10. 部活の帰りに例のパン屋さんに立ち寄る話
熱い。
フライパンにふたをして中火で蒸し焼きにされる食材の気分。いまなら、ピーマンにだってやさしくなれる気がする。
七月某日。あけ方から順調に記録をのばしていった気温は正午を目前にしてついに35℃台を突破。この町にとっては今年初めてとなる猛暑日となった。
灼熱のグラウンドから解放され、ぐったりとした体で家路についたのが正午過ぎのこと。
ま違いない。あと数分で、俺は焼け死ぬ。
運動部ってバカだよな、っておもう。
水泳部とか室内競技ならまだいい。この暑さで太陽のしたを走りまわっているひとたちは、もう頭がおかしいとしか言いようがない。
帽子をかぶって適度に水分をとるようにすれば大丈夫──じゃない。医学的・科学的な根拠の話とかじゃない。体感と直感がそう言ってる。みんな死ぬ。ひとは太陽にかてない。
ぽたり、と汗があごをつたって地面に落ちる。道路のアスファルトから立ちのぼる
日の下をさまようゾンビとなって亡者の行進をつづけていると、うつろにゆれる視界にある建物が映りこんだ。
「ぅぁぁ……あ?」
木の葉を何枚も重ねたような深緑色の屋根と、太い丸太を組んだログハウス。店の手前に出した看板には大きく“本日のおすすめ!”という文字が書かれ、手書きのイラストでいろいろな種類のパンが描かれている。
山奥にたたずむ木こりの家を連想させるその建物。俺の行きつけの店であり、そして
「……よってくか」
彼女に店内で告白された日から、店には足を運んでいない。
あの日のあの現場を見られていた店員さんと顔を合わせるのは気恥ずかしいし、なにより長船カナ自身に出会う可能性があるので、正直行きづらい。
ふだんあれだけ一緒にいながら今更なにを、な話ではあるが。
だが今はそんなことを言っている場合じゃない。
体温調節と
そもそも彼女に関係なく、もとから行きつけのパン屋さんだったわけだし、実際これから行くのだってパンを買うためであるのだから問題ない、のだし。
なぜかそんな言い訳を頭のなかで並べ立てながら、俺はその木組みのお店へふらふらと吸いよせられていった。
◇
「いらっしゃいませ」
チリン、と涼しげな鈴の音を鳴らしてドアをあける。一歩なかに踏みこんだ
それまでの思考と感情がふっとぶ。天国だ、ここ。
冷気にいざなわれるようにしてなかへ。入り口においてあるトレイとトングをつかんでパンの棚へむかう。その前に、なんとなく店内を見渡してみる。
レジには20代くらいの若い女性の店員さん(あの日の店員さんだ……まあ仕方あるまい)。ほかにお客さんが二人ほど、トレイにパンをのせてカウンターに向かっている。
彼女の姿はない。
ふっとため息がこぼれた。
“いなくてよかった”という
「……まあ、付き合う体力ものこってないし」
だれにも聞こえないくらいの声でつぶやき、パンの棚に目をやる。
この暑さといえど、部活の練習をしてきたおかげで腹は空いてる。店内の冷房のせいもあるのだろう。香ばしい匂いを立たせるご
「昼は自分で用意しろって言われてるし、がっつり買っても大丈夫か。──ここは定番の“ごつ盛りやきそばパン”……それに、期間限定の“冷やしみかんタルト”。 あーでもたんぱく質とれるのがいいんだよなぁ」
ひょいひょいとトングを動かし、トレイにパンをのせていく。行きつけというのもあってこのあたりの手つきは慣れたものだ。
この店のパンはどれもおいしい。おいしいのに値段は手頃という、すばらしいお店だ。
店長さんもチャレンジ精神にあふれているらしく、新
「“和風てり焼きチキンわさび”……ありかもな。“スペースからし豚カツマヨ”……スペース級にうまい、ってことか? “店長のおすすめホットドッグ~ミーアキャットと青い夏~”……なんだろう、過去最高レベルにわからないやつ出てる……」
