第49話 梅・・・そして虹

 昨夜降った雨の香りが草花に染み付き、清涼感のある香りがゆらめくように庭を流れる。

 アケは、着物の裾を捲し上げ、素足のままに履いた草履で濡れた地面を踏み締める。その隣で小さな火猪ひのししのアズキが蹄に泥が付くのが嫌なのか、比較的にぬかるんでない場所を選びながら小さな足を動かしている。そんな仕草がとても可愛らしく、思わず抱きしめたくなるが今は大振りの笊を抱えているので出来ない。

「行くわよアズキ」

 アケが声をかけるとアズキは、ブギっと小さな声で鳴く。

 2人が向かったのは屋敷から向かって右側にあるアケが"果樹園"と呼んでいる場所だ。

"果樹園"と言ってもアケやこの屋敷の主人、身体の大きな白兎が植樹した訳ではない。アケが嫁いで来た時は草ぼうぼうのジャングルだった庭を整備した時に夏蜜柑やイチジク、山桃、山桑と言った木々が現れたのでそれを活用して"果樹園"にしようと考えたのがきっかけだ。現在は、ナギに買ってきてもらった苺の苗を植え、さくらんぼや林檎の苗木を植えて小さいながらも体裁を整えている最中で来年もしくは2、3年後には立派な"果樹園"が出来ている計画である。

 2、3年後・・・。

 自分で考えておきながらアケはその言葉を重く感じた。

 果たして自分はその時、ここにいることが出来ているのだろうか?

 こんな穏やかで幸せな日々を送り続けていることが出来ているのだろうか?

 そんなことを考えている間に目的のものが見えてくる。

 それは、アケの身長の2つ分の高さはある品の良い形をした梅の木であった。

 新緑の鮮やかな葉を自慢するように茂らせ、幹を力強く伸ばしている。そしてその葉と木の間にたくさんの黄緑と薄い紅色の差した果実が実っている。

 アケは、笊を草の上に置くと、雨に濡れて表面に雫を浮かべた梅の実を触る。心地よい固さと触り心地、そして花のような香りが鼻腔を擽る。

「よく育ってるね」

 アケは、表情を綻ばせて足元のアズキに言う。しかし、アズキは、梅の実になど目もくれず草の間を飛び回るバッタを捕まえようと奮闘している。

 それを見てアケの額にある蛇の目が嬉しそうに細まる。

 アケの本来、目のあった部分は黒い布で覆われており、それに変わって彼女の生まれ育った国の王である白蛇から授けられた額の蛇の目が世界を映していた。

 この目のお陰で、育ってきた境遇のせいでアケの人生は決して明るい道を歩むことが出来なかった。しかし、今は違う。この目のことで何か言う者はいない。蔑む者もいない。信じられないような幸せな日々を送ることが出来ている。

 アケは、梅の実を握る自分の手が震えているのに気づき、思わず梅の実から手を離して震える自分の手を握る。

 呼吸が乱れる。

 幸せを感じている時に時たま訪れる言いようのない恐怖。

 この幸せは本物なのか?

 夢を見ているだけの幻のなのではないか?

 目が覚めたら生まれ育った孤独な屋敷で皆に蔑まれ、嫌われる日々が続いているのではないか?

 そんなことを考えてしまい、怖くなってしまう。

 アケは、大丈夫、大丈夫と小さく呟いて自分に言い聞かせる。

 そうしている内に手の震えが止まる。

 アケは、ゆっくりと呼吸し、乱れを整える。

「大丈夫」

 その言葉を心の内に染み込ませるように口に出す。

 アケは、蛇の目を大きく開いて梅の木を見る。

 着物の帯に差した鋏を抜き、刃を包んだ厚紙を外すと梅の実の茎に刃を当てて切る。

 梅の木から離れてアケの手に収まった実は雨の滴で濡れているのにも関わらず温かく、そしてずっしりと重みがあった。

「これは美味しく育ってるね」

 アケは、笊の上に優しく梅の実を置くと次々と実を切っていく。

 バッタと遊ぶのに飽きたアズキは、あれだけ蹄が濡れるのを嫌がっていたのに草の上に寝そべって目を閉じる。

 アケは、黙々と梅の実を採取しながら何を作ろうか考えた。

 梅干し?

