第二部 現代日本にて
第20話 そしてまた始まりへ
よし…………。
ひよし……。
――声がする。
どこかで聞いた声。
懐かしい声。
遠く近く寄せては帰る、波のような声。
――ひよし……何?
誰かの、名前?
ひよし。
ひよし。
平安の世に生まれたひよし。
ひよしがこの国の歴史の中で忘れられたのは、ひよしが倭国からいなくなったから。
ひよしは世界の次元を越えてセイラルとなり、再び倭国に生まれ戻り、足利家の妻、妙音院となる。
日野富子の妹として姉を諫めた妙音院は、死して転ず。三代将軍徳川家光の側室、高島御前の一生を終えた後、しばし深い眠りについたのだ。
そして年月は満つ。
戦なき時代を待ち続けたのだ。
ようやく時の神の御許しが出たぞ、ひよし。
ひよしの願い、叶えるべし。
今生こそ、叶えるべし。
此の世の名、
セイラル転生し、幾度の修羅を経て、聖良となれり!
――おかっぱ頭の少女は、お雛様のような姿。
その姿は真っ白いドレスを着た、西洋風の娘に変わる。
娘は水色の竜と緑色の竜を背に、こちらを見る。
その顔は……。
見たことがあるその顔は……。
私?
シャランシャランシャラン!
シャランシャランシャラン!
シャラン!!
はっとして目を覚ました聖良は、枕元のスマホを見る。
セットしたタイマーが鳴っている。
声を聞いたような気がする。
誰かの顔を見たような気も。
夢、か。
今日は登校する日だ。
洗顔した聖良は鏡を見つめる。
いつもと同じ、女子高生の顔。
――会えるかな、今日。
聖良は鏡の向こうに、会いたい人の顔を思い浮かべた。
春休み前に、住まいの側の公立高校に編入した。
今までは海外の学校に通っていたのだ。
入った高校は進学校でもあり、春休み中に何回か、補習を受けることになっている。
身支度を整え、聖良は階下に向かう。
リビングには朝食が並び、父はコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
「おはよう、聖良。今日は学校に行く日よね」
はいっと母は、聖良にお弁当を手渡す。
「少しは慣れたか?」
新聞から目を離さず、父が訊く。
「うん。漢字は面倒だけど、難しいのは古文くらいかな」
「その、なんだ、出来たか? 友だち、とか」
聖良はニコッと父に笑い、トーストを齧った。
これもいつもの朝の風景。
言葉数は少ないが、頼りがいのある父と、優しい母。
毎日美味しいご飯を食べることが出来て、学校にも通える。
幸せだと聖良は思う。
「やだ、それって普通じゃん」
仲良くなったクラスの女子に、そう言われたけれど。
普通が尊いのよって、聖良は返した。
高校の補習は、午前中四時間で終わる。
聖良は父の仕事の関係で、小学三年生から、海外で暮らした。
英語や現地の言葉の習得は出来たが、聖良の学習課程には、少々隙間が生じた。漢字は小学生レベル、古文はまったく分からない状態である。
本日の授業も聖良の到達度に合わせ、現国と古文が中心であった。
「古文に慣れるには、『源氏物語』の漫画を読むとか、あ、和歌から入ると良いかもしれませんね」
国語を担当する
休職している教諭の代わりの「臨時的任用」であるという。
「和歌、ですか。古文の文章よりも、難しそうに思いますが……」
御上は校内では若手に括られる男性教諭である。
清潔感がある痩身の御上は、女子生徒からの人気も高いらしい。
「あれですよ、あれ、百人一首! ほら、マンガにもなっているでしょう。ちはやなんとか。ああ、『千早ふる』は、落語にもなってますね」
授業の分かりやすさはともかくとして、御上が漫画好きということは、よく分かった。
まあ百人一首だったら、なんとなく入りやすいかなと聖良も感じた。
お弁当を食べた聖良は、図書室に向かった。
さすがに進学校と言うべきか、春休み中も、図書室は終日開いている。
参考書を片手に、勉強に励む上級生たちも結構いるようだ。
聖良は書棚で、百人一首の解説本を探した。
何種類かある解説本の中で、聖良が選んだのは二冊。
一つは『まんがで覚える百人一首』というカラフルな本だ。御上教諭が喜びそうなタイトルである。
そして、思わず手が伸びたのは『呪と救済の百人一首』という単行書だ。
呪いと、救済? 百人一首が?
