第8話 王都4
◇◇
ひよしは桃源郷にいる。
役君こと
天女はひよしの手を取り、花と果物で満たされた郷内をふわふわと飛ぶ。
ひよしも蝶になった気分で、天女に従う。
水の音がする。
天女はそこへと降り立つ。
天空から流れ落ちている細い流れが、円形の水たまりを作っている。
天女が囁く。
「そなた、水の加護を持っておる」
ひよしは首を傾げる。
「かご、加護ですか。水に、守られているということでしょうか?」
天女は微笑んだ。口元に光が集まる。
「守られてはいるのだが、本質が目覚めてはおらぬ。ゆえに授けようぞ」
天女はひよしを水たまりに誘う。
「水は鉱物より生じ、木々を潤す。そなたの身を全部、この水に浸けるのだ」
おそるおそる、ひよしは水に片足を入れる。
すると、さざ波が立ち、ひよしの全身は、水に包まれる。
そのまま頭から、ひよしは水中に沈んでいく。
遥か彼方に水面が見える。
碧色の水面に、花弁が浮かんでいる。
思わずひよしは手を伸ばす。
水中に射しこむ光を受け、掌には、無数の細い枝のような、血の流れが見えた。
水中においても、不思議と天女の声が聞こえてくる。
「
言われてみれば、ひよしの手指のそこここに、小さく光る点がある。あるものは親指の付け根に、あるものは掌の中央に。
それが、経絡なのか。
「経絡は体中、いたるところにあり。病を治し、痛みを除くものなのだ」
水中で、ひよしが自分の体を眺めると、星の如くきらめく点が体中に散在していた。
それらを順に触ってみると、腹のあたりが熱くなる。
腹の熱の塊は、そのまま咽喉に向かい、苦しくなったひよしは思わず息を吐く。
ぼこぼこと吐気が水面を目指す。
咽喉までせりあがった熱気が、さらにひよしの口から吐き出される。
轟々と、ひよしの息は吐きだされた。
吐き出された熱は、意思を持ち、形を成し、勢いよく水中を駆け昇る。
周りの水は、熱気に巻き込まれ、後を追っていく。
その姿は、まさに……
「ほお、早くも目覚めたか」
ひよしは水面に顔を出す。
天女は相変わらず、ふわふわと宙に浮いている。
その側で、くるくると旋回している、青く長いものがいた。
馬のような顔つきに黄色い水晶のような双眸。
二本の角と髭を持ち、体表は滑らかな青い鱗で覆われている。
「水気の竜である。これが加護の実体なり」
◇◇◇◇◇
セイラルが第一王子ジーノスに施した療法は、乾燥させた草を患部にあて、その草を燃やすという方法、即ち
草を燃やし始めると、ジーノスの部屋の中は、たちまち煙が充満する。
控えている騎士も、思わず咳き込んでいる。
「お熱くないですか?」
セイラルがジーノスに尋ねると、彼は顔を横に振る。
「温かい。ケガをしてから、腰から下は、いつも氷水に浸かっているような感じであったが」
用意した草が燃え尽きるまで、セイラルの施術は続いた。
「必ず、治して差し上げます。ジーノス様」
セイラルは呟きは小声であったが、うつ伏せで横たわるジーノスに届いていた。
ジーノスが視線を動かすと、額に汗を浮かべているセイラルの、真剣な表情が見えた。
それは、ジーノスが一緒に遊んでいた、幼い頃のセイラルの、生真面目な顔つきと同じだった。
あの頃に、セイラルの手を取っていたら、運命は変わったのだろうか。
とりとめのない想いが。ジーノスの脳内を流れた。
その日の深夜、セイラルたちは寺院に戻った。
薄紫の制服を着た女性が、一行を出迎えた。
セイラルが初めて寺院を訪れた時に、その所作を誉めてくれた女性であった。
司祭が片手を挙げ通り過ぎようとした時に、その女性は司祭の背中に抱きつこうとした。
セイラルには、女性が硬質な光を発する何かを、握っているのが見えた。
女性が刃を、司祭の背に突き立てようとした瞬間である。
バチン!
