第4話 覚醒3

それも記憶の欠片かけらである。


「ひよし様。さあ、お飲みください」


 女官が差し出す器を見て、ひよしは眉をひそめる。

 器の中にはひとさじの白湯。そこに垂らした一滴の、露草から絞り出した汁。器全体は美しい薄紫色だが、ひたすら苦い味である。

 

 いやいやをするひよしに対し、女官はこんなことを言う。


「ひよし様の大父おじい様は、ある時毒を盛られ、むなしくなられたのです。いつ何時、ひよし様も同じ目に会うかわからないのですよ。これは毒を失くする飲み物。さあ、さあ」



◇◇◇◇◇◇



 儀式の途中で寺院に入ったセイラルは、とりあえず低頭した。

 椅子に座っている方の、衣装の裾が目に入る。

 淡いブルーの生地に、赤紫色の小さな花弁が織り込まれている。

 先ほど垣間見た正妃は、手に赤紫の花を持っていた。


 王族にしか、許されない紋様。

 王族の花、イオニカ。

 その花を、セイラルは見たことがあった。どこで見たのかは、覚えていないのだが。


 司祭には、先ほどの暗殺者の件は伝わっていないようだ。となれば、寺院に流れている水が毒性を持っていることも知らないであろう。

 座している方の前には、大きな水瓶が置いてある。

 昨日、セイラルが行のために覗き込んだ水瓶とは違う、鮮やかな陶器のものである。


 問題は、瓶ではない。

 ここに流れてくる水自体なのだ。

 神への御言葉の奏上が終われば、司祭は寺院の中に流れている水を、参詣者にかける。


 宗教的儀式の際中に、司祭に伝える術がセイラルにはない。


 まずい。


 じりじりとセイラルは床を這い、正妃の持つ花に近づく。

 奏上が終わり、司祭は柄杓で瓶の水を掬う。

 水滴が椅子に落ちる瞬間。


 セイラルは正妃の持参した花をさっと取り、水滴を祓う。

 赤紫の小さな花びらが、水滴を散らす。

 水の中に潜む悪意も散る。


 水滴が落ちた床は、一瞬、生臭い匂いが立ち込めた。


 セイラルは膝をつき、頭を下げた。


「ご無礼をお詫び申し上げます」


 正妃は駆け寄り、セイラルの手を取る。

 司祭は状況を把握する。


 そして椅子に座る国王が、セイラルに声をかけた。


「大儀である。ヴィステラ侯爵令嬢」


 ようやく騎士たちが駆け込んできて、国王に小声で何かを囁いた。


 ユーバニア国王が、自身の体調の異変に気付いたのは、数ヶ月前である。

 その頃、立太子させる予定のアティリスの素行が、問題視され始めていた。


 侯爵家の第二令嬢との婚約は、国王が定めた、いわば国策の一つである。

 その認識があるのかないのか、アティリスは婚約者を無下に扱うようになり、代わりに、婚約者セイラルの義理の姉、フィーネを連れまわすようになった。


 国王も正妃も、しばしば苦言を呈したのだが、目の前の恋に溺れた第二王子は、フィーネにのめりこんでいく。

 同じ侯爵家令嬢であるので、身分の問題は少ない。

 ただし、次期王妃となるような資質が、フィーネには備わっていないと、国王はふんでいた。


 そんな時、アティリスが、果実から造った醸造酒を国王に献上した。

 隣国では有名な、貴重な酒である。


「フィーネ嬢が、陛下にと」


 そのまま突っ返したい国王だったが、果実酒のラベルを見て止めた。

 ユーバニアと姻戚関係にある、隣国の貴族の名が、そこにあった。


 その晩、国王は食前に、件の果実酒を、ごく少量、舐める程度摂った。

 正妃はもともと酒類を受け付けないため、口にはしなかった。

 深夜、国王は急性の胃腸炎をおこし、そこから徐々に体力が削られていった。


「申し訳ない、セイラル。わしが倒れている間に、アティリスが一方的に婚約破棄と、寺院での罰をあたえたと聞いた。すべて、このユーバニア国王の不徳の致すところである」


 国王は、目の前の華奢な少女に頭を下げる。


「もったいないお言葉。わたくしの至らなさでございます。それに」


 セイラルは澄んだ瞳で国王に言う。


「寺院での修行がなかったら、こうして国王陛下の御身のこと、知らないままでございました」


 癖のない黒髪と、くっきりとした黒曜石の瞳。あと数年、婚礼の儀の頃になったら、さぞかし美しい女性に成長するであろうに。


 なにゆえに、第二王子は、この少女を気に入らなかったのだろう。

 国王には理解できなかった。


 正妃が哀しそうな声で、セイラルに語り掛ける。


「婚約破棄を、もう一度考え直すように、アティリスにきつく言うわ。もちろん、ここでの修行も、すぐにやめいいのよ」


 セイラルは正妃に答える。


「いえ、正妃様。アティリス様に申し付けられた半年を、ここで過ごさせていただきたいと存じます。さらに、僭越ですが」


 国王の体を考えると、しばらく寺院で、解毒の施術を受けて欲しい。

 そうセイラルは言った。


「わたくしは、その方法を知っております」



◇◇


「式部卿様こと、藤原種継様の母上様は、秦朝元はたのあさもと様でございます。元正げんしょう天皇様の詔により、優れた医術により褒章を賜ったお方。ゆえに、種継様は、ご息女に、『薬子くすこ』と名付けられたのです。

