第9話 交錯
◇◇◇◇◇
第二王子アティリスと姉フィーマの婚約発表を七日後に控え、セイラルはヴィステラ家の屋敷に戻った。
戻る直前まで、王と第一王子のジーノスへの施術を続けた。
王の内臓は完治し、ジーノスは自力で立てるようになった。
しかし、宮殿内にもおそらくは間諜がいるであろうことから、セイラルは王にもジーノスにも、体調に関しての秘密を守ってもらうことにした。
よって、王もジーノスも互いの治療が進み、完全復調に近いことを知らないままである。
また、王とジーノスは、近衛兵団とジーノス配下の騎士団を、婚約発表の会場に密かに配置すると決めた。。
これはイシュチアが己の命を賭けて、東の大国の陰謀を教えてくれたおかげであった。
セイラルがヴィステラ家に戻ると、迎えてくれたのは母と、セイラル付きの侍女だけであった。
ヴィステラ侯は、辺境地への視察に出かけており、姉の婚約発表までには王都に帰って来るそうだ。
姉は妃教育という名目で、王宮に滞在して帰って来ないという。侍女数人と料理人を王宮に同行させてもいる。
母は、セイラルの姿を見た途端、涙を流しながらセイラルを抱きしめた。
「ごめんなさい、セイラル。わたくしは、あなたを守ってあげることが、出来なかった母です」
セイラルも母を抱き返す。
「いいえ。いいえ、お母様。寺院に赴いて良かったです。イシュチア様にもお会い出来ましたから」
母は驚き、セイラルを見る。
「知っていたのですか、セイラル」
「お会いして、イシュチア様からお話を聞きました。いろいろなことを」
母は涙を拭い、侯爵夫人の表情になる。
「お話は、あとでゆっくり聞かせてちょうだい」
その晩、セイラルは半年ぶりに、自室のベッドで休んだ。
しかし神経の昂ぶりは治まらず、なかなか寝付けない。
サイドテーブルの上に、水と果物が置いてある。
果物はオレンジである。
それはどこかで見たことのあるような、懐かしい色と形であった。
セイラルは起き上がり、オレンジを一口齧る。
シトラスの香が部屋中に広がると、セイラルの脳内に流れ込んでくる記憶がある。
どこか異国の風景。
長い髪の女が、蛇に化身する。対峙するのは一人の少女。
その少女の顔は、セイラルに瓜二つだ。
そうだ。
これは私の記憶。
私がこちらに来る前の、実際の出来事だ。
私は、あの女から逃げ出した魂魄の一部を追って、ここまで来たのだ。
あの国で一番高く、一番美しい山の、火口を通って。
◇◇
ひよしは小角に訊く。
「桃源郷から逃げた
小角は髭をするりと撫でる。
「人間の身でありながら、自力で仙界へと辿り着いた、道術をそれなりに極めていた者であった。そのまま心を鍛えたならば、いずれ神仙の高みへと、登れたろうなあ」
人の世を支配したい、そんな欲望に憑りつかれたのか、その者は修行で得た術を、破壊と破滅に費やした。
人々の阿鼻叫喚や流した血は、その者の呪力をいや増したという。
大陸の王朝をいくつも潰し、戦と混乱を引き起こしたその者は、大陸の八大仙人らにより封じられたのだが、魂のみ肉体を離れ、倭国へと向かった。
美しい島国を、血祭にあげるために。
「その魂が、我が母、薬子に宿ったのですか?」
小角は答えず、ひよしの手を取る。
「その者は、仙人が持つ技をいくつも得ておる。憑りついた者の中身を食らい、蛇や蝦蟇を使役する。なんなら、人の姿から、大蛇や竜に化身することもできるという」
小角は懐から出した二つの物をひよしに渡す。
シャラン
シャラン……
小さく鈴の音が鳴る。
「わしの錫杖だ。そして」
両端が尖った、掌に乗る金具。
受け取ったひよしの手が、重さで下がる。
