第3話 覚醒2

セイラルの肉体は泉に浸っている。

 では彼女の魂は?


 セイラルがはっとして目を開くと、泉の水面はおだやかな波紋を、いくつも広げていた。

 寝ていたのだろうか。

 この冷水の中で?


 今の風景は一体……何だろう。

 生々しい炎と威厳のあるご老人。

 どこかで見た風景なのか。

 それとも、夢か幻か。


「セイラル様。お時間が過ぎました。そろそろお上がりください」


 お付きの女性に促され、セイラルは泉を出た。


 午後からの行は、伽藍がらんの中央に置かれた水瓶と向かい合うものである。

 セイラルが水瓶に向かって歩いていると、どこからか、花の香がした。

 女神像の前では、ろうそくの炎が揺れ、伽藍全体に陰影を作る。


 セイラルは床に座り、なみなみと水をたたえた瓶を見る。

 瓶の内部の色なのか、水面は熟れすぎて落ちたぶどうのような、アクの強い紫色をなす。

 さきほどの泉とは、明らかにことなる水の性状。


 この水を見つめ、己を正すのだろうか。

 セイラルは、あまり気が進まない。


 ぽたり。


 天井から一滴、何かが水瓶に落ちた。

 水瓶から外側に、いくすじかの水が流れ出る。

 途端に水瓶から白煙が上がる。

 煙と共に、鼻をつく刺激臭が広がる。


 セイラルは水瓶の側から飛びのいた。

 それは脳内に走る直感。

 煙を吸い込んだら、まずい!


 咳き込みながら、セイラルは外へ走り出た。

 倒れていくセイラルの視野に、寺院の塔を飛び越えていく影が過ぎった。


 寺院の司祭らが駆け寄ってくる。

 宿坊で、セイラルは手当てを受けた。


 セイラルの体調が落ち着くと、最上位の司祭が、セイラルの枕元にやって来た。


「誠に、申し訳ない」


 平伏する司祭を、セイラルは止めた。

 国教を司る立場の者は、唯一の存在でもある。

 国王も、司祭の神託を無下にすることはできない。


「本来、あなた様への罰などありませぬ。そのようにご神託をいただいております。あなた様には、何ら罪がない。こちらでの行など今すぐやめて、お帰りください」


――そなたに咎などありませぬ


 司祭の言葉は、セイラルに、またも既視感を生じさせた。


「いいえ、司祭様。出来る限り、わたくしは此処にいさせていただきとうございます」


 司祭は何かを言いかけ、やめて問う。


「自らを罰する、ということですか」


「それも違うのです。わたくしは、泉にて身を浄めている時は、大変幸福でございました。

水瓶にわが身を写す行も、やり遂げたいのです」


「しかし、先ほどのように危険なことが、もしもまた……」


 セイラルは黒い瞳を司祭にぶつける。


「司祭様。そもそも水瓶の水が、紫色を帯びていること自体、問題があるのではないですか」


 司祭の目が大きく開く。

 それが答えでもある。


「寺院の清浄を取り戻す。神なるもののお取次ぎの美しさと気高さを。僭越ながら、わたくしはそのための行をしとうございます!」


 真摯なセイラルの眼差しを受けつつ、司祭は内心驚いた。


 第二王子に断罪されるような行為を、この少女が行っていないことは、神託により明白である。

 されど、そのことを第二王子アティリスに進言したが、彼は鼻で笑って跳ねつけた。

 そんな王家のあり方が、寺院の水の清らかさを阻害しているのである。


 ところがどうだ。

 この目の前の、一見頼りない風貌の少女から受ける圧力と気配。これはまさに、司祭が数日間、奥の院に篭り、神託を受ける時と同じような熱気を帯びている!


