第2話

 娘アリアを連れて家を出た私は、実家に身を寄せる事にした。


 両親はただただ孫のアリアと共に暮らせる事に喜んでいるだけでジョンへ対する言及は一切してこない。詳細を聞いたところで怒りに震えるだけで何もできない事が分かってるからこそ、知りたくもないのだろう。


 実家は決して広くない。そして裕福でもない。

 正直言うと、これからもメアリーと同じ職場で働くのは気が重いと、職を変える事も考えたのだが、居候に加え金銭的な負担まで年老いた両親には掛けられないと、私は自分を奮い立たせ、離婚後も同じ職場で仕事を続ける事にした。


 しかし、その後の職場環境は私にとって最悪だった。


 メアリーは周囲に対して私からジョンを奪った事を隠すどころかむしろ武勇伝のように言いふらし、そのせいで私は日々好奇な目に晒される事となった。

 まさか自分の不倫話をも己の武勇伝に仕立て上げるとは、恐るべしメアリーの承認欲求と、もはや感嘆の溜息すら零れる。


「ねぇ、聞いた?メアリー先輩の婚約相手ってエミリア先輩の元旦那さんなんだって」

「知ってる! そもそも、離婚の原因がメアリー先輩との不倫だったっていう話よ?」

「じゃあ、何?あのエミリア先輩が旦那さんをメアリー先輩に寝取られたっていう事?」

「そういう事。 まぁ、メアリー先輩可愛いからねぇ。いくらエミリア先輩でもメアリー先輩が相手じゃあ……ねぇ?」

「あれだけ美人でモテモテだったエミリア先輩でも、若さには敵わなかったってわけか」


 こういった周囲からの好奇な視線は私の精神を擦り減らせ、結局私は退職を余儀なくされたのだった。


 その後、すぐに新しい職に就くも、給与は激減。その差額を埋める為には職を複数掛け持ちするしかなく、こうして、朝から晩まで働き詰めの地獄のような日々が始まったのだった。


「ただいま」


「あ、お母さん、おかえりなさい」


 台所に立つアリアが振り返る。


 いつまでも両親の世話にはなれないと、ようやく給与面が安定した頃合いで親子二人住むに最低限の広さの家を借りた。収入面が安定したとはいえ、それでも家計はギリギリ。そして過多な労働量。

 世情的に男と女とでは給与に差がある。無論、男が多い。その差を埋めるには単純に労働量を増やすしかない。


 私が仕事に明け暮れる間、家事全般を娘が担い、本来の男の役目を私が、女の役目を娘が、夫婦二人三脚ならぬ親子二人三脚でなんとか日々を凌いでいた。

 

「いつもごめんねアリア。家の事をアリア一人に任せて。疲れたでしょ?今日は夜中の仕事は無い日だから、後の事はお母さんに任せてアリアはゆっくりしててね」


「何言ってるのよ。お母さんこそ休んでて。休みも無しで朝から晩まで働いて。夜中も働いて。家の事ぐらいわたしに任せてよね!」


 夕食を食べに一旦帰宅してから再び仕事へ行く事もしばしばな私にとって、娘の言葉は素直に有り難い。


「……ありがとね、アリア」


「うん!!」


 言葉だけではない。娘のこの屈託のない笑顔にも私は救われている。


 私と同じブラウンカラーの長髪に同色の瞳。アリアの見目は私によく似ている。


 私の分身。かけがえのない存在。この子の為ならなんだって頑張れる。私の生きる希望だ。


「じゃあ、お母さん。ご飯にしよ?わたしお腹すいちゃた」


 小さな机に料理を並べながらアリアが言った。


「そうね、そうしましょう」


 私は娘の作った料理を前に腰を落ち着かせ、それを口に運ぶ。


「うん。美味しい」


「でしょ?」


 離婚する前から私の手伝いをよくやってくれていたアリアだが、離婚してから3ヶ月、更に手際よく家事をこなすようになった。


「アリアは将来きっと良いお嫁さんになるわ」


「わたしだってもう10歳なんだからこれくらい当たり前だよ」


 10歳といえば家の仕事を手伝う貴重な人手となる。しかし、アリアの場合、『母』の役目をほとんど一手に担っている為、その比較にはもはや程遠い。

 私が外の労働に専念できるのはアリアのおかげだ。

 

