第2話 覚醒1
王立学園の卒業式は、大々的に催行される。
卒業生とその家族は全員招待されるため、セイラルも両親共々出席していた。
本来式典には、ユーバニア王国の国王と正妃が揃って姿を現し、国家の有能な人材になるであろう若者の巣立ちを
ただし、本年に限って言えば、国王は体調不良で登壇叶わず、名代として第二王子のアティリスが指揮を執っていた。
そこで起こった、婚約破棄宣言だった。
アティリスからの『婚約破棄』宣言を受けたセイラルは、多少驚きはしたものの、落胆や悲壮感はなかった。
――ああ、またか。
セイラルの胸に浮かんだのは、それだけだった。
そのことには、自分でも驚いた。
またかって、何で?
婚約も破棄も初めてなのに。
アティリスの宣言を聞いたセイラルの母グレーベンは、瞬時に顔色が変わり、セイラルの肩を抱く。
だが父は、眉がぴくりと動いただけで、何も言わなかった。それどころか、そのまま受諾した様子であった。
そもそも、フィーマの婚約が整わなかったのも、父のラステックがいろいろと、注文をつけていたからである。
もともと、身分差を越えて、ラステックが何度も嘆願して成婚に至ったのが、フィーマの実母である。亡き妻の生き写しである長女のフィーマに対しては、躾や教育は一切放棄し、ただただ可愛がっていた侯爵なのだ。
フィーマが惜しげもなく美貌を振りまくようになって、ラステックは一層溺愛をするようになる。
実母の出身階層が、ほぼ平民だったこともあり、フィーマを王族へ嫁がせることは憚れたが、先方から請われての縁談となれば、話は別である。
次女のセイラルに関して、ラステックはほとんど愛情を持つことがなかった。
ラステックの心情はともかく、セイラルに愛情を注いでいるとは、とても思えなかった。
彼は跡取りの男子を望んでいたので、セイラルが産まれてから歩けるようになるまで、顔を見ることすらなかったのである。
壇上では、第二王子のセイラルに対する断罪が続いている。
「ヴィステラ家では、フィーネ嬢を下女のように扱い、ことごとくセイラルと差をつけて育てていた。セイラルはフィーネ嬢に暴言を吐き、果ては暴力をふるい、侯爵の名誉のみならず、王家への不忠の義を働いたのだ!
よって、セイラルは半年間の謹慎並びに、毎日夜明けから日没までの、寺院での水行を申し渡す。心せよ!」
セイラルは、アティリスの申し渡しに素直に従った。
反論も、そのための証拠もあったのだが、家長であるヴィステラ侯爵が、それを許さなかった。そもそも彼には、許す必要がなかった。
セイラルは侯爵家から、小さな手荷物一つで、寺院のはずれの小屋に移った。
母のグレーベンは泣いていた。
姉フィーネは口角を上げ、セイラルを見た。
フィーネの瞳は熾火のような色であった。
そして半年が過ぎた。
セイラルへの罰は終了し、アティリスとフィーネの婚約式典には、ヴィステラ家一同が出席するように通達された。
季節は秋を迎えていた。
「よく半年も、我慢したね」
久々に足を踏み入れた王立の庭園で、アティリスとフィーネを囲む祝宴は続いている。
その中心から離れた処で、第一王子のジーノスとセイラルは、ひっそりとお茶を飲む。
「そう、ですね。でも」
セイラルは空を見上げて言った。
「悪いことばかりではなかったです。おかげでわたくし、少しだけ、人様のお役にたてそうな修養を、積むことができました」
この物言い。
とても十四歳の少女とは思えない。
ジーノスは改めてセイラルを見つめる。
寺院はユーバニア王国の国教を司る。
信仰対象は水の神ユーニアー。
そこでの修行は過酷である。
王国の騎士団は肉体の鍛錬のほかに、精神鍛錬も行っている。
その鍛錬場所こそが寺院である。
日の出とともに、寺院の泉に身を浸す。
永久凍土の湧き水である。真夏でも冷たい。
塩味だけの汁と、雑穀の粥を一杯食し、その後は真昼まで、水を張った
その間、一言も発せず、場を立つことも許されない。
午後は日没まで、流れる滝に打たれ続ける。
ジーノスは騎士団に入団した十八の時に、七日間この修行を受けたが、とにかく辛かった思い出しかない。
それをこの少女は、半年間も続けたというのか。
「殿下、少しお話してよろしいでしょうか」
セイラルはジーノスに頭を下げる。
「ジーノでいいよ。昔みたいに」
セイラルは頬を染める。
幼少の頃、セイラルはよく、ジーノスに遊んでもらった。
セイラルの母グレーベンは、正妃の親族の一人であるため、時折この庭園でのお茶会に、セイラルと一緒に招かれていた。
「ではジーノス様。寺院にて分かったことがあるのです。医術院での治療や施術には、寺院の水を使っているとお聞きしましたが、そうなのですか?」
ジーノスは右手で己の肩を触る。
