第5話 王都1

 ユーバニアの王宮は、国の北部中央にある。


 宮殿の外壁は高く、更には大人の背の高さ位の堀と、そこに流れる水で囲まれている。

 表門と裏門には、それぞれ吊り橋が用意されているが、夜間、吊り橋は引き上げられている。

 よって、夜間、王宮に向かう時は、堀を舟で渡るのだ。

 吊り橋のたもとでは、騎士団の団員たちが、交代で警備に当たる。


 その夜。

 一艘の小舟が、王宮側へと堀を渡る。

 船頭が手に持つ灯には、国教と王家の紋章が見える。


 寺院からの訪問者たちである。

 乗船者は三人。

 皆、長いローブで顔を隠しているが、司祭と従者たちであろう。


 警備にあたる二人の騎士は、無言で門を開閉する。

 そもそも日暮れと共に、静謐な居城となる場所である。

 深夜に近い時刻の今、誰もが私語を慎む。


 しかし。


 最近の王宮内では、不穏な空気が流れている。


 日の出を告げる小鳥たちの死骸が、よく見つかる。

 陽が落ちてからは、夜行性の猛禽類が多数、王宮の木々に集まる。

 堀の水面には小魚が腹を出して浮かび、堀の石段には今まで見たこともない、黒い蛇が這う。


 何よりも、次期国を守り統治する予定の者たちの行動に、眉をひそめるばかりだ。


 王宮は正門をくぐり、最奥部に国王の執務室と玉座の間が設けられており、その東側には、王太子が住まう東宮ひのでみや、西側にはそれ以外の王子らのための西宮いりのみやがある。


 東宮からは、今夜も楽曲や嬌声が漏れてくる。


 国王の体調が思わしくないことは、当然王太子になる予定の第二王子と、その側近は知っている。

 しかしながら。


 第二王子が次期正妃候補に選んだ女性、すなわち、元婚約者の姉であるフィーネ侯爵令嬢は、王と王家への敬意や、周囲への気配りがまったくない。好きな時、好きなことを平気で行う。服装もふるまいも、およそ次期国母の素養が皆無である。


 あの方で良いのか。

 なぜ、元々のセイラル嬢ではダメなのか。

 日増しに王宮内に燻る、不平不満と疑念。


「東宮は今夜も変わらずか」

「言うな。正式にご婚約の発表を行うのは来月だ。その打ち合わせであろう。不敬の発言と聞こえたら、おまえ大変だぞ」


 先だって、フィーネが王宮の廊下を通った際、ある騎士の敬礼が不適切だと激怒した。第二王子のアティリスは、その讒言を真に受け、騎士を王都のはずれに追放したのだ。


「陛下のご様子、如何だろうか」


 舟で着いたものたちは、寺院からの使者。

 王の病体を回復するべく、選りすぐりの回復術士や薬士が、司祭と共にやってきたのである。


 

 ローブを纏い、久しぶりに王宮に足を踏み入れたセイラルは、宮殿内に澱む気に、吐き気を覚えた。

 覚えのある気配である。

 セイラルが侯爵家にいた時、姉のフィーネがよく口にした、あのセリフ。


「ズルいわ、セイラルばっかり! 本当にズルい!」


 その言葉と共に、フィーネから吐き出された黒い塊。

 それが宮殿内に、溜まっている。


 セイラルは手に持つ籠から、一輪の花を取り、口に含む。

 それは王家の花、イオニカ。

 青よりも濃い花びらを噛みしめると、吐き気は治まった。


 司祭が玉座の間に進む。

 ベッドに半身を起こした王と、正妃が三人を迎えた。


「夜分に大儀である」


 ユーバニア国王は、以前寺院で謁見した時よりも、顔色が良くなっていた。

 回復術士が王の関節を確かめる。薬士はセイラルが調合した薬草の茶を、王に飲ませる。

 司祭は、女神への祈りを続けている。


 正妃がセイラルに向かって微笑む。


「陛下は徐々に、お治りになりつつあります」


 セイラルは、ほっとした表情を見せる。


「でもね、どうも王宮内が落ち着かないの。いつも何かがざわざわしていて」


 正妃の言葉に、セイラルの唇がきゅっと閉まった。


◇◇


 後の平城天皇へいぜいてんのうである安殿あて親王しんのうは、七百八十年に叔父に代わり立太子したが、それから十年をまたずに、東宮妃とうぐうひであった帯子たらしこを亡くした。