よって藤原の式家には、代々、神農本草経しんのうほんぞうきょうや、黄帝内経こうていないきょうが受け継がれているのでございます」


 ひよしは月に一度、お付きの女官に付き添われ、和泉国の山寺に参詣していた。

 山寺の僧は「お上人様」と呼ばれ、唐の国への留学から帰ってきた、徳の高い人だと伝え聞いた。


 ひよしはその山寺の高僧から、仏教講話のみならず、和歌や書や、医術も習った。とりわけ、神農本草経に記されている、種々の薬の話は熱心に聞き入った。

 薬とは、病気を治すものもあれば、人体にとって毒になるものもあった。


「お上人様は、なんでも見知られている」


 ひよしが呟くと、お上人は笑う。


「私には、幾人も先師がおりまする。例えば、一本下駄で空を舞うような」



◇◇◇◇◇



 ユーバニア国は、大きな大陸の中央に位置し、東西北の三方は山脈に囲まれている。

 北の山地はいにしえの土壌と言われ、内部は凍土である。

 北の山々から流れてくる水は、王都を始め周辺領地の貴重な水源であり、水を司る女神が国教になっているほど、水の価値は尊い。


 王との接見後、セイラルは司祭や寺院の者たちに、寺院の敷地内を浄化する方法を伝えた。

 更にセイラルは、水源を凍土の近くまでたどり、不浄なもの、不純なものをすべて清らかに変え、

 同時に、初めて国境付近まで植生分布を把握した。


 国内に自生している野草には、薬草もあれば、毒草もあった。


 ユーバニア国において、医術とは、回復術を担う術士によるものと、薬草を使用して回復の補助を行う薬士によるものを指す。

 回復術は主に外傷の手当と回復を行い、内臓の修復には、薬草を用いる。

 回復術士は国家認定の修学と試験が必須だが、薬士は簡単な研修で申請可能である。

 よって薬士の能力には、いささか個人差がある。


 ユーバニアは三方を山で囲まれた国であるがゆえ、他国からの侵略は比較的少ない。

 そのため、国家の防衛という概念が育っておらず、諜報活動への対処もしていなかった。

 この国では国王に対して、毒を盛るような輩が、今までは存在しなかったのである。


 薬士は薬草を扱えるが、毒に詳しくはない。

 セイラルは植生で見出した毒草を詳しく記述し、正妃に渡した。

 さらに、源流から少し下ったあたりの小川で、小指の先ほどの小魚を掬えるだけ集めた。


 王宮で、調理に使用する大元の水流に捕まえた小魚を放ち、小魚が浮いたら、水の取り入れを止めるように伝えた。

 寺院から水瓶を一つ渡し、一度水をためて使うようにとも指示した。

 水瓶の中には、毒を無効にする植物と、毒を吸着するために、木を燃やし、焦がしたものを仕込んだ。


 セイラルが源流付近まで遠出をする時は、王宮騎士団から二人ほど、護衛が付いた。

 二人とも第一王子ジーノスの側近であった者だ。

 もちろん、セイラルが第二王子に婚約破棄されたことは知っている者たちだったが、そのことに関して触れることはなかった。


 遠征には七日間ほど必要で、その間、セイラルたちは野宿となった。

 騎士たちは気の毒そうにいたわってくれたが、セイラルはさほど苦労と思わなかった。


 足にマメを作って遠出をした記憶がある。

 山の中の古刹に何度も赴いたのだ。

 あれは

 いつのことだろう。



 ある晩、騎士の一人がセイラルに質問する。

 エイサーという、騎士団に入ってまだ二年目という若い騎士だ。栗色の瞳が切なそうな色をしていた。


「セイラル様、背中の骨が焼けた場合、治す薬草はないのでしょうか」


 その質問が、第一王子ジーノスの体に関してであることは、セイラルにも分かった。


「ありますよ。治癒に時間はかかりますが」


 騎士の瞳に光が宿る。


「本当ですか!」

「はい」


 護衛の騎士二人は、手を叩き合って喜んだ。


「ただ、まだ内緒ですよ」


 唇に人差し指をあて、微笑むセイラルを見て、エイサーは顔を朱色に染めた。

 寝る時に、エイサーは自分の毛布をそっと、セイラルにかけた。


 その夜。

 焚火のそばで寝付いたセイラルは、夢を見た。


 ユーバニアではない、どこかの国。

 その家屋の中にセイラルはいた。


 セイラルの前には、紫色の衣をまとい、頭髪を綺麗に剃った男性が、話しかけてくる。


「ひよし様。毒をすこしずつ体に入れると、いずれ毒が効かない体になるのです」


『ひよし』


 呼ばれたのは、今のセイラルと同じくらいの年齢の少女。

 黒髪が肩よりも長い少女であった。


「なにゆえに、そのような……」


 ひよしが男性に訊く。


「毒を使い、倒さねばならぬ魔物がおります。倒すのは、ひよし様のお役目なれば」


