風雲
津島 結武
風雲
先日、なかなか衝撃的な事件があった。
ある青年が電車の中で老人を殴り殺したのだ。
具体的な経緯としては、体調が悪いため座席に座っていたその青年が老人に理不尽に蹴られ、それに憤激して殺害したということだった。
これだけでも結構な衝撃であるが、最も世間を賑わせたのは、青年が裁判で語った言葉だった。
「許されるかどうかと行うべきかどうかは、まったく別のことですよ」
「不条理に報われない善人を救うという価値です」
「私が獄中にいる間、罪のない人々は完全な犯罪によって殺され続ける。しかし、私が社会に残れば、ある程度の被害は抑えられるだろう」
彼の言葉には妙な魅力があった。
なんというか、弱き者を先導する革命家のようなカリスマ性だ。
彼の言葉に一理あると思ってしまった僕もいる。
それゆえに、メディアでは彼の思想の危険性について多く取り上げられた。
「彼は正義を気取っているが、実態はただの犯罪者だ」
「もし世の中に彼のような人物であふれたら、世界は殺人で大変なことになってしまう」
「その一瞬の正義感によって、まっとうな善人まで殺されてしまうかもしれない」
テレビのコメンテーターはそのようなことを口々にした。
それでも僕は青年の言っていることが間違っていないような気がしていた。
だから、僕はこうして彼のもとに取材にやってきたのだ。
それが彼の名前だ。
面会室の向こう側の扉が開く。
彼がやってきた。
姿勢が良く、堂々とした足取りで、僕のガラス越しに座った。
彼は容姿が端麗で、素朴な霜降り模様のグレーの服でもおしゃれに見えた。
友好的な笑顔を見せたが、その笑顔はまるでテレビインタビューを受ける俳優のようだった。
「初めまして。水鏡紫苑です」
彼は爽やかな声で自己紹介をした。
「どうも、テレビ・ヌーンの小林
僕はこれまで幾度となく犯罪事件の加害者に取材をしてきた。
その際はいつも、取材相手はこちらにやや敵対的な態度をとるため、僕は大げさに友好的な態度で接していた。
ところが、水鏡氏の場合は逆だった。
彼のほうが友好的だ。
そして、なぜか僕は緊張してしまっている。
まるで、鏡越しからナイフで刺されるのではないかと怯えている気分だ。
「いいえ、こちらこそありがとうございます。私としても、あれだけで終わらせたくはなかったのでね」
僕はハッとしてメモ帳とペンを取り出した。
「あれだけ、というと、殺人のことですか?」
「ええ、あの老いぼれを殺しただけでは、私の大義は果たされません」
「その大義とは、法廷でも語った、『不条理に報われない善人を救う』ことですか」
「部分的にはそうです」
「部分的に、というと?」
「救うことは何も私だけがすることではない」
「……それは、どういうことですか?」
「私以外の人たちも、傲慢な者たちを殺せる世の中にする、ということです」
僕は息を飲んだ。
清々しい顔で恐ろしいことを言うものだ。
「しかし、それでは世の中が殺人であふれかえってしまいますよ」
僕はあるコメンテーターの言葉を借りて言った。
「ええ、それでいいんです」
「しかし、殺人は犯罪で――」
言いかけたところで、僕は水鏡氏の法廷での発言を思い出した。
――許されるかどうかと行うべきかどうかは、まったく別のことですよ――
きっと彼に法律論は通用しない。
「しかしそれでは、誤って善人を殺してしまうことが起こるかもしれませんよ。それに、気に入らないからという動機の殺人を正当化する者もいるかもしれない」
「……確かに、それは問題です」
水鏡氏は少し考えて言った。
「しかしそれは、些細な問題です」
「些細な問題ですって?」
「ええ、私の目的は傲慢な者たちに恐怖を与えることです。『このまま傲慢を振りかざしていたら、自分も殺されるかもしれない』という恐怖を与えることが私の目的なのです」
「だから間違いがあっていいと?」
「それでより多くの人が救われる」
実に典型的な功利主義だ。
最大多数の最大幸福。
そのためなら、些細な犠牲もいとわない。
「しかし、僕はそのような世の中は避けたいと思いますね」
「ええ、普通の人ならそうでしょう」
水鏡氏は自分の爪を特注品のナイフを見るような目で見た。
「しかし、迫害されてきた人たちにとってはどうでしょうね?」
僕は背中を何か冷たいものが通り過ぎていくような感覚に襲われた。
水鏡氏は話を続ける。
「人々は世の中が倫理によって作られていると思い込んでいる。倫理的に正しいからこれは良し、倫理的に正しくないからこれはダメ、といったふうにね」
僕は何か言葉を出そうとした。
しかし、何も出なかった。
彼の話をもっと聞きたいという気持ちが僕のなかにあった。
「ただし、それは間違っている。生き物は、必要なものを求めるんです。チーターが食料を必要として殺生をするのと同じように、我々も心の安寧を求めて殺人を犯すのです」
彼は何も言えないでいる僕を見ると、フッと笑って言葉を続けた。
「少し話を変えましょう。小林さん、あなたはフランス革命をご存じですか?」
僕は急に話す余地を与えられてハッとした。
「ええ、さわりだけなら」
「結構。フランス革命とは、1789年から1799年の間にフランスで起きた大きな革命のことです。革命前、貴族や聖職者は税金をほとんど払わない一方で、一般の人々は第三身分と呼ばれ、政治的に無視されたり、重税や封建的な義務に苦しまされたりしていました。そこで第三身分議員は結託するが、国王ルイ16世はそれに対して軍隊を集めました。彼らは自衛のために武器が必要だと考え、バスチーユ牢獄という政治犯や反逆者が収容されている牢獄に、武器や弾薬を求めて押し寄せました。ところが牢獄の司令官は武器を渡すことを拒み、押し寄せた人々を発砲するよう命令を下しました。それに対して市民たちも黙っていません。彼らは銃火器や大砲を用いて牢獄に対抗しました。最終的に牢獄の司令官は降伏し、民衆は牢獄を占拠しました。これがフランス革命の始まりです」
「それから民衆は国王や貴族、恐怖政治を行う指導者を処刑し、最終的には軍人ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、フランス革命は終結した」
「その通り。革命前、何の罪もない民衆は傲慢な貴族や聖職者によって苦しまされていました。しかし、革命の争いや暴力によって、彼らは自由、平等、人権を得ることができた。確かに、暴力は倫理的にマズいことかもしれない。しかし、それがなければ自由や平等を得ることはできなかった。さて、小林さん、あなたにお訊きしますが、民衆から自由や平等が剥奪されている状態、これは倫理的に正しいといえるでしょうか? それに、自由や平等を得るために暴動を起こしたことは望ましくないことだったでしょうか?」
僕は何も言えなかった。
もうすでに、ペースは水鏡氏に握られていた。
「私の言っていることも同じですよ。弱き者が傲慢な者から迫害され、何も言えずにいる状況、これは非倫理的ではありませんか? 一人一人の人間が勇気を出し、対抗することは望ましくないことでしょうか?」
何も言い返せない。
本来自分に眠っているはずの良心の弾丸は、湿気ってしまっている。
「小林さん、皆さんにお伝えしてください。今こそ革命のときなんです。何も言い返せなかった弱き者が、力をもち、悪しき常識をぶち破るときが!」
彼は始める気だ。
小さくも、大きな革命を。
風雲 津島 結武 @doutoku0428
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