 安殿親王の次の東宮妃として選ばれたのが、藤原縄主ふじわらのただぬし息女であり、藤原薬子の長女、聖良ひよしである。


 安殿親王の申し入れを、父縄主は大いに喜んだ。娘が皇太子妃に、なるかもしれないのだ。

 

 しかし、ひよしは幼く、無口な少女であった。

 思いを言葉にだすことが、少々苦手であったのだ。宮中のしきたりを何も知らない。

 これでは東宮妃の務めを果たすことが、難しいのではと周囲は考えた。


 輿入れの際、縄主がすすめて、妻である薬子を同行させた。

 それが後々の不幸のみならず、史上に残る大事件の発端となる。


 安殿親王は、宮中での「逢い初め《あいぞめ》」の儀において、妃になる予定のひよしではなく、薬子の手を取った。そしてそのまま、自身の愛妾とする。安殿親王はこのころ、三十代。五子をもうけた薬子は、親王よりも十歳ほど年上であった。


 安殿親王の父帝、桓武天皇かんむてんのうは親王と薬子の関係に激怒する。しかし、薬子は帝の厳命にひるむことなく言い放った。


「親王様もわたくしも、真実まことの情にて、結ばれておりまする!」


 桓武天皇は、薬子への苦々しい思いと同時に、せっかく東宮妃として迎えながら、夫たる親王に置き去りにされたひよしへ、深い哀れみを感じたという。



◇◇◇◇◇



 第二王子から婚約破棄宣言から三ヶ月が過ぎた。

 セイラルは今も寺院での水行を続けている。


 午後の僅かな時間に、司祭と会話をすることがある。

 ほんの二言、三言であるが、セイラルには良い気分転換となり、視野を広げてくれるものである。


 たとえば司祭が尋ねる。


「魔法とは?」


 セイラルが答える。


「人の想いの強さ」


 司祭は言う。


いな。正法も邪法も、むろん魔法もない。あるのはただ、神の慈愛のみ」


 司祭によれば、問と答えを繰り返すことで、この世の真理に近づいていく修行法があると言う。それはユーバニア王国の遥か東にある国の、宗教の方法なのだと。


問答もんどう……」


 その方法を聞いたセイラルが呟く。


「ほお、よくご存じで」


 存じている?

 なぜだろう。


 セイラルの不思議そうな表情を見た司祭は語る。


「魔法はないと申しましたが、神の奇跡はあると、私は思っています」


 現在の寺院は、水の澱みも邪気もなく、清らかな空間である。

 寺院の水を使う医療院においても、患者の治癒が早くなったという。


 その日、水源を求めてセイラルに同行した、エイサーが寺院に顔を出す。

 帰路中に獣と闘い、深い傷を負った彼も、帰国してすぐ、医療院での治療を受け続けていた。顔の傷は、ひきつるような跡もなく綺麗に治っていた。


「セイラル様、見てください! 治りました」

「良かったです。安心いたしました」


 エイサーは、布の袋をセイラルに渡す。


「それでね、頼まれていたものを、お持ちしました」


「まあ! ありがとうございます!」


 セイラルは袋の中身を確かめる。


 エイサーとニアトは、セイラルに同行してから、こうして時折寺院にやってくる。

 いつも、セイラルは二人に、寺院の水を汲んで出している。


 その水を飲むと元気になると二人は言う。

 魔法はなくても、寺院には、神の慈愛があるのかもしれない。


 二人にセイラルが依頼していたのは、これから宮殿の敷地内に置くものである。

 少しでも、宮殿にまとわりつく、黒いものを祓うために。


「本当にありがとうございます。大変だったでしょう?」


 セイラルはいつも通り、エイサーに水を出した。


 受け取ったエイサーは、赤い顔をしながら一気に飲み干した。

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