 司祭は決断した。

 この少女こそ、神が与えた恩寵、神の使いの御子かもしれない。


「かしこまりました。では、あなた様のお望みと叶えるべく、我々も最大限の法力を出しましょう」



 翌日、セイラルは日の出と共に泉で身を浄め、寺院の奥の、更に奥まで足を運んだ。


 木々の間から、透明な水が流れ出ている。

 その清らかな流れに、古の人々は女神の姿を、見出したのだろうか。

 セイラルが深呼吸をすると、肺の底までみずみずしさが満ちる。


 湧き出す水に手を差し伸べると、きらきらと飛沫を上げた清流は、セイラルの指先から全身にかけて、水の被膜を作った。


 セイラルは踵を返し、水の流れを見ながら、寺院の方に戻る。

 すると、流れが二手に分かれる場所があった。

 一つは泉の方へ流れ、もう一つは寺院の地中へと流れ込んでいる。


 水気に恵まれた土壌には、あちこちに草花が生えている。

 昨日、寺院へ足を踏み入れた時、そういえば、花の香がしていた。

 すいっと伸びた茎の先に、白い小さな花を連ねる、風鈴草も咲いている。


 いや……。


 水の流れを追うセイラルの足が早くなる。鼓動が高まる。

 風鈴草は、香りを持たない花である。

 だが、風鈴草によく似た鈴花りんか草は、香るのだ。


 セイラルが近づくと、花の香は強くなる。

 風鈴草ではなかった。

 寺院に続く、水の流れに沿うように咲いているのは、鈴花草であった。


 セイラルがまだ幼い頃のこと。


 母に連れられて行った、王宮のお茶会で、テーブルに飾られていたのは風鈴草であった。

 セイラルが顔を近付けて、風鈴草の匂いを嗅ごうとすると、母からは「はしたない」と注意された。

 その時、正妃は優しく笑い、風鈴草を一輪、セイラルに手渡した。


「匂わないのですよ、このお花は。だからお茶会にも飾れますの。もし、同じようなお花で、匂いがあったとしたら、それは危ないお花なのよ」


 風鈴草によく似た鈴花草は、甘い香りを持っている。

 だが、それは危険な香り。

 なぜなら、鈴花草は、毒草なのだから。


 司祭さまに、お伝えしなければ!


 駆けだそうとしたセイラルの首に、冷たいものが当たる。


「鳥も鳴かなければ、落とされることもないものを」


 いつの間にか、セイラルの背後に立つ者がいた。その者は彼女の首に刃を当てていた。

 暗殺者、といった類の者であろう。


「あの煙を吸い込んで、生き延びただけでもたいしたものですが。残念ですね、令嬢」


 なるほど。

 この者が天井から、何かを落としたのだとセイラルは理解する。

 あの煙、肺を焼くような毒物だった。


 首に刃を当てられていても、セイラルはなぜか冷静だった。

 冷静でいる己に、やはり不思議さを感じながら、自身が思ってもいない言葉が口をつく。


「わたくしに、毒は効きませんから」


 セイラルの背後の暗殺者は、冷笑を浮かべる。


「では試してみましょうか」


 プツッ。


 刃先がセイラルの首に、赤い線を描く。


「この刃の毒は、昨日の煙の比ではない濃さです。おやすみなさい、令嬢」


 セイラルは振り返り微笑む。


「あら、そんなに強い毒なのですね」


 セイラルは自分の首から流れる血を拭い、暗殺者の唇に塗りつけた。 


 一瞬の沈黙のあと、暗殺者は叫び声をあげる。


「うぎゃああああ!!」


 毒を扱う者が、毒の耐性を持ち合わせていないのか。

 なんと、脇の甘いこと。


 口を押さえて目を見開き、のたうち回る者の姿に、セイラルは強烈な既視感を覚えた。


 これも夢なのか。

 それとも……


 寺院の方から、バタバタと足音が聞こえる。


「セイラル様! 何事ですか!」


 寺院を守る兵と一緒に、王宮騎士団の騎士数人が、セイラルのもとに駆けつけた。


 騎士たちは、倒れた暗殺者に縄をかける。

 騎士団の面々が居合わせるということは。

 まさか……

 

 セイラルが寺院に戻ると、女神像の前で、誰かが椅子に座っていた。

 司祭はいつもよりも頭を下げ、祈りを捧げている。

 かたわらに控える一人の女性に、セイラルは見覚えがある。


 いや、この国の民ならば、誰もがしっているはずの女性ひと

 その女性こそ、ユーバニア国王の正妃、リジエンヌである。

 ということは、椅子に座っているお方は。


 やはり!

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