 こういうときは『なにも言えなくなるくらい似合ってるってことですね』くらいは言いそうなものなのに。


「私も着けるのは初めてですから」

「へえ、そりゃまたどうして急に」

「言ってしまえば変装、ですかね。人目も大勢ありますし、おなじクラスの子たちもいるので、バレないようにというか」


 なるほど、と心の中でぽんと手を打つ。

 早乙女とはタイプの異なるものの、彼女だって十分人目をくルックスだ。清楚で可愛らしい子ウサギみたいなのが、むさくるしさマシマシの男子の群れに遭遇すれば……まあ競技場でナンパするようなアスリートはそういないとおもうが、とにかく面倒なのは確かである。

 悪い意味でなくたって、後ろ指をさされてひそひそされるのはあまりうれしいものじゃない。


「映画館みたいな商用施設ならまだしも、同年代が集まる場所の方がそういうの気になるもんな。うちの部員にしても……外部の人間がくることなんてめったにないし、カナみたいな人気者がきたらちょっとパニックパニックっていうか」

「──人気者かどうかはわからないですけど」


 なんか、ふてくされたようにしてうつむく長船。しごく控えめに、どこか恨みがまし気にジト目を向けてくる。……そこでなぜ俺にヘイトがむくのかは謎だが、こいつの理不尽はいまに始まったことじゃない。

 ちやほやされるというのもそれはそれで気苦労が絶えないみたいだ。ここは甘んじて受け入れておこう、ついでに心の中で唱えておこう。南無なむさん


 まあしかし、おなじクラスの友人たちと話していくくらいは、べつにいいと思うけれど──、


「ん、じゃあ友達といっしょにいたってわけじゃないのか。おまえのことだし、試合おわったらダッシュでおそわれる未来まで考えてたんだけど」

「私をなんだと思ってるんですか。……こういうの、初めてですし。いろいろ遠慮だってするんですよ、私も」

「いやえんりょって、おまえ──」


 そう言いかけて、俺はようやくに気がついた。


「カナ、おまえ大丈夫か」

「へ……?」


 いつもより覇気がない。元気がない。

 学校で優等生をしているときならともかく、俺単体を目の前にしたときの彼女はもっとわがままで積極的だったはずだ。


 うきうきと弾むような口ぶりで言葉のマシンガンをぶっ放し、こちらが言うこと為すことすべてを自身への好意プラスに結びつける。押し倒すどころかき殺すレベルで自分の好意も主張もまとめて相手に押しつける。

 究極のプラス思考にして絶対的行動主義者。無尽のエネルギーを以て吶喊とっかん・突貫する暴走機関車──それが長船カナだったはずだ。


 彼女に元気がない理由。そんなもの、この状況をみれば明らかだ。

 気温30℃をこえる真夏日。雲ひとつない快晴。日差しをさえぎる屋根はスタジアムのちかくだけ。芝生スタンドでの応援は炎天下にさらされつづける。

 くわえて彼女は真夏の大会とは縁もゆかりもない高校一年生だ。暑さに耐性のないものにとって、ここは地獄とそう変わらない。


 俺はぐっとのぞきこむようにして彼女に顔を近づけた。


「ふらふらしたり、頭ぼうっとしてたりしないか? 汗とまらなかったり腹が痛くなったり、あ、あと手足がピリついたりとかして──」

「ないですから安心してください。水分も塩分も適度に補給してますし、基本は日陰の場所にいましたから。熱中症とか、いちばん気にして対策するにきまってるじゃないですか」

「……ああ、そう。ならいいんだけど」


 硬い声で拒む長船。たしかに返事もはっきりしてるし、顔色もわるくない。見たところ異常はないみたいだ。


 ……いや、異常はある。

 元気はないし、声も硬いし、表情だっていつもの彼女とは異なっている。

 いまだって不機嫌そうな顔からなにかに気づいた顔、そして落ち込むような表情に逆戻りだ。


(……強情だし、言っても認めないだろうけど)


