第7話 王都3
◇◇
炎の中から現れた老人は、痩身の体躯でありながら、大木のようなおおらかさと、高い山から降りてくる、澄み切った風のような気を湛えていた。
「ふむ。わしを呼んだのは、そこなる公女のためだな」
老人は笑う。
「おそれいります、わが師たる、
役君は、ひよしの前で胡坐をかく。
よく見れば、老人の体は、床から拳一つ分浮いている。
「良い
ひよしは低頭し、答える。
「藤原縄主が息女、ひよしにございます」
「そうか、ひよし。わしは
ひよしは顔を上げ、役君の目を見つめる。
「我が母、薬子の
役君と空海は、互いに頷く。
役君の持つ錫杖の音が、空気を割く。
「そなたの
◇◇◇◇◇
玉座の間にいるのは、国王と正妃、司祭とセイラル、王を守護する騎士二人である。
「おそれながら陛下。もしや、第二王子の王太子を望む者たちの中に、我が父、ヴィステラがいるのでしょうか」
国王は俯き無言である。
それが答えとも言える。
代わりに正妃が口を開いた。
「ジーノスが、第一王子が騎士団の一員として、魔物の討伐に赴いた時です。その場所、東の国との境目は、さほど強くはない魔物が、時折現れるところなのです。あの時、東の国から討伐隊派遣の依頼がありました……」
討伐部隊の騎士団がそこで見たのは、口から高熱の火球を次々に吐き出す、翼のない竜の群れであった。
火球が直撃すると、鉄製の鎧が一部融解したそうだ。
ジーノスは果敢に闘い、一人で十数体の竜を倒した。
だが、逃げ遅れた若い騎士をかばって、火球に包まれたのである。
歩兵百人のうち、死者は四十名以上。
ユーバニア王国騎士団の歩兵隊は大きな痛手を負った。
ジーノスも重傷を負い、下半身麻痺の後遺症が残った。
「東の国には、妖術師や竜使いがいるという。まさかとは思うが……」
国王が言いたいことは、セイラルにも分かる。
討伐依頼というのは、東の国がユーバニア王国に仕掛けた、罠だったのではないか。そして、第一王子を廃嫡し、第二王子が立太子となることを、影ながら謀っていたのではないのか。
「いずれにせよ、王位継承に伴う国内の小競り合いは、国益を損する。その隙を大国に攻められたら、ひとたまりもない」
寺院でセイラルに刃を突きつけたあの間諜も、あるいは東の国からの……
さらに言えば、第一王子の廃嫡が彼の国の意向だとしたら、第一王子の王位継承こそが、ユーバニア王国にとっては必要なことではないのか。
そこまで思考を巡らして後、セイラルは国王に許しを請う。
「僭越ながら、ジーノス殿下の後遺症、治すことは可能です。何卒、ジーノス殿下への施術のご許可をお願い申し上げます」
国王と正妃の目が輝く。
医療院でも改善できなかった体調が、今では完全に復調している。
この
国王を守るために、同室している騎士たちの顔も、一気に明るくなった。
この日より、国王と正妃への緩やかな施術だけでなく、セイラル主導による第一王子への治療が、本格的に始まった。
セイラルと司祭は、騎士に誘導され、第一王子が座す西宮に歩いている。
途中ふと、セイラルの頭に浮かんだことがある。
父ラステックの元々の婚約者であったという東の国の公女は、無情にも婚約破棄をされた後、どうされたのだろうか。
◇◇
その日より、ひよしの師匠は、
空海上人も不可思議な人であったが、役君は輪をかけて、尋常ならざる
役君は、ひよしをひょいと抱えると、いきなり空中に飛び上がる。
ひよしはぎゅっと目をつぶる。
木の葉が渦を巻き二人の体を包み、ひよしの耳元を風が抜けていく。
「目を開いてみよ」
いつしか役君は空へと舞い上がり、鳥のように飛んでいる。
轟々と空気の音がする。
恐る恐る瞼を開くひよしの瞳に、鮮やかな反物を着た山々が映る。
小さく口を開けたまま、しばらく紅葉を見下ろす。
秋の山を歩いたことは何度もあるが、歌に詠まれているような感慨を持ちえたことはない。
されど、陽光を反射する紅や
「見事であろう」
役君に頷くひよし。
「では、もう一段、上に参ろう」
役君はひよしを抱いたまま、まるで階段を昇るかのように空中を蹴り、真白い雲の中へと身を投じた。
しばらくの間、役君はひよしを伴い、濃い霧の中を移動する。
深い霧を何度もかき分けたのち、役君とひよしは地面に足を下ろす。
足が地面に着いたように、ひよしには感じられたのだ。
ひよしは桃のような香りを感じ、思わず周囲を見渡す。