「そこに気づくとは、さすがお目が高いですね。通常のホットドッグにカレーソースとチーズをくわえ、ハーブや香辛料で独特な味付けをした当店人気ナンバー3にはいるおすすめ商品ですよ、先輩」
「え、まじ。じゃあ買おっかな────ん」
なかなか上手な説明だ。気になる部分の補足と、くわえて購買意欲をそそる文言が
なんだか聞き覚えのある声だ。おもにここ数日の間でよく聞くようになった、一学年下の少女の声。
おそるおそる振り返る。背後には、満面の笑みでこちらを見つめる彼女がいた。
「お久しぶりです先輩。終業式の日にお会いしたのが最後ですから、五日ぶりくらいですかね。やっぱり、私に会えなくてさびしくなっちゃったんですか」
いた。いたわ。
さっきは店の奥にいたんだろうか。私服とかじゃなく、ちゃんと制服で働いている。
グレーのシャツに黒のエプロン姿。じゃまにならないようにしているのか、髪はうしろでまとめてポニーテールにしている。前髪もシンプルな髪留めで分けられ、くりりとした目がはっきり見えていた。
学校での制服とも休日の私服姿ともまたちがうクールな出で立ちだ。色合いのせいもあって、ふだんの彼女よりすこし大人びて見える。
中身があれでなければ、少しは
「あのな……パン屋さんだろ、ここ。ふつうにパンを買いにきたんだよ」
「私もさびしかったです……先輩もおなじ気持ちだったなんて、なんだか照れますね」
「おまえはほんと変わらないな」
えへへ、と気の抜けたような笑みを浮かべる長船。相変わらず元気そうでなによりだ。ちょっとでいいから分けてほしい。
「そんなこと言って、ほんとは私に会いたくてわざわざ来てくれたんでしょう? しょうじきになってくださいよ、このこの~」
「部活の帰りがけに寄っただけだっての。あと緊急避難先みたいな。いま外やばいからな、まじで」
「ああ、それは……ご
まったく先輩は、という目つきで見上げられる。
しなびたニンジンに愛着わいてる方がおかしいと思うんだけどな、俺は。
「というか! 夏休みにはいって気づいたんですけど、私まだ先輩の連絡先もってませんでした!」
「おう。教えてないからな」
「なんで言ってくれなかったんですか! 学校なくてもいつでも連絡できるし……っておもってたのに! この数日間、深刻な“先輩エネルギー”不足で家計が火の車だったんですからね!」
「俺エネルギーってなに。そして何に使われてんの、俺エネルギー」
あれかな、やっぱ発電とかに使われてんのかな。家計にひびくとか言われてるし。すげえな俺エネルギー。
「ちょっと待っててください、いまスマホ取ってきますから」
「仕事中なんだから我慢しろって。……それに、交換してもしばらくは忙しくて付き合えないぞ」
「そ、れは……ざんねん、ですけど。なにかあるんです──はっ、浮気……?」
「想像力ゆたかだな」
さっとカウンター奥に消えようとする長船。すかさず首根っこのあたりをつかまえる。
みょーんと制服を引っ張られてこちらを振り向く彼女は、最初におどろいたような顔をし、ついでなにか重大なことに気づいた探偵のような顔をし、最後に捨てられた子猫のような絶望的な顔をした。……なんか、ちょっとだけ胸が痛む。
「大会が近いから。いまはそっちに集中したいというか……そんな感じ」
あんま夜更かししたくないし、とつづける。
嘘ではない。嘘ではないが、おもわず視線がおよいでしまう。
連絡先を交換していないのは、彼女の方から聞いてくることがなかった、というのもあるし、俺の方で意図的にその話題を出してこなかった、というせいでもある。
彼女と連絡先を交換すれば……その先の展開はなんとなく読める。四六時中メッセージがとんでくる、とまではいかなくても、それなりの頻度で話したりするのだろう。
話すのが嫌だ、というわけでは、全然ないのだけれど。