 なににそれだけ落ち込んでいるのかは、わからない。


 見ていてつまらなかったのだろうか……言っても彼女は否定するだろう。

 暑さで疲れたのだろうか……それは落ち込む理由にはならない。

 他の観客となにかトラブルでもあったのか……それならたぶん、彼女は俺に言ってくれるはずだ。ヘンなところで気を使わず、正面からぶつかってくれる彼女だからこそ、俺も気を許してありのままで話せるのだから。


(はなさない、ってことは長船自身の問題、かつ俺に関するなにかってことだろうけど──)


 こういうとき、鈍感で頭の回転めぐりのわるい自分に嫌気がさす。

 もっと要領のいいやつなら、ぱっと勘づいて彼女を元気づけてやれるんだろう。笑顔にしてあげられるんだろう。

 ……やっぱり、どう考えても役不足だ。


 こんな顔をさせてしまっている自分が、彼女に好きになってもらえる資格があるとおもえない。せっかくここまで応援に来てくれた彼女に、なにひとつ返せない自分が心底いやになる────。



『──こういうの、初めてですし──』



 ──ああ、でも。そのまえに。


 俺が落ち込むよりも前に。できることできないこと以前に。

 なによりもさきに、俺が彼女に言うべきことがあったはずだ。


「……先輩って、意外と皆からしたわれて──」

「──そうだった。わるい、先に言うべきだったな」


 思案の末に顔をあげる。

 なにか言いかけていたのはあちらも同じだったらしい。半ば独り言のようなつぶやきが彼女を遮るような形になってしまった。


 いったん間を置いてみる。長船はほうけたような表情でこちらを見ている。

 なら、と俺は口を開いた。


「ありがとうカナ、応援きてくれて。スタンドのはじっこ、ちゃんと声きこえてたよ」


 ラストはさすがにいっぱいいっぱいだったけど、と苦笑をこぼしながら。


 ──長距離走は集中力の戦いだ。

 長い時間をかけて徐々にすり減っていく気力と体力。

 位置取りにペース配分。細かいペースの上げ下げといった駆け引き、戦略。

 周囲の選手たちの呼吸。どこで先頭に立ち、どこでスパートをかけ、引き離すか。


 ラスト1周までをどれだけ有利に進められたとしても、最後の競り合い(スパート)に勝てなければ意味がない。ゴールテープを切るその瞬間まで、意識を途切れさせることはできない。

 ともすれば、応援は必然的に、余裕のある前半より残り少ない後半にあつまることになる。


(必要ない、とまでは言わないけど)


 試合や、応援する高校によって差はあるものの。

 レースの前半はしずかで、余分おとのない世界だ。


 だから。たとえこういう場面に不慣れな、だれかのかぼそい声であろうと。スタート直後から周回のたびに聞こえてくれば、気づかないはずがない。


「まあこれはカナに限ったことじゃなくて部のみんなもかな。“集中してると応援は聞こえない”、“かえって集中を乱すからやめてほしい”っていう人もたまにいるけど、俺は応援とか聞いちゃうタイプだから。……しょうじきな話、けっこう助かったよ」


 そうでなくとも。


 高校近くの駅から電車で数十分と、バスに乗り継いでもう少し。陸上部でもない彼女にとって競技場に来ることは初めてだっただろう。事前に行き方を調べて、電車の時間や乗り継ぎの時間、レースが何時に始まるのかをチェックして。

 この灼熱のなか、それだけの苦労をしてここへ来てくれたこと。知らない人たちに囲まれながらも一生懸命に声援を送ってくれたこと。


 それはどう考えても、簡単にできることではないと。


「だからありがとう。親でも部員でもない人に応援してもらうのは初めてだったから。その、少し……がんばれた気がする」

「────そ」


 いつも振り回される身としては、これだけ大仰に伝えるのは恥ずかしいことかもしれない。それでも、ここまでしてくれた少女の誠意には、せめて偽りのない感謝を。

 もちろん、俺ひとりを応援しに来たわけじゃないかもしれないし、彼女が望んでやってきたという部分もあるかもしれない。

 それでも、支えられたのは確かなのだから。


 めずらしく穏やかな、自然な気持ちで笑顔をむける。

 淡く沈痛な面影を浮かべていた彼女は、いまはおおきく目を見開き、顔を真っ赤にしながらぷるぷるしていた。

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