女性が呻いて刃を落とす。
青白い、炎よりも細い光が女性の手を弾いたのである。
司祭はハッとして、兵を呼ぶ。
セイラルは、顔を歪めて手を押さえる女性を床に座らせて問う。
「ここにいらっしゃったのですね。東の国の、公女様」
その女性こそ、かつてセイラルの父の妃となるはずだった、東の国の公女、イシュチアであった。
「寺院の水が濁ったことも、鈴花草が置いてあったのも、あなたさまがなさったことなのですか?」
イシュチアはフードを取り、セイラルに向かいあう。
黒い髪を一つにまとめ、身を飾るものもない質素ないで立ちなれど、切れ長の黒い瞳には知性が感じられる。そして、諦観の眼差しをしている。
「ヴィステラ侯爵令嬢様。今までの数々のご無礼、お詫び申し上げます」
そう言いながら頭を下げたイシュチアが、再度刃に手を伸ばしたところを、セイラルは押さえた。 このまま自害をする気であったのだろう。
「ご無礼とは、わたくしの父がしたことでございます。長らくこの水の神殿で、祈りと行を捧げてくださった方を、わたくしは失いたくはないのです」
イシュチアの黒い瞳から、涙が一粒転げ落ちた。
-
◇◇
「加護の眷属は、もう一体おるぞ」
天女はそう言って、
桃色の衣を矢のような光が貫く。
それは碧石色の閃光だった。
水気の青い竜の隣に、翡翠色の竜が降り立つ。
「これ
天女がふわりと舞うと、二体は光の球になり、ひよしの腹に吸い込まれた。
ひよしは全身の血が、迸るような感覚を覚える。
ひよしは、水を操る青い竜と、雷をあやつる緑の竜を、その身に宿したのである。
「そもそも、藤原薬子を操るモノは、
天女の瞳に憂いが
「お伺いいたします。母、薬子を操るモノとは、一体……」
「かつて、
◇◇◇◇◇
イシュチアを支えながら、セイラルは司祭の寝所へと誘う。
そこでイシュチアが語ったのは、東の大国の
さすがに、この地上の半分を占める東の大国、シャン帝国は、人も金も時間すらも糸目をつけずに事に当たっているようだ。
話はセイラルの父ラステック・ヴィステラが、師団長を務めていた頃に遡る。
シャン帝国との停戦が締結し、国境にて和睦の宴が開かれた。
慰安に訪れた踊り子たちを、シャン帝国はラステックたち騎士団にあてがった。
その夜のラステックの
「このようなお話を、ヴィステラ令嬢のあなた様に、お伝えして良いものかと思いますが……」
司祭は気まずそうにしているが、セイラルは伏し目がちのまま頭を振った。
「されど、踊り子とは仮の姿。その者たちは帝国の皇帝の間諜でした。そして、閨の営みにおいて、お相手となった騎士たちに、術を施したのでございます」
「術、とは? どのようなものなのでしょう」
「いずれ、ユーバニア王国を裏切り、シャン帝国へと寝返る種を、植え付けたのでございます」
種?
植物の種のことだろうか。
セイラルが問うと、イシュチアは頷く。
「帝国の秘術でございます。代々の皇帝とその側近だけに伝えられているという。種はゆっくりと人間の体内で芽吹き、その者の頭を支配するとだけ、聞いております」
植え付けられた人は、瞳の色が
そして、その子どもにも、種の支配は
司祭がハッとする。
「ヴィステラ侯爵殿は、以前はもっと茶色の目だったはず」
確かに、ラステックの現在の目の色は菫色。そして、セイラルの姉、フィーマもまた、同じ目の色を受け継いでいる。
「だから、わたくしはセイラル様、あなた様を見てほっとしたのですよ。あなた様の目の色は、木の実のような美しい色で」
イシュチアは、薄っすらと涙を浮かべて、セイラルの頬に手を当てた。
「もしかしたら、あなた様はわたくしの娘として、生を受けたかもしれないですね。ああ、でも、それはあなたの母上様、ヴィステラ夫人に失礼ですね」
イシュチアは、ほっそりとした白い指をしていた。
それは貴族として生まれ育った証だった。
「司祭様を暗殺し、その罪をあなた様に被せる。さすればユーバニア王は、あなた様の父上に何らかの処罰を行うでしょう。そこでヴィステラ侯は王に反旗を翻す。第二王子を核にして……それがわたくしに与えられた『最期』のお役でした」
ここまで一気に喋ったイシュチアは咳き込んだ。
「どうやら、限界のようです」
イシュチアの衣服に散る、赤い飛沫。
「イシュチア様!」
イシュチアは床に崩れるように倒れた。
「これもまた、帝国の術。秘儀を誰かに喋ったら、発動する呪い……です」
イシュチアの胸から、重く湿った音が放出される。
彼女の左胸には、何本かの細い枝が生えていた。
瞳を閉じたイシュチアは、口元に僅かに笑みを浮かべていた。
セイラルはイシュチアの名を叫んだ。
叫びながら泣いていた。
感情表現が薄く、どんなに父や姉に虐げられても、涙一つ
翌日の早朝、寺院からは乾いた鐘の音が響いた。
寺院に身をおいた者を、弔う鐘である。
◇◇
その日、天女は一つの果実をひよしに渡す。
夕陽のような色と、清々しい香りを放つ、片手に乗るほどの丸い実である。
「食するがよい。これが
ひよしは一口齧ってみた。
甘い花のような、酸っぱい蜜柑のような、不思議な味わいであった。
天女は語る。
「非時香菓は、不老不死をもたらすと言われておるが、そうではない。
非時香菓を食べ終えたひよしの両肩には、水気の竜と木気の竜がそれぞれ乗っていた。
ひよしはほんの少し、笑みを浮かべる。
「もしも」
ポツリと漏らすひよしの言葉に、天女は小首を傾げた。
「もしも、来世というものが、ありますれば……」
伏し目がちのひよしの頬が、桃のような色に染まる。
「わたくしは、ただただ平穏な暮らしが、しとうございます。身分がどうであれ、慎ましく、ごく平凡な生き方を……。
情けのある親と子。互いに慈しみあうことの出来る
夕餉の匂いに駆けよる子ども。
そのような日々を、夢想するのです」
風が吹く。雲が割れる。
「さて。そろそろ帰ろうかのう」
小角がやって来た。
迎えにきたのだと、ひよしは感じた。
「都は平城の
ひよしは頷き、小角の手を取った。
そして深々と天女に礼をする。
瞬時に小角とひよしの姿は、雲に紛れた。
「ひよし。そなたの願いが叶うには、
天女の囁きを、ひよしは知らない。
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