11. パン屋の店員さんが応援にきてくれた話


 ────呼吸音。


 荒い息遣いは前を走る男のものだ。ぜえぜえ、ひゅーひゅー、と今にも死にそうな顔をしている。

 そんなに苦しいならやめればいいのに、と思いかけて──やめた。特大のブーメランだと気づいたからである。表情かおには出にくいタイプだが、こっちだって相当ぎりぎりだ。


『ここで鐘がなりまして、先頭の集団がラスト400mを切りました! この1周は72秒、先頭を走りますは三沢高校の橋本くん、その後ろぴったりくっつくようにして浜崎高校の中辻くん────』


 景色がうしろに飛んでいく。灼熱のブルータータンに選手たちの足跡がつけられていく。

 鉛の足、破裂パンク寸前の肺、血液が沸騰しているのか筋肉が断裂しているのか、全身がだるくて熱くて痛い。

 ……しょうじき、もうめたい。ぜんぶめにして楽になりたい。

 そんな弱音を押し殺して顔をあげる。今はとにかく身体をまえへ。息を吸って、前方にあと何人いるか数える。


 同じ集団にひとり、ふたり、さんにん。少し離れてひとり、そのさらに向こうに──。


(──あれは、無理だな……)


 距離にして約100m、およそ十数秒の差だ。

 どれだけラストをってここからではもう間に合わない。


 闘志とうしの火が消えそうになる。それが視覚的に“離れている”ことを認識した途端、と動きが鈍くなった。肺の痛みと心の弱さが重なって、鉛の足をさらにおもくする。


(──っ、こっちも、わりとがんばってんだけど、な──)


 なんだかなぁ、って気分だ。まえを走る全員、化け物に見える。


 カランカランと真横で鐘が鳴らされ、周囲の圧がひとつ上がるのがわかった。集団からはまだ誰も飛びださない。ラストスパートに向けてじりじりとペースが上がっていく。

 死肉をまえにしたハイエナみたいだ。牽制けんせいしあい、探り合い、周囲より一秒でも早くゴールをかっさらおうとする。いまはなんとか着いていけているが、ゴール前の競り合いまで保つかはわからない。


(一位争いじゃないってところが、またっぽいよな)


 気力も体力も限界のなか、どうでもいいことを考えてしまう自分がなんだか可笑おかしい。

 試合中にもかかわらず、おもわず苦笑しそうになって────、



『──!せ──、──いっ!!』


 拙いながらも、必死に声を張りあげるだれかさんが見える。


 背の高いジャージ姿に埋もれないよう、ぴょこぴょこと上下するあたま。

 他校の応援団の野太い声にかき消されそうになりながら、こえよ、おもいよとどけ、とばかりにこぶしを振りあげている。

 普段のイメージからすると少々不釣り合いだ。清楚な優等生からも、生意気なパン屋の店員さんからもかけ離れている。


 ──似合わねえ。

 体育会系の部活生に囲まれている姿とか、柄にもなく大きな声を出して手すりから身を乗りだしているその様子とか、いつもの余裕な態度はどこへやらの必死な表情とか。

 ……ほんとに似合わない。これも、返ってくる言葉だけど。



 視線を前方まえに戻す。

 もう一度息を吸って、内側の熱をあげた。





 さんざんに降りそそぐ陽光とバケツの絵の具をぶちまけたような一面の水色。

 うるさいくらいに響くセミの声に、負けじと張りあげられた歓声かんせい、声援。

 バックスタンドの芝生とその向こうにそびえる雄大な緑。そこから吹き降ろされた風が木々の匂いと湿気をまきこみ、ほんの少しだけ、会場にただよう蒸し暑さをまぎらわせていた。


 雲ひとつない、これ以上ないくらいの真夏の快晴である。



 最寄もよりの駅から北へ約3km。街の喧騒けんそうと人ごみから離れたのどかな田園風景のなかにその競技場は立っている。

 入り口のロータリーから階段をのぼって正面、ラ○ュタのロボット兵の親戚みたいな見た目をしたメインスタンドと、その内側、トラックのスタートから300m地点までをぐるりとかこむ芝生スタンド。

