第20話 カワセミとウグイス(1)
厨の小窓から湯気が心地よく立ち昇る。
煉瓦作りの釜戸の掛け口に木の蓋が閉められた大きな釜と真鍮の鍋が置かれている。釜の蓋はグラグラと揺れて泡を吹き出し、真鍮の鍋には金色に近い鮮やかな出汁が心地良い音を立てて沸騰してる。
「おなべ、おなべ、グツグツグツ、お米お米、パッパッパッ」
アケは、歌いながら仕込み台にまな板を置いて食材を切っていく。玉葱を薄切りに、生姜を叩いてみじん切りに、鳥のもも肉をサイコロ状に丁寧に切っていく。
「美味しく刻んでまあ,素敵」
仕込み台の棚からフライパンを取り出し、胡麻で精製した油を引く。
「アズキー!」
アケが軽やかに声を上げる。すると猫か狸と間違えそうな大きさの茶色い猪が小さな足を動かしながらやってきて、アケの腰の辺りに飛びつくと、器用に前足を使って駆け上り、仕込み台の上に飛び乗る。
「掛け口が足りないの。いつものようにお願いね。台を燃やしちゃダメよ」
そう言って、蛇の目でウインクする。
アズキが照れくさそうに顔を背けて了解と言わんばかりに小さく鳴き、身体を震わせる。
背中の毛の隙間が橙色にじんわりと染まる。
アケは、剥き出しの頬と手に炙られるような熱を感じた。
アケは、そっと胡麻油を引いたフライパンを橙色に変わったアズキの背中に置く。それから10秒程してから生姜のみじん切りをフライパンに入れると弾けるような音を立て始め、生姜の苦味と旨味が混じり合ったような匂いが鼻腔を擽る。それから玉葱、鳥もも肉を放り込み、塩と胡椒を入れ、菜箸を使って丁寧に炒めていく。
「ゆっくりゆっくり炒めましょう。心と身体をあったかくー」
アケの歌に合わせてアズキも身体を揺する。それがうまい具合に食材の動きに合わさるのでさらに熱が通る。
玉葱は、しんなり、肉は十分に火が通ったことを確認するとアズキからフライパンを離し、そのまま釜戸まで持って行って、煮え立つ鍋の中に入れる。
旨味と出汁が混ざり合い、厨の中を舞う。
その匂いだけで胃が鳴ってしまいそうになる。
アケは、思わず幸せそうに笑みを溢す。
さてと、仕上げだ。
「たまっご、たまっご、かき混ぜよーう」
アケは、今日産まれたばかりの卵を3つをボールに割るとそのまま菜箸でかき混ぜる。黄身が潰れ、白身と混ざり合ってグラデーションになり、そして艶やかな黄色へと変わる。
「そして鍋に注ぐとー」
しかし、アケはその先を歌うことが出来なかった。
先程まで音を立てて沸騰していた出汁が眠るように静まり返っているのだ。焚き口を覗くと火が弱くなっている。
急いで薪を入れるが量が少なくて火力が上がらない。
「もっと用意しとくんだったな」
アケは、困ったなと顔を顰める。
薪置き場は、屋敷の裏側だ。
遠い訳ではないが流石に火から目を離したくない。
どうしたものかと考えていると・・。
「ぷぎい」
アズキが可愛らしい声で鳴く。
ひょっとして自分を焚き口に入れろと言っているのかと思い、アケは振り返って首を横に振る。
「ダメよ。流石に焚き口に貴方を入れるなんて・・」
アケは、驚く。
アズキは、アケの腕より太くて大きな枝木を口に咥えてこちらを見ていた。
アズキは、アケの前に枝木を置く。
アケは、枝木を手に取る。
随分と時間が経った物のようで水分はほとんどなくて軽い。アケの力でも十分に折れそうだ。
枝木からは花や草花が入り混じったような深く甘い、まるで香料を混ぜたお線香のような香りがして、心が落ち着く。
「これは?」
アケが訊ねるとアズキは得意そうに厨から廊下に出る入り口付近の棚を鼻で差す。
はて、あんなところにこんな枝木が置いてあったろうか?
「・・・まあ、いいか」
アケは、枝木を手で小さく折って焚き口の中に放り込む。
新たな食事を得た火が力強くその身を持ち上げる。
深くて甘い香りが立ち上り、あまりの良い香りに思わずため息が出る。
これはご飯のよいアクセントになりそうだ、と思いながら沸騰した出汁に溶き卵を流し込んだ。
アケは、出来上がった食事をお盆に載せてスキップしながらリビングへ急いだ。
その後ろをアズキが両足をパタパタ動かしながら付いてくる。
ご飯が冷めないうちにと言うこともあるが、リビングでコーヒーを飲んで待っている大好きな彼の元に早く行きたいと言うのが本音だ。
今日のお昼ご飯はトロトロ卵の親子丼。
「おやこ〜おやこ〜親子丼〜ふわとろ、ふわとろ、親子ど〜ん」
ツキが喜んで頬張る姿を想像してアケは、ムフフと表情を緩ませる。
ちなみにオモチには大根の葉っぱや小松菜の混ぜご飯、アズキにはドングリと椎の実を砕いて丸めたカリカリご飯だ。
