第17話 遠景


◇◇◇遠景◇◇◇



 どこかの国の乾いた大地。

 年月を経た、松の木が一本。


 細い松の枝に、男が一人座っている。

 男はつま先で立ち上がり、枝の先端部へそろそろと動く。

 枝はしなり、ぴきぴきと音を出す。


「あっ!」


 ぱきり。

 軽い音とともに、松の枝は折れる。

 男は足音も立てず地上に降り、唇を噛み空を見る。


 すると、男の視線のさらに先から、笑い声が聞こえた。


「残念だ。あと少し」


 男は悔しそうに言う。


「慰めなどいらぬぞ、呂尚」


 男の前に、呂尚はふわりと現れる。


「慰めではない。才はあるのだ、お前は。あとは……」


「あとは?」


「心の強さ、それだけだ。武観うかん


 武観の足元の枯れ枝が、風に飛ばされ何処かに消えた。




◇◇◇◇◇



 呂尚は、その名を呼んだ男の側に近づくと、おもむろに男の額に生えていた角を引き抜く。


「ぐわあっ!」


 抜かれた角の跡は、墨色の穴が開く。


以前まえにも言うた。お前の心、澱んだ部分が問題なのだ、武観よ」


 武観は額の穴を押さえ、呻吟する。

 押さえても穴から立ち昇る黒い雲。


「武観。お前は、そこにいる少女に、裏切られたと言った。真実まことであると思うのか?」


 武観は呂尚を睨みつけて言う。


「当たり前だ。俺はその女に酌をされ、閨で名を聞き出されたあと、惨殺されたのだ!」


「お前の記憶が、捏造されたものと、疑ったことはなかったのか?」


 呂尚は、静かな口調で訊いた。

 その眼差しは、幼子を見つめるような色だった。


「な、何!?」


 呂尚がぽんっと手を叩くと、空中に再度、何かの映像が流れる。

 先ほど、化生と一体化したフィーマが見せたものよりも、一層鮮やかだ。


 場面は、武観こと、一人の道士が水請いの仙術を行い、大地が潤ったところから始まる。

 集まっていた村人たちや、見届けに来ていた国の役人らが諸手を上げて喜んだ。

 武観も、ほっとした表情になる。


「覚えがあるであろう、武観よ」


 武観は無言で、空中の映像を見つめている。


「そして、よく観るがよい。お前が褒めたたえられていた時、既にお前を標的としたあやかしがいたことを」


 雨水に喜ぶ人々の足元。その草むらに、わずかな黒い気配が映る。

 赤い蛇のような体はとぐろを巻き、鎌首を持ち上げてながらも、その先に女の顔を持つもの。

 燭陰しょくいんという、化生である。


「な、なんだ、これは。……知らん、俺は知らない!」


「武観よ。本来のお前なら、化生の存在に気付いたはず。なぜ気付かなかった……」


「うっ……」


 言葉に詰まる武観に、呂尚は畳みかける。


「成功にうかれ、周囲の気配に気付かなかったのは、お前の心の微小な隙間だ」


「心の……隙間……」


 呂尚は武観の額に手をかざす。

 暗渠の空洞は跡形もなく消え、武観の瞳には小さな光が戻る。


「見よ」


 場面は変わり、武観を労う宮中を映し出す。

 一人の少女が酒を運ぼうとすると、女官が止める。


『行ってはなりません、姫』


姫と呼ばれ振り返った少女の顔は、セイラルに瓜二つだった。


『なぜ? 村を、いえこの国を、救ってくださった方ですよ』


『なりません。王の命令です』


 酒は、姫と同じ衣装を着た、別の女官が運んで行った。


 そして。

 武観が切り捨てられたあとのこと。


 王宮から離れた山の麓に佇む、姫の姿があった。

 小さな石を積み上げたのは、名も知らぬ道士への墓標であろうか。


 姫は手を合わせ、何回も頭を下げていた。

 救えなかった男への、鎮魂の祈りだ。


 もしも生まれ変わることがあるのなら、その時はあなたを……


 石の墓標の横には、枯れかけた松の木が、ぱらぱらと細い葉を散らしていた。




 茫然と見つめていた武観の目から、いつしか涙が溢れていた。


「……わかったか、武観よ。お前の心の隙間に潜んだ化生は、そのまま宮中へと魔の手を広げ、王や家臣らに不信感を植えた。なぜかわかるか?


絶望に歪んだお前の仙術を、我が物とするためだ!」


「俺が……俺が……まちがって、いた……」


 目を閉じ頭を垂れる武観に、呂尚は手を差し伸べる。


「そうだな。心に隙間を作ったお前の弱さ。それを知りながら放置していた、兄弟子としてのわたしの罪」


 呂尚は武観を立たせ、軽く顔を拭った。

 武観は、かつての修行中の道士の姿に戻る。


「もう一度、『道』を歩むぞ、武観。修行は一生。再び三度みたび、生まれ変わっても続くものだから」


 武観は頷く。

 天空の七芒星が消えていく。


「呂尚、俺に巣食っていたという化生は……」


「先ほど、天公様が捕縛されたようだ……そのための七芒星だからな」


 六芒星が此の世ならざるものを召喚する、神聖の幾何学模様であるなら、七芒星は、この世にあってはならぬものを、吸収する模様であるという。


 小角に抱えられたセイラルの姿を認めた武観は、敬意を表す礼をする。


 セイラルは、春風のような笑みを返した。


 ああ。

 そうであった。


 武観は想い出す。


 この笑顔だ。

 見た刹那、俺は修行の道を捨ててでも、手に入れたいと切望したのだ。


 それも。

 すべては遠い幻か……


『すまなかった』


 武観の唇が紡いだ、声なき言葉。

 誰に向けてのもので、あったのだろう。

 

 呂尚に手を引かれ、武観は空へと昇り、すぐに見えなくなった。



 残されたのは「器」であったフィーネの躰。

 セイラルは、横たわるフィーネを抱き起す。


 体中傷だらけのフィーネは、それでも意識を取り戻すと、怪訝な表情でセイラルを見た。


「……何をしているの、セイラル?」


 それはこちらのセリフです、とセイラルはひそかに呟いた。


 ようやく動けるようになったジーノスとアティリスが、一緒に走ってくる姿が見えた。

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