 街の中心部を流れる河川を模したブルータータンのトラックはこの競技場の目玉だ。

 メインスタンドからみて左側には巨大な電光掲示板が立っており、試合の結果や競技中の様子、スタンド席にすわる応援団や熱中症のお知らせなんかをせわしなくスクリーンに映しつづけている。


 真夏の陽気にいろどられた古川ふるがわ陸上競技場は、この日のために修練をかさねてきた高校生アスリートたちと、大会の応援につめかけた人々の熱気でさらに温度をあげているようだ。

 夏の大会というのは誰しもを熱中させる不思議な魅力がある。


 ──とはいえ。

 さきほどまでその暑さのなかを文字どおりいた俺にとっては、うんざりするものもあるわけだが。


「やあ、お疲れはじめ君」

「ん、おう」


 ぐったりとした体をひきずり、競技場のとなりにあるサブ競技場に向かっていた俺は、頭上からかけられたねぎらいに足を止めた。

 見上げると、スタンドの2階から高校うちの部活の女子が顔をだしている。


「さっきの試合、ベスト?」

「──いちおうな」

「そうか。それは喜ばしいな」


 小さく肩をすくめてみせると、そいつはこっちの心境を見透かしたようにくすりと笑い、ひょいと顔を引っ込めた。

 そのままスタンドに戻るのかと思いきや、階段の手すりごしにこちらへ近づいてくるショートの黒髪が目に入った。

 ……律儀なことに。ここまで下りてくるらしい。



 彼女の名前は早乙女さおとめ 早希さき

 我らが奥山北おくやまきた高校陸上部の短・中距離エースにして部長。ついでにいうと、4人しかいない2年生どうきの1人だ。


 見た目に関しては“かっこいい”の一言に尽きる。

 “眉目びもく秀麗しゅうれい”を絵にしたような端整な顔立ち。強くてしなやか、それでいてすらりとした手足。手入れは欠かさずとも健康的に焼けた肌は、彼女の陸上に対する努力と執念しゅうねんの証だろう。

 あえて動物にたとえるならだろうか。美しい黒の毛並みと強靭きょうじん四肢しし、人々をきつけてやまないルックスが彼女にぴったりだとおもう。


「む。きみ、いまわたしを肉食獣に例えようとしていなかった?」

「……良い意味だから安心してくれ」

「それで安心できるほど私の乙女心は風化していないんだけどなぁ。まあはじめ君だし、ゆるしてあげるか」


 早乙女はとくべつ気を悪くしたふうでもなく、むしろ上機嫌にそう言ってにこりと笑った。

 見た目に反して性格は寛容かんよう、適度にユーモアがあり、おまけに身体能力もたかいとくれば……まあ、ご想像のとおり。男子より女子にモテるというのも、あながち嘘ではないらしい。


「あらためてお疲れさま。こうしてみると──うん、ほんとにくたびれてるな。きみがそんな顔をするなんて……ちょっと安心した。“疲れた”って感情、あったんだね」

「人をロボットみたいに言いやがって。真夏の5000mごせんだぞ、疲れないほうがどうかしてるだろ」

「だってはじめ君だし。どうせまた“じゃ、自主練れんしゅうしてくる。荷物たのむわ”とか言うつもりだろ」

「完全燃焼だよ、今日はもう一ミリも走れそうにねえ」


 ひょいひょい、とあしらうように手を振る。

 おや意外だ、と早乙女はすこし目を見開いた。


「タフさと根性じゃあ、部でも負けなしなのにねぇ」

「────」


 心底おどろいたような彼女の声音に口をつぐむ。

 ──負けなし、などと。

 ほかならぬ彼女にそれを言われるなんて、いったいなんの罰だ。


「……ん? どうかした?」


 はぁとため息がこぼれる。

 努力にはそこそこ自信のあった少年が価値観を変えられた話はいったん置いておくとしよう。過去を想いかえして自虐じぎゃくに浸るようなそんな趣味はない。それも断崖だんがいから身を投げるレベルの羞恥しゅうちとくればなおさらだ。