 梅ジャム?

 梅シロップ?

 それとも梅酒?

 ナギにまた、材料をお願いしないとな、と考えていた時である。

「ここにいたのか」

 突然、背後から掛けられた声にアケは背筋をぴんっと震わせ、思わず、梅の実を落としそうになる。

「探したぞ」

 その声は、アケにとって最も幸せを感じさせてくれるものであった。

 アケは、笑みを浮かべて振り返るとそこに立っていたのは長い黒髪に野生味のある整った顔立ちをした青年であった。金糸で花の絵が描かれた長衣の裾が雨に濡れた草に当たるが気にした様子もなく、黄金の双眸で優しくアケを見つめていた。

 アケは、その目に見られるだけで頬が熱くなるのを感じた。

「主人」

「ツキだ!」

 ツキと名乗った青年は、間髪入れずに声を上げる。

 このやり取りも何度、続けているだろう?

 黄緑の翼を持つ友達に言わせれば「ただの夫婦漫才」らしい。

「朝、起きたらいないから探したぞ」

 ツキは、小さく息を吐いて言う。

「梅を収穫しにきただけだよ。そんなに心配しなくても」

 アケは、唇を尖らせて言う。

「お前には前科があるからな。油断ならん」

 ツキは、真顔で言う。

 アケは、思わず苦笑いする。

「まあ、探してたのはそれだけではないがな」

 ツキの言葉にアケは、眉を顰める。

「お前に見せたいものがある。こっちに来てくれ」

 そう言って踵を返して歩き出す。

 アケは、足元で眠るアズキを見る。

 起きた時に自分がいなくて泣かないかな?と心配になるがちょっとなら大丈夫かだろうと「行ってくるね」と小さな声で言ってツキを追いかける。

 果樹園を抜けるとツキは足を止めて西側を向く。

「あれだ」

 ツキは、西の空を指差す。

 アケは、ツキの隣に並んでツキの指の先を蛇の目で追う。

「あっ」

 アケは、蛇の目を大きく見開き、口に両手を当てる。

 虹だ。

 半月をそのままひっくり返したような歪みのないアーチを描いた虹が空に浮かんでいた。赤、橙、黄、緑、青、水、紫色が濃く現れ、うっすらと金色に輝いて見える。

猫の額ここに来てまだ虹を見たことがなかったろう?」

 ツキは、小さく、そして優しく微笑んでアケを見る。

「この季節には良く見れるがここまでくっきりしたのは珍しいからな。お前に見せてやりたいと思ったのだ」

 アケは、ツキの言葉が届いていないのか、返答もせずにじっと虹を見ていた。

 ツキは、眉を顰める。

「なんだ?虹を見るのは初めてだったか?白蛇の国からでは見えないのか?」

 アケは、ゆっくり首を横に振る。

「見えたよ・・・屋敷の窓から」

 そう屋敷の窓から虹が見えることはあった。

 雨上がりの日、顔も名前も知らない使用人や武士達が騒いで空を指さしてはしゃいでいるのに気づいて窓から見るとうっすらと虹が差していた。

 何も感じなかった。

 ただ、虹が出てるんだな。

 それしか感じなかった。

 それなのに・・・それなのに・・・。

 蛇の目から涙が溢れ、黒い布を濡らす。

 アケが突然、泣き出したのでツキは動揺する。

「どうした?どこか痛いのか?」

 心配げに見当違いなことを言う夫が愛おしかった。

 アケは、ツキの方を向く。

「虹って・・・」

 涙に声を震わせる。

「虹ってこんなに綺麗だったんだね」

 アケの言葉にツキは、黄金の双眸を丸くする。そして笑みを浮かべるとそっとアケの肩を抱きしめ、自分の胸の中に沈めた。

 アケは、ツキから漂う花の香りに安らぎを覚え、顔を胸に埋める。

「また、一緒に見よう」

 ツキは、アケの蛇の目の横に小さくキスをする。

「うんっ一緒に見よう」

 アケは、自分が今、とても幸せであることを温もりと言葉で感じた。

 それは決して幻なんかではない。

 今、この瞬間、ここにあるものなのだから。

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