焼かれた皮膚はいくばくか再生したものの、神経の麻痺は治っていない。
「そうだ。井戸の水よりは治癒効果が高いと聞く。医術院では寺院から直接水を引いていたが、それが何か?」
「わたくしが初めて寺院に足を踏み入れた日ですが、水瓶の水は紫と黒が混ざったような色で、とても神おわします領域の水とは、思えなかったのです」
「何っ!」
確かに、ジーノスが治療を受けていた時、年老いた医官の呟きが聞こえた。
「おかしい……。 寺院の水がこの程度とは! ユーニアー様のご加護は、
「もう一点だけおゆるし下さい。寺院の水は、いかなる毒物も無効にする、そうお聞きしております」
ジーノスは頷く。
「ならば、ならばなぜ、国王陛下はお倒れになられたのでしょう。寺院にて何度かご尊顔を拝見させていただきました。あのお顔のお色、お爪のお色、あれは……」
ジーノスの表情に緊張感が走る。
たまらず人差し指を口にあて、「しっ!」と言う。
国家機密なのである。
それゆえ、事実を把握している者は、片手の指で足りる。
それをこの少女は、見ただけで到達したというのか。
「差し出がましいお話、申し訳ございません。されど、陛下は間もなく快癒されますゆえ」
セイラルのその一言は、更にジーノスを驚愕させた。
会場に、国王と正妃が来場されたという伝令が流れた。
◇◇
それはセイラルが、初めて寺院に足を踏み入れた日のことだ。
静謐な空間は、セイラルにとって心地良いものであった。
門をくぐり抜け、湧き水に手を浸す。
手で掬った水で、口を漱ぐ。
誰に習ったわけでもなく、当たり前のようにそうした。
微かな衣擦れの音にセイラルが振り返ると、薄紫の法服を着た女性が柔らかな物腰で迎えてくれた。
「お話は承っております。侯爵令嬢様」
「セイラルと、お呼びください」
寺院の女性はセイラルに手拭きを渡す。
「セイラル様、当寺院へは、何度かお越しでしたか?」
セイラルは小首を傾げ、「いえ」と答える。
「あなた様は、当たり前のように、手と口を浄められました。見事な所作でございます。
初めての方とは思えないほど」
そうなのか。
神なるものを祀る場では、当たり前ではないか。
寺院の作務所に案内されながら、セイラルは思った。
思いながら、ふと疑問がわく。
なぜ、自分は『当たり前』だと思ったのだろう。
手と口を浄める所作は、どこで習ったのだろうか。
侯爵家では、食事前に感謝を捧げるとか、信仰対象となる物品を置くとかいった、宗教的なものは、ほとんどなかった。
むしろ。
現実主義である父などは、年に一度の寺院への寄付も、嫌々ながらやっていた。神への感謝も崇敬も持たない父なのだ。
母の話によれば、王族は年に数回、寺院にて祈りを捧げていたそうだが、セイラルの物心ついてこのかた、侯爵家が寺院にて、祈願したような記憶はない。
しかし。
寺院の雰囲気は心地良い。
そして、セイラルには懐かしいものであった。
作務所で注意事項を受けたのち、泉まで案内されて、身を浸す。
気温よりも低い冷水であったが、セイラルは俗世の澱が抜けていくように感じた。
澱とは。
侯爵家へのもの。父と姉への想い。
父から向けられる視線の酷薄さ。
姉にかける愛情との差。
その姉からの日々の敵視。暴言と暴力。
妹の目から見ても、姉フィーネは美しい。
父からは溺愛されている。
それでも姉は、セイラルを羨む。
「あなたはいいわよね! 幸せだわ!」
何度も姉から言われたセリフ。
それがセイラルには分からない。
あなたの方がずっと、幸せではないのか。
第二王子との婚約は、特に感慨も喜びもなかったが、侯爵家からの楔が取れるのであれば、それでよかった。
だが、姉は己のやったことを全て書き換えて、第二王子に讒言した。
それを真に受けた王子から、告げられた婚約破棄と罰。
言い訳も反論も父に封じられた。
セイラルは諦めた。
母を巻き添えに、したくなかったのだ。
水に浸りながら、セイラルは涙を流していた。
望んでいるのは、ただただ普通の生活。
笑い合える家族。ささやかだが平穏な日々。
それを望んでは、いけないものなのか。
贅沢な願望だというのか!
いや、そうではないぞ!
いきなり脳に電流のように啓示が流れた。
「咎はそなたにあらず!」
泉の水が跳ねあがる。
跳ね上がった水は、生き物のようにセイラルを取り囲む。
水が映しだす風景は、セイラルが見たことのない、しかしどこか懐かしいものであった。
深い山の中の、簡素な建物。
部屋の真ん中で燃え上がる炎。
一本下駄の老人が、炎に木の板をくべる。
「
老人に問いかけるのは、セイラルと同じような年齢の少女。
老人は答える。
「見届けるがよい。最後まで」
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