 ごきっと、というのはもちろん首の骨を折られた音である。


「まあようするに、俺も人間モブだってこと。人並みに疲れたり弱ったりする日もあるんだよ」


 そこんとこご理解いただきたい、と話を切る。


 なにはともあれ、ロボット感覚でこき使われていてはこちらもたまらない。

 男手が足りないのはしょうがない話だが、彼女が部長に就任してからというもの、部の力仕事が高頻度で俺に舞い込んでくるようになったのはどうもその辺りにある……のかもしれない。


 こちらの顔をのぞきこみながら、早乙女は口元に手を当てじっとなにかを考えている。

 そうやって真剣な表情をしている彼女はドラマにでてくる女優ヒロインさながらだ。すずしげな目元と伏し目がちにのぞく黒い瞳が、視線の先の相手をこの場にとどめて逃がさない。

 おもわず背筋をのばす俺に、早乙女はしずかな声でこういった。


「つまり、倒すなら今しかないって、こと?」

「……労わってくれってことだな、どっちかというと」

「ひゅひゅっ、ひゅひゅっ、さあついてこれるかな、私の速度に──っ」

「…………楽しそうでいいな、おまえ」


 ぽすぽすぽすぽす、と胸のあたりにジャブる早乙女。

 冷たい目を向けるも、当の本人は無邪気な子供の笑みだ。目の前のモブを打倒するのでいそがしいらしい。なんというかいろいろ台無しである。


「はぁ……素がでてるぞ、部長。後輩とか他校の人の前では“部長として尊敬される姿、威厳ある姿をみせる”んじゃなかったのか。ここ、スタンドの正面入り口だけど」

「む。私はいま、はじめ君とはなしてるんだ。気の置けない友人とコミュニケーションをとるのにどうして飾ったり気を使ったりする必要があるだろうか? いや、ないな。微塵も」

「みじんはあれよ」

「だらしない姿を見せているのだとしたら、それはだらしない姿にさせている君の責任でもある。わぁるい男だなぁはじめ君は」

「どないせえゆうねん」


 ちょっとイラっとした。おもわず口調が関西っぽくなった。

 人間、追いつめられると変な方向に目覚めるらしい。


 反応が面白かったのかクスクスと笑いはじめる早乙女。これで顔だけはいいもんだから困る。それも誰かさんとはちがって素これなのだ。

 いまだって彼女のうしろ、他校のマネさんらしき子が見惚れるようにして立ち止まったのが肩ごしにみえた。


「立ってるだけで惹き寄せちまうんだもんな。誘蛾灯ゆうがとうみたいなもんか」

「その論だと君は松脂まつやにになるね」

「……そのたとえはどうなんだ?」

「安心しなよ、褒め言葉だからさ」


 どう、うれしい? うれしい? とこちらをのぞきこむにやけ面。

 もう言い返す気力もわかない。


「ありがとうと言っておくことにするよ。疲れてるんで、頭つかうのはいまは勘弁しときたい」

「投げやりだなぁ。けどそれだけ疲れてるってことは、それだけがんばったってことじゃないか。試合の内容もよかったと思うけどな、私は。

 ──うん。たしかに前半は集団にのまれていつもの感じじゃなかったけど、よくねばったとおもう。あの状況、位置取りすらむずかしいはずなのに、冷静にペースに合った集団をえらんで着いていったのも流石だとおもったし。ラストもよかったよ、スパートのタイミングもふくめて」


 くすくす笑いをひょいと引っ込め、急に真面目な表情にもどる。

 陸上の話をするときの彼女はいつもこうだ。それが自分のことにせよ相手のことにせよ、大事なことにしても軽い世間話程度のものであったとしても、走りを語る彼女の瞳はいつもしずかでまっすぐだ。