大会に集中したい、というのは部活に入っている者なら多かれ少なかれ共感できる部分だとおもう。それでも、それを理由に断ろうとしてしまうのは──彼女の言葉にいちいち心を揺らされてしまう、俺の弱さのせいだろうか。
ちらりと盗み見るようにして彼女の表情をうかがう。
一方、相手は他のワードに関心をうばわれたらしい。
「大会……
「次の週末、だけど」
「え、行きたい」
両方のこぶしをにぎり、目をきらきらとかがやかせはじめる。
純粋な興味と期待の視線がまっすぐこちらをつかまえて離さない。
「いや、来なくていいって」
「行きます」
「めっちゃ暑いし、見ててもひまだぞ? 短距離とか跳躍みたいな華(ハナ)のある種目ならまだしも、長距離なんてずーっとトラック走ってるだけだからな」
「大会ってことはいろんな高校の人たちと走るんですよね。なら応援もしないといけないし、先輩がユニフォーム姿で走ってるの、一度見てみたいです。いえ、見なければいけません。妻として」
「妻じゃねえよ」
なんで責任感みたいなの出ちゃってるのかわからない。
確認しておくが、俺たちは付き合ってすらいない。
「でも、ほかの女の子たちは見に行くんですよね」
「ん……ああ、女の子っていうか部員な。そりゃ試合もあるし、身内で応援とかもあるんだから当然だろ」
「ほうら」
「……なんかイラっとするな」
なぜか得意げな顔でこちらを見上げてくる。ふふん、みたいにちょっと胸をそらして。
呆れがちに見返すと、なにをおもいついたのか、長船はぱっと表情を明るくしてくるりと体の向きを変えた。
「やっぱりちょっと待っててください。いまシフト確認してきます」
「しなくていい。仕事しろ」
「シフトはいってたらお休みいただけるよう交渉してきます」
「いいって。仕事しろ」
「おっけーです、万事任せてください」
「おまえ、ほんっと……」
つかまえようとした手をするりと抜け、店の奥へと消えていく長船。ため息をつきつつ、ポニーテールが扉のむこうに吸い込まれるのを眺めていると、となりのレジのお姉さんと目が合った。
遠慮がちにクスクスと笑っている。……あの、よろしければ止めていただけませんかね。
ふと、トレイにパンをのせたままであることに気づいた。今は他にお客さんもいないし、迷惑というわけでもないだろうが……商品を片手にずっと立っているわけにもいかない。
いそいでパンの山に向き直り、ほかに何を買うのか視線を走らせる。
──あいつ、ほんとに来る気なのかな。
「いやいやいやいや」
胸にくすぶる感情をかき消すように、手当たり次第にパンを取り上げる。
そもそも来るときまったわけじゃないし、女子に応援されるなんて部活メンバーをふくめれば初めてでもなんでもないし。
冷静になろう。たぶん、これも夏の暑さのせいだ。
夏の真っ盛り。午前中の練習を終えて、体も心もへとへとの状態。
なぜだろう。レジに向かう俺の身体は、先ほどまでの気だるさを失っていた。
「合わせて900円です。────カナちゃん、かわいいでしょう?」
「そんなんじゃないです……」
財布から小銭をだしていると、こっそりと小声で付け加えられた。
ほんとに勘弁してください。
クスクス笑いの店員さんから品物を受け取る。受け取るときの彼女の視線が妙に印象的だった。なにか可愛らしいものを見たときのような生暖かい視線。青春だなーとかおもわれてそうだ。
もう一度ちゃんと訂正しようと口を開きかけたとき、“スタッフ”と書かれた横の扉が、ばーん、といきおいよく開かれた。
「交渉成立です! 夕方までは好きにしていいって言われました!」
「……わかった……もう勝手にしてくれ」
彼女のうれしそうな声が店内にひびき渡る。
ため息がまたひとつ、天井に吸われていった。
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