「空海より預かった
ひよしが屋敷に上がると、廊下に倒れ伏す、何人もの侍女の姿があった。
どの者も、口の端から血を流している。
息は、すでにない。
顔色一つ変えることなく、ひよしは廊下を進む。
滑るように進んでいくと、徐々にひよしの顔は歪む。
臭いのだ。
魚の
人間の怨嗟を凝縮すると、このような悪臭になるのだろうか。
そこに薄らりと流れる、きつい
屋敷を包む、赤黒い影は、
廊下の果て、
「ひさしいの。皇后。いや、いまだ東宮妃か。まあよい。母と一服しようではないか」
ひよしも目を細め、薬子へ答える。
「
◇◇◇◇◇
はっとして目を覚ますと、窓の外はまだ仄暗い。
水の神殿では、行に入る時間であるが、ここはセイラルの家である。
あまりに鮮やかな夢をみていたせいか、セイラルの頭はまだ重い。
セイラルは一人で着替え、階下に降りた。
使用人が少ない屋敷は、ひっそりとしている。
母の部屋からは、灯が漏れていた。
ノックして部屋に入ると、母はベッドの上に、色とりどりのドレスを並べていた。
「セイラル、あなたのドレスよ。どの色が良いかしら」
母は、少女のような笑顔である。
「いつもフィーマのおさがりしか、着せてあげられなかったわね」
母はセイラルの肩を抱く。
こんなに……
母であるグレーベンは、小さな
「姉様の婚約発表ですから、なるべく飾りの少ないドレスが良いです」
母は頷き、セイラルの首に、リボンをかける。
リボンの色は、海よりも深い藍色。
王家の花、イオニカの色である。
「ユーバニアのお祝い事には、イオニカ色の何かを身につける習わしがあるの。このリボンは、わたくしが王宮にいた頃に、イオニカの花で染めたもの」
セイラルは微笑み、有難く頂戴した。
「なぜ……」
その上で、どうしても訊いておきたかった。
「なぜ母様は、お父様とご結婚されたのですか?」
母は一度開きかけた口を閉じ、息を吐く。
「お告げがあったの。水の神殿で」
「ユーニアー様の、お告げでしょうか?」
母は俯いた。
「本当は、お断りしようと思ったの。最初のヴィステラ侯の結婚は、わが国でもしばらくの間、醜聞として流れていたし……それで神殿に行き、お祈りをししたの。わたくしは、どうしたらいいでしょうって。すると水甕から、いきなり水柱が立ってね」
水柱は人の形を創ると、グレーベンに告げた。
「ヴィステラ侯に嫁ぎ、
水から現れた人影は、女神のようであった。
「頭にね、丸い輪が二つ乗っていて、薄衣を重ねたような衣服を着ていたの。とっても綺麗な女神さまだった……」
セイラルにも、その女神の姿が垣間見えた。
それは、多分、桃源郷の……
「だから、あなたは望まれて生まれてきたのよ、セイラル。女神さまにも、わたくしにも」
母は、涙ぐんでいるようだった。
その言葉だけで、セイラルには十分であった。
たとえセイラルが物心ついた時には、父と母の関係が乾いていたとしても。
たとえ、父がセイラルを見つめることが、一度もなかったとしても。
セイラルは、藍色のリボンに似合うようなドレスを選んだ。
母と衣服を選ぶことも、初めてのことである。
朝日が射し始めた部屋で、二人とも、笑顔がこぼれた。
それから幾夜となく、セイラルは過去世の夢を見た。
見たというより、体験したのだ。
あまりの現実感で、飛び起きて己の手を見ることもあった。
かくして明日、アティリスとフィーマの婚約発表を迎える。
父、ヴィステラ侯も、他国の視察から帰ってきた。
しかし、やはり彼は、セイラルを一瞥することもなかったのだ。
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