第10話 起点
時は大同五年九月。
秋の陽は落ちるのが早い。
「まあ、口だけは達者になったの。母として嬉しいかぎりよ」
ひよしは、生母の薬子と向かい合って座す。
薬子は盃に白酒をつぎ、ひよしに差し出す。
「今生の一献が、白湯でもなかろう」
ひよしが杯を見つめると、薬子は紅い唇を大きく開く。
ひよしの杯の表面に、薄い朱の膜が浮いている。
「ほほほ。毒など入れておらぬが。そなたが気になるのであれば、取り換えようぞ」
薬子の手元にあった盃を取り、ひよしは一口で飲み干す。
次いで、薬子の咽喉が動く。
ひよしの口元が、細い三日月の形をとる。
刹那。
薬子の手から盃が落ち、乾いた音を立てる。
薬子は首を押さえ、ごぼりと何かを吐き出す。
それらは絡み合う黒い紐。
紐ではない。
黒色の、細い蛇である。
黒い蛇どもはしゅうしゅうと音を立て、煙となって消えていく。
薬子は胸を掻き毟り、己の
破れた衣の下からは、娘婿を虜にしたと言われた白い肌がはみ出る。
薬子の体中、あたかも紫の網をかけたかのような、無数の血管が浮かびあがっている。
「お、おのれ、おのれひよし!! 母に毒を盛ったな!」
ぎろりと目を剥き、薬子はひよしを睨みつける。
ひよしは微笑む。
「毒を盛ろうとしたのは、母上、あなたの方でしょう。わたくしが
薬子はギリギリと歯をくいしばり、掠れた声で叫ぶ。
「ならば、ならば何故、そなたは倒れぬのだ!」
「お忘れですか、母上。わたくしは幼子の頃より、毒に
薬子は頭を振る。
「それは我とて同じ。いやいや、そもそも我を弱くする毒など、この世に有りはせぬ!」
ひよしは、床におちた薬子の盃を拾い、白湯を注ぐ。
そして己の指を軽く噛み、一滴の血を垂らす。
白湯の表面にも、薄い紅の輪が広がった。
ひよしは座したまま、ゆっくりと湯を啜る。
「母上に飲ませたものは、毒ではありませぬ。わたくしの血でございます」
「だ、騙したな、我を……」
「いいえ、
ひよしは飄々と答える。人外のものを見つめる目元は、いたって涼やかである。艶やかな
「なにゆえじゃ! そなたの血如きで、そんな
ひよしは答える。その瞳には、かつてない力がこもる。
「わたくしは、桃源郷より秘儀を授かりました。すべては、母上の体に巣食う、
「おのれ、おのれ!
血まみれの牙を剝き、人外のものは、ひよしを引き裂こうと、青黒い腕を伸ばす。
シャラン
鈴の音が降りて来る。ひよしが振る鈴だ。
その響きに、人外のものは大きく頭を振る。満月よりも黄色の瞳から、赤い涙が流れる。
シャララン
鈴の音が重なり、身もだえする化生。鱗に覆われても、たわわな胸は妖しくも
ひよしは右目の片隅に、人外の揺れる乳をとらえながら、かねてより懐に隠し持っていた、小さな
肉と骨を断つ音が、ひよしの耳に届く。獣肉を焼くような臭いがする。
同時に薬子であったものの体全体を黒い霧が覆い隠そうとする。
ひよしは、片手を上げ指先で空中に指示を出す。
眷属となった、木気の竜を呼び出すのだ。
木気の竜は稲妻をまとい、薬子に刺さった独鈷へと、雷撃を落とす。
黒い霧は散り、同時に人外のものは声をあげた。
断末魔の、叫びだった。
こうして、完全に人外のモノと化した薬子は、小角の錫杖と空海からの独鈷の力を借り、ひよしの手によって倒されたのである。
藤原薬子、毒杯をあおり、自害したと、歴史家は伝えている。
されど、藤原縄主と薬子の娘ひよしが、母亡き後、どのような人生を歩んだか、伝えている歴史書は現存していない。
残っていないのも当然である。
平城天皇が隠棲し、薬子が果てた後、ひよしは小角に連れられて、京から東へと飛んだのだから。
そこは霊場であり、
倭国で一番高い山なのだという。
この山の底を流れる熱い脈流は、時として山頂から吹き上がる。
「この山の、地の底に通じる穴に、ひよし、お前は飛び込まなければならぬ」
小角はひよしに言った。
「飛び込むのは構わないですが、それは一体なにゆえに」
小角は髭を撫でた。
「薬子に憑いていた魂魄の一部が、別の場所へ逃げたのだ。その場所に着くには、
黄泉路。
ということは、死ぬ必要があるのだろうか。
「そうじゃな、この国で、今の世で、ここまで生きて来たひよしは死ぬ。その代わりに、魂魄の逃げた場所まで、必ず辿り着ける。ただ自害するだけではだめである。この霊峰に
なるほど。
聞いた瞬間、ひよしは決意した。
母を化生に変えたものが、悪しき魂魄であるのなら、どこまでも追いかけて、必ず滅したい。
きっと、それが自分の役割であり、桃源郷で力を授かった理由であるのだ。
「では、よしなに」
かくして、ひよしは富士の火口に身を投じた。
時空間を越え、生まれ変わるために。
悪しき化生を完全に滅し、捻じ曲げられた自分の人生をやり直したいと願って。
こうしてひよしは、ユーバニア王国ヴィステラ家の次女、セイラルとして、生まれ変わったのである。
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