 こういうところだよな、とおもう。

 同期生どうきなのに──いや、友人どうきだからこそ、彼女の瞳にうつる自分が情けない姿をしているのは我慢できない。

 良くも悪くも人生観を変えられた身としては、やっぱりいろんな意味で彼女には頭があがらない。


 なんてことを言うのもなので。

 胸中に浮かぶ嫉妬しっととも憧憬どうけいともつかないあれやこれやを飲み下し、かわりに俺は苦笑をうかべた。


「早乙女にしてはめずらしくベタぼめだな。おまえにそこまで評価してもらえる日がくるなんておもわなかったよ」

「あれ、そう? 私の中では君、わりと高い位置におかれているはずなんだけど」

「気に入った人間には妥協を許さないのがおまえだろ。こんなに褒められたのは、女子の部室にでたカメムシを一匹のこらず引き取ったとき以来だ。昼過ぎあたりから雪でも降るんじゃないか?」

「ふふ、そうだとうれしいけどね。なにせこの暑さだ」


 彼女は空の具合をたしかめるような仕草をし、ふっと涼やかな笑みをよこした。

 うしろであがった“きゃっ”という女子の悲鳴は、聞かなかったこととする。


「それだけいい走りだったってこと。結果もでてるんだし、もっと嬉しそうな顔をすればいいのに」

「…………えー」

「む。いやそうな顔だなぁ。なんだい、私のねぎらいじゃ満足できないってことかい」


 まったく、と腰に手をやり片頬をふくらませる早乙女。

 ご立腹な彼女に、そうじゃなくて、と首を振る。


「あれだよ──けっきょく一位には届かなかった、ってところが、すこし」


 なんとなく彼女の表情が見れなくなって下をむく。

 案の定、目の前の少女からは衝撃──、困惑──、狼狽──といった感情の波が伝わってきた。


「──う、え? って、あれかい? 着順でいうところの、一位、二位ってやつかい?」

「ほかにどんな一位があるんだよ」

「うそだろ、きみ。順位にこだわるなんて、それこそいまだかつて見たことも聞いたこともないんだけど。いや、ふつうはそっちがおかしいんだけどさ」

「……べつにいいだろ。たまには」


 ……などと言いつつ。理由はまあ、わかっている。

 というか明白。これ以上ないくらいに明瞭めいりょう簡潔かんけつ。ただそれを受け入れるのもしゃくというかなんというか。

 口にするのも野暮だし、誰かに聞かれると面倒だし、なにより、自分に負けたみたいですこし悔しい。


 そんな心の動きを読んだのか。視線をあげると、早乙女はいぶかしむような表情で俺の頭からつま先までをじろじろと観察していた。


「あやしいな。きみ、ほんとにはじめ君?」

「現実でその言葉を聞くとはおもわなかった。にせものだよ、って言えばいいのか」

「その居心地の悪そうな表情はたしかにはじめ君だ。あまりつっこまれたくないからとりあえずはぐらかそう、ってのも君らしいね」

「…………」

「うーん、順位にこだわる理由も聞きたいところだけど、それはおいおい吐かせるとして──とりあえずわかった。新たな生態としてはじめくん図鑑ずかんに書き込んでおくとしよう」

「なにが書かれてるのか知りたいような知りたくないような図鑑だな」

「よし、立ち話もあれだしそろそろ戻ろうか。スタンドうえにはいま里美さとみ唯葉ゆいはもいるからね、くわしいことはそこで聞くことにするよ」

「あーいや、俺はこれからダウン行ってくるわ」


 そう告げると、階段へ向かいかけていた早乙女の足がぴたりと止まる。


「……それは、逃げるための言い訳、とかではなく?」

「ん。試合後の津田先生への報告が長引いちゃってな。ちょうどトラックはこの時間空いてるし」

「ずいぶんのんびりさんだな。急げよ、フィールドで13時から由梨ゆり先輩の幅跳びはばだぞ」

「あの人なら決勝は確実だろ。それまでには間に合わせるよ」

「その口ぶりだと予選は見ないというふうに聞こえるけど」


 まあ仕方ないかなって、とうなずくと、早乙女は非難するように目を細めた。


「この恩知らず」

「いや、できるだけ急ぐつもりだけど、身体の管理も大事だし。高瀬も加藤もいるってことは、けっこう残ってるんだろ。ぶっちゃけ、一人いなくてもそんなに変わらないかなって」