「アリアはお母さんの自慢の娘だよ」


 私がそう言うと、アリアは照れくさそうに笑みを浮かべた。


「お母さんほら、早く食べて寝ないと!」


 1日に3つの職場をハシゴする私の朝は、日の昇らない内から始まる。


「うん。そうだね」


 仕事をする以外の時間は出来る限り睡眠時間にあてなければならない。

 故に、娘と触れ合う時間といえばこうして夕食を囲む時くらいだ。

 アリアは顔に出さないが、きっと寂しい思いをしているだろうと思う。


 ――娘と会話する時間がもっと欲しい。




「ギルバード侯爵家のメイドね……」


「そう! 採用人数は一人らしいけど、もし採用されたら今みたいに仕事を幾つも掛け持ちしなくても良くなるんじゃないかな?」


 アリアが村近くの露店街へ買い出しに行った際に見かけたという求人広告。

 内容は、ここギルバード領の領主、ギルバード侯爵家の使用人 (メイド)との事らしい。給与についての詳細は記載されていなかったらしいが、期待値は否が応でも高くなる。


「でも、たった一人でしょう?きっと沢山の人が応募するはずよ。それに、貴族のしきたりとか色々あるんじゃないかしら?そういうのお母さん全然知らないし、とても侯爵家の使用人が務まるとは思えないわ」


 平民でも富裕層、中間層、貧困層とあり、貴族邸の使用人は貴族社会と何かと接点の多い富裕層出身の者が多いと聞く。


「……やっぱり無理なのかな?」


 アリアが寂しそうに俯く。

 もしも、侯爵家の使用人に就けたならば経済的にも時間にも余裕ができて、娘と過ごす時間が増えるだろう。

 それは私にとって理想的な暮らしで、アリアにとっても望む形だろう。


 しかし、当然採用試験なるものはあるだろうし、知識ゼロの人間よりもある程度精通している者を採用するのは当たり前。ましてや、採用人数はたったの一人。そんな狭き門をゼロの人間が潜れるわけがない。

 もしも仮に、貴族社会と精通している者が知り合いに居て、その者に教えを乞う事が出来れば、私自身の努力次第では可能性を高める事ができるかもしれない。しかし、あいにく私の周りにそんな人は居ない。努力する事さえ叶わない。


「そうねぇ……。良い話なんだろうけれど、やっぱりお母さんには難しいだろうねぇ。それに、その採用試験を受ける為に仕事も休まなきゃならないし、身なりだって……とてもコレじゃあ行けないわ」


 そう言いながら自分が着るボロボロの衣服に視線を落とす。


「……洋服買うのもお金かかるしね」


 アリアは諦めたように肩を落としながらも「でも――」と言葉を継ぎ、視線を上げ、私を見据えた。


「お母さん働き過ぎだよ。わたし、お母さんが死んじゃうんじゃないかって、それが心配で――」


 そう口にしたアリアの目には涙が溜まっていた。

 

 過労死――平民社会ではよく聞く話だ。言うまでも無く、貧困層に多い。まさに私の事だ。

 私はアリアの為ならと、自分の体の事など気に留めた事は無かった。そもそも、そんな事を考える余裕は無かった。いつの間にか自分の命を軽く考え、アリアの為なら幾らでも命を削るつもりだった。だが、私が死んだらアリアはどうなる?その事を考えた時、初めて自分の命の大切さに気が付いた。


 ――とはいえ、今の状況を打開する方法は無い。


「大丈夫よ、アリア。お母さんは絶対に死なないから」


 私はそう言って根拠のない言葉でアリアを宥める。


「お母さん、わたし絶対お母さんを楽させてあげれるような大人になるから!お金いっぱい稼げるような人になるから! だから楽しみにしててね!」


 アリアは目尻に溜まった涙を指で拭き取り笑顔でそう言った。


「アリアは賢い子だからきっとなれるよ。楽しみにしてるね」


「うん!」

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