先ほどまでは、秋の山を上の方から眺めていた。
今再び、都のあたりに降り立ったのだろうか。
「都といえば、都であろうな」
遠くから琵琶の音が響いている。
「さりながら此処は、現世の都にあらず」
役君の背後から、薄衣をまとい、頭頂に輪を二つ結った女性が、琵琶を鳴らしながら舞い降りた。
そう、舞い降りたのである。
しかも宮中でも見たことのない、光り輝くような容貌の女性である。
「天女、さま……」
思わずつぶやくひよしに、役君は笑う。
「さよう。此処は天女のおる場所である」
天女は微笑む。
「
「さようでございます」
天女はひよしに向かう。
「ここは桃源郷。神仙の住む処なり」
天女はひよしの手を取った。
◇◇◇◇◇
セイラルは、第一王子ジーノスの寝所に着いた。
「僕に治療をするというのか? セイラル、君が……」
セイラルは深く頭を下げる。
「僭越ながら」
ジーノスは軽く息を吐く。
セイラルを案内した騎士が、ジーノスの上体を起こす。
ジーノスは室内の照明の関係なのか、青白い顔をしている。
ジーノスが室内を移動する時は、椅子に車輪を付けたものに乗る。
ケガを負って以来、自分の足を動かすことはジーノスには出来ない。
ベッドから椅子に移る時には、お付きの騎士が援助している。
「王宮の医師が、匙を投げたわが身だ。今更、元の体に戻れるとは思っていないよ」
顔色は悪いが、ジーノスの口調は、昔と同じように穏やかである。
それもまた、次代の国王として教育を受けた賜物なのか、感情の制御が第二王子とは比べ物にならない。
セイラルがまだ幼い頃、ジーノスは弟であるアティリスと共に、しばしばセイラルやフィーマと過ごすことがあった。
その頃から自己主張の強かったアティリスを軽くいなしながら、セイラルにも、姉に対する態度と同じような、気配りをしてくれていた。
その頃と、ジーノスの瞳の色は同じである。
「失礼いたします。お背中を、拝見させていただきたく存じます」
騎士が、ジーノスの衣類をめくる。
背中一面、火傷の跡が残っており、首と尾てい骨あたりの皮膚は黒ずんでいた。
セイラルは、持参した袋から、女性の拳ほどの量の、乾燥した草を取り出す。
「殿下。こちらの薬草を使い、体の芯から治すようにいたします。それと……」
セイラルは皮膚の黒ずみを凝視する。
火傷によるものだけではない。
そこには、邪悪な気配が残っていた。
『邪を祓うのに必要なのは、言葉と文字と形である!』
セイラルは昔、それを聞いていた。
どこで聞いたのかは覚えていない。
だが、確信していた。
「まずは、一番黒い皮膚を治します」
セイラルがきっぱりとジーノスに言う。
それは宣言である。己の魂に対して。
そして、ジーノスの意識に対して。
同時に宣戦布告でもある。
黒ずんだ皮膚に潜む、邪悪なものに対して。
セイラルが言った瞬間、皮膚の黒ずみが動く。
「うっ……」
ジーノスの顔が歪む。
「殿下!」
騎士がジーノスを支える。
ジーノスは顔を歪めながら、歯を食いしばる。
その間、セイラルは黒い皮膚に向かって、指先で言葉を描く。
寺院で習った祈りの言葉だ。
さらに指先に寺院から運んできた水をつけ、聖なる形を描く。
聖なる形。それは六角の星型である。
「ああっ!」
ジーノスが叫ぶ。
叫んだ口から、黒い塊が吐き出された。
黒い塊は、煙のようにすぐに虚空に消えた。
同時に、ジーノスの黒い皮膚が、元の肌色に戻った。
ジーノスの額には、水をかぶったような量の汗が流れる。
彼は目を伏せ、荒い呼吸をしている。
「セイラル様、これは……」
騎士が焦って訊く。
「ジーノス殿下の体を、縛っていたものです。縛られたままでは、どんなに治療施術を受けても、根本的には治らないのです」
ジーノスは騎士に水を求めた。
一気に水を飲み干したジーノスは、額の髪をかき上げてセイラルに言う。
「あ、ありがとう、セイラル。ケガをして以来、ずっと背中が重かった。今、その重みが感じられない」
ジーノスの顔には、薄い朱色が差していた。
セイラルはほんの少し、目を細めた。
ジーノスはほっと息を吐く。
微かなセイラルの笑顔。
それは遠い日の、ジーノスが好きな表情であった。
「殿下。では、次の治療に移らせていただきます」
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