「あのねぇ。きみ、先輩たちからどういう風にみられてるか、気づいていないの?」

「……まじめな、部員とか?」

「──日本人は美徳というけど、過ぎるとそれも罪だよね」


 呆れがちな声音と冷たい視線がつき刺さる。

 彼女のいう“他人ひとまえでは見せないお茶目な一面”とやらの相手もなかなか疲れるが、こっちの冷ややかな態度もこれはこれで応える。


 くわえてこちらは酷暑を走り切った身だ。

 疲労で弱っていたメンタルにぐさぐさと刃物が突き立つ音がした。


「わかった、とにかくさっさと行ってきたまえ。まあ遅れたらどうなるか──わかってるよね」

「……りょうかい。善処する」

「遅かったら迎えに行くからな」

「お姫様かよ、俺は」

「お望みならもつけてあげるけど? 同学年の女子に抱きかかえられたまま颯爽さっそうとスタンドを横切るはじめ君──意外といい絵面になるかもね」

「やめてくれ、想像しただけでも身震いする」


 じゃあ、と背中を向ける。

 とぼとぼと歩き去る俺の耳には、早乙女のため息が聞こえたような気がした。





 競技場のとなりにあるサブ競技場は、一周300mの小ぶりなトラックだ。

 こちらはノーマルの赤い──学校の土のグラウンドとは違い、水はけがよく濡れてもすべりにくいゴム製の舗装材ほそうざいが敷き詰められている。

 俗に言う全天候型オールウェザーというやつだ。雪と雷には対応していないところが悔やまれる。


 試合のある日は、主に大会に出場する選手たちが試合前のウォーミングアップや試合後のクールダウンに使用する。

 土やコンクリートと、ゴム製のタータントラックでは踏み込み具合や反発がまるきり違う。トラックレースはコンマ1秒を争う世界。足を慣らすという意味でも、タータンをつかった準備は欠かせない。

 いわば野球のピッチャーでいうところのブルペン、バッターでいうところのバッティングセンターみたいなものだ。後者はちがうか。

 

 トラックのレースが再開されるのはお昼をはさんで午後から。今の時間帯、まだ午後のレースのアップに来ている者は少ない。

 ゆったりとしたペースでトラックの内側を3周。芝生のうえにあおむけに寝ころび、ストレッチをしながら疲れて固まった筋肉をメンテナンスしていく。


「──つっ、いててて」


 頭上はちょうやくたすかぎりの青一色。

 走っている最中は全身の血と筋肉にくと骨と関節その他もろもろが“いや、これもうやめません?”と、ひかえめに死に物狂いに訴えかけてくるくせに、走り終わった後の気持ちはくっきりはっきり晴れやかだ。

 いまは全身の気怠さでさえ気持ちがいい。レース後の疲労感というのはある種とくべつな感覚に分類されるのだろう。それと、こういう日は、とくに。


「ほんっと、我ながらドМだよなぁ」


 苦笑をひとつ。抱きかかえていた膝をはなし、体を起こす。


 トラックの外にあるベンチに座って靴ひもを結び直していると、スタンドの方からトランペットの音色とともにざあっと歓声がとどいた。

 跳躍ちょうやく投擲とうてきといったフィールド種目はトラックレースより早くはじまる。たしか、走り幅跳びの少しまえに、やり投げが開始する予定のはずだ。

 いそぐか、とひろげた荷物を袋に放りこんでいると、ふっと足元に影が差した。


 小柄で、ジャージにしては少し飾りのあるシルエットである。影の主は俺の真横で停止したままうごく気配がない。気のせいでありますように、と念じながらおそるおそる顔をあげる。

 予想したとおりというかそんな予感があったというか、見慣れた顔がこちらをじっと見つめていた。

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