Case.永山和樹

 なんて、綺麗なんだろう。

 玄関を開けた先、赤の海に座り込んでいる彼女を見たとき、永山和樹ながやまかずきは衝撃を受けた。元々色白な彼女と、赤い水溜まりのコントラストが、強烈に和樹を揺さぶったのだ。


「か、カズくん……」

「……」


 ああ、鉄っぽい臭いがする。テーブルの上にある、揃いで購入した猫がプリントされたマグカップにも少し赤が付着している。和樹は少しぼんやりしながら彼女を見た。赤に塗れた彼女の眼は泳いでいた。


「えっとね、その、これは、……ええと」


 赤に座り込んだまま、理由を探している。

 水溜まりを作っているのは彼女の前で大の字に倒れている男だろう。知らない男だった。男の右目はそこになく、がらんどうの眼窩だけがそこにあった。服の首元が赤く染まっている。死んでいるように見えた。

 放っておいたら警察が来るかもしれない。その場合、真っ先に疑われるのは彼女だ。和樹の心は決まっていた。


「逃げよう」


 彼女の手を取った時はじめて、赤い水が血液だと気づいた。けれどそれは、手を離す理由にはならなかった。



 **



「……ごめんね、カズくん」

「なにが?」


 秋の夜は肌寒い。和樹は自分のジャケットを彼女に着せた。もっと丈が長ければ、彼女の服に染み込んだ血の赤も隠せたのに、と和樹は思う。今度買うときは丈のあるものにしよう。


「その……」

「そうそう、スマホ。忘れてったよ」

「あ、ありがとう……」


 当初の目的だったスマートフォンを彼女に渡した。少し戸惑った様子だったが、スマートフォンを受け取る。

 スマートフォンの画面に視線を少し落とした彼女は、やがておずおずと顔を上げた。


「……何も聞かないの?」

「聞いてほしいの?」


 彼女はばつが悪そうに目を逸らす。少し意地悪だったかもしれない。


「いいよ、何も聞かない」

「……カズくん」



 遠く、サイレンの音が聞こえた。——まさか。


「警察……⁉」


 いくらなんでも早すぎる。


「行こう」

「待ってカズくん、どこに行くの」


 彼女の手を取る。少し冷えていた。


「できるだけ遠いところ!」


 サイレンに背を向けて、路地裏の影を駆け出した。



 **



 サイレンは未だ止まず、じわじわと包囲網が狭まって行くような予感がした。


「どこかに隠れてやり過ごせば——どうしたの?」


 彼女は俯いている。


「……カズくん」


 ぐらり、と視界が傾いた。

 肩を押されたのだと理解し、何とか腕で体を支えて、肩を押した張本人である彼女を見上げた。


「ごめんねカズくん」

「え……?」

「たべたいの」


 彼女はふらふらと膝立ちになり、和樹の頬に手を伸ばす。


「居たぞ! こっちだ!」


 足音に混じって何かが擦れ合う音が聞こえる。背後を振り返った視界の端に、複数人の姿を捉えた。いつかのドラマで見たような装備の人々は、機動部隊とでも言うべきなのだろうか。盾を構えてこちらに向かっているようだった。


「たべちゃだめなのに! でも、でもカズくんが一番美味しそうなの……!」



 ダン、と音が鳴る。それが銃声だと気づいたのは彼女の額に穴が空いた時だ。

 ぐらついた体はしかし倒れず、和樹越しに撃った相手である機動部隊の隊員を睨みつけた。


「……なにするの」

「ひっ……!」


 額の穴からは一筋の血が流れて、その白い顔を汚した。


「邪魔しないでよおぉ……!」


 彼女は立ち上がり、機動部隊へと肉薄する。



 彼女と機動部隊との間に、スーツ姿の男が躍り出る。

 男の手には抜き身の日本刀があった。


「――虚絡こらく


 男が鍵を回すかのように手首を捻り、刃の向きが水平から垂直へと変わる。

 一瞬、鋭い光が奔ったように見えた。



「あ、」


 和樹は一拍、理解が遅れた。あまりにも現実離れしていたからだ。

 彼女の体が、三つに分割されて落ちた。

 血が広がって、和樹の手前まで来た。やっぱり、赤い血と色白の彼女のコントラストは美しかった。彼女に命がいこと以外は。



「永山和樹。君を保護しにきた」


 呆然としている和樹に刀を持った男が声をかけた。


「……どうして」


 男は刀を鞘に納める。広がる赤を気に留めることなく、和樹の方に近づく。


「どうして彼女は殺されなきゃならなかったんですか」


 見上げた男の顔に、表情は無い。


「ただ食べたかっただけなんですよ……! 僕らみたいに食事がしたかっただけだ……!」

「君を喰おうとしてもか?」

「僕が……」


 和樹は赤に手をつく。はじいた赤が頬に付着した。


「僕が食べられたって良かったのに」



 スーツ姿の男は踵を返し、和樹から離れていく。途中、宇宙飛行士のような服の人間に声を掛けた。


「……記憶を消しておいてくれ。もう思い出さないように」



 **



 朝、永山和樹は目を覚ました。ぼんやりと昨日のことを思い起こしながら、顔を洗って歯を磨く。

 なんだっけ。警察に職務質問されたんだっけ。

 マグカップにインスタントコーヒーの粉を投入してお湯を注いでコーヒーを淹れた。コーヒーの香りが立ち昇る。

 僕は何を忘れているんだろう。

 少しぼやけた自分の顔がコーヒーの黒い水面に映る。

 自分が使うにしてはやけに可愛らしい、猫がプリントされたこのマグカップも、どうして買ったんだっけ?

 コーヒーを一口飲む。舌に触れたその味は、いつもと変わらず苦かった。


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