 はっとしてセイラルは目を覚ます。

 目の前に、朝焼けのような色をした、花が揺れていた。


◇◇


附子ブシという草がございます」


 ある日、お上人はひよしに言う。上人の手元には、唐から持ち帰ったという、神農本草経があった。


「どんな草なのでしょう」


 お上人は、ひよしに書を見せながら教える。


「毒でございます。赤子の爪よりも少ない量で、熊や猪を一撃で倒すほどの」


 ひよしは書をめくる。


「あな、恐ろしや。お上人様」


「されど」


 お上人は告げる。


「蒸した後、干して使うならば、かたい病をも治すことのできる、そんな草でございます」


 附子の草は、青紫色の花が咲くという。


 そう、まるで、朝焼けの空のような。



◇◇◇◇◇



 セイラルは、遠征で見つけた青紫の花を根元まで掘り出し、片手で掴めるほどの量を持ち帰ることにした。

 二人の騎士エイサーとニアトは野営に慣れており、野草の薬効にも詳しかった。青紫色の花以外に、ユーバニアの薬士が施術に使うという草花を、二人は何種類も集めた。


「この草の根は、至極甘いです。それだけではなく、腹を下した時にも、よく効きます」


 エイサーが引っこ抜いた草の根を、洗ってセイラルに渡す。

 ひと噛みしたセイラルは、にっこりと笑う。


「確かに甘いです」

「そうそう、甘さにつられて、動物も草ごと食べてますね」


 ニアトは自分で言ってハッとする。


「明日には王都へ帰りましょう。この辺はまだ、灰色熊や小型の野犬の生息地域です」


 その夜。


 どこかで何かの動物の遠吠えがした。

 薪を集めて炎を絶やさぬよう、騎士は交代で見張りにあたる。


 横になりセイラルは休んでいたが、夜気は固い。

 護身用にと、司祭から預かった細身の剣を、彼女は胸の上で握っていた。


 突如、横になっているセイラルは地面の振動を感じた。

 二人の騎士は立ち上がり、剣を構える。

 咆哮が、炎を散らす。

 セイラルも体勢を低くして、炎の向こう側を見る。


 大きな黒い影が、二人の騎士を見下ろしていた。

 黒い体に赤く光る眼。咆哮を繰り出す口元を、炎の明りが照らす。

 その口腔、何本もの尖った牙が、敵意をむき出しにしていた。


 二足で立つ獣。

 熊である。


 左側から、エイサーが切りかかるが、長い爪で弾かれる。


「クソ!」

「エイサー、同時にいくぞ!」


 間合いをはかって、騎士たちは交差するように、剣先を獣に向ける。

 熊は器用に両の手を動かし、二本の剣をよけていく。

 ニアトの剣が熊の肩を掠めると、怒りの声をあげる獣。


 大きく振りかぶった熊の爪が、疾風の如くエイサーの顔面をえぐる。


「ぎゃあああ!」


 エイサーの叫び声と吹き出す血が、獣の凶暴性を高める。

 振り上げた獣の爪。

 涎を流しながら、大きく開く口腔。


 その瞬間である。


 セイラルはすいっと、虚空に飛び上がる。

 そのまま細身の剣を、獣の口に投げつけた。


 目を剥くニアトと、片目を押さえて叫ぶエイサー。


「セイラル様!!」


 着地したセイラルも叫んだ。


「五回! 五回息を吸って吐く。それまで、それまでなんとか避けて!」


 口から剣を生やした獣は、狂ったように両手で空を切る。

 二足歩行もやめ、四足で地面を蹴る。

 騎士もセイラルも、獣のあがきを避け続ける。


 一回、二回、三回、四回……


 深呼吸を五回。

 

 すると。


 獣の最期の唸り声があがる。

 全身の重量を地面にぶつけ、その熊は絶命した。


 夜空の闇は薄くなっていた。


 息を切らしながら、ニアトがセイラルに訊く。


「セ、セイラル様、今の剣は一体……」


 セイラルはエイサーの手当をしながら答える。


「司祭様より、お預かりいたしました物です」

「あの細い剣、一撃で、熊が倒れましたが」


 何事もなかったかのように、セイラルは答えた。


「昼間摘んだ青紫の花の汁を、剣に塗っておきました。思っていた以上に、強い毒ですね」


 エイサーは、顔面の表皮をえぐられていたが、目は無傷だった。

 セイラルは彼の傷口に何かの薬草を塗り、布で覆う。


「セイラル様、まさか、俺に塗ったのも、毒では……」

「大丈夫です。薄めてありますから」


 くすっと笑うセイラルにつられて、騎士たちも笑った。

 冗談を言う余裕が生まれたのである。


 同時に二人の騎士は思う。


 なぜ、第二王子は、こんな可愛らしい、しかも勇敢な女性との婚約を、破棄したのだろう、と。

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