しげしげと表紙を眺めている聖良の後ろから声がした。
「好きなの? 百人一首」
振り返った聖良の目に、一人の女子生徒が映った。
聖良よりも少し背の高い、ほっそりとした女子だ。
長い髪が艶やかに揺れている。
「あ、いえ、ちょっと勉強しようかと思って」
「興味があるなら、今度ウチの部に来てみない?」
アーモンド型の大きい瞳が聖良を見つめる。
部? 部活動のことだろうか。
「私、文芸部の
「は、はあ……」
月長は、困惑気味の聖良の横を、猫のようにすり抜けながら囁く。
「百人一首ってね。
叶わぬ恋への、呪いの歌が多いのよ」
ドクン!
聖良の胸が鳴る。
月長の横顔の翳りを、どこかで見た気がする。
彼女の目の縁は、赤みを帯びていた。
赤い
妖艶さと、いくばくかの禍々しさを含んでいる瞳。
どこで見たのだろう。
いや。
どこかで、見つめられたのだろうか。
なぜこんなにも、心がざわついてしまうのか。
夕暮れ前に帰宅しようと、聖良は校舎を出た。
西の空を照らす陽は、校舎を朱に染める。
校舎の壁面には、蔓草が伸びている。
壁に蔓草を生やしているのは、SDGS教育の一環であると、編入試験の時に聖良は聞いた。
黄昏を迎える時間、蔓はあたかも血管の如く、赤黒く蠢いているように見える。
『あのね、この学校にも、七不思議ってあるんだよ』
そう言えば……。
編入してすぐ仲良くなった、
『特にね、西校舎端の蔓草、ナントカ葛って言うんだけど』
気のせいだろうか。
立ち止まり、西の校舎を見ていると、蔓がどんどん、伸びているようだ。
『ヒトの血を吸う蔓なんだって。で、血を吸った人の願いを叶えてくれるって』
まさか。
『本当らしいよ。先輩がね。二年の先輩、女の人。恋を叶えたいって言って……」
シュルシュルと、蛇のような蔓は、聖良に向かって伸びて来る。
なぜか聖良は動けない。
両足が地面にピタリ、くっついているのだ。
どう、しよう……。
声も出ない。
聖良はただ、立ち尽くすだけだ。
「あれ、藍川、さん?」
目の前に蔓が迫ってきた、その時である。
男子生徒の声がした。
はっとして聖良が声の主を見ようと首を曲げる。
動く!
手も足も動くようだ。
聖良は声をかけてきた神野に、軽く会釈する。
会いたいと思った相手に会えた。
「補習受けて、今帰るところ。
この高校は、男子も女子も「さん」付けで呼び合う。
男子も女子も、互いに呼び捨てで生活してきた聖良には、まだ不慣れな慣習ルールだ。
「うん。終わって帰るとこ」
夕陽のせいか、眩しそうな目を聖良に向ける神野は、聖良が編入したクラスの委員長である。
委員長としての役割があるためか、聖良に時々声をかけてくれる。
『神野? カッコいいでしょ。王子様だもん、彼。ファンクラブあるみたいよ』
真湖の言う「王子様」の意味は、よく分からなかったが、聖良もカッコいいとは思った。
それよりも。
どこかで、会ったような気がしてならない。
それが何時だったのか、分からない。
単なる聖良の気のせいかもしれない。
だから、記憶を確かめるために、会いたいと思う。
会って、話がしてみたいと。
聖良と神野は、歩調を合わせながら、校門を出た。
去り行く二人の姿を、御上は職員室の警備用モニターから見ていた。
彼の手には、小倉百人一首の札が、何枚か握られていた。
そしてもう一人。
すらっとした髪の長い女生徒が、最上階の校舎の窓から、二人を見続けていた。
彼女の瞳は、夕陽よりも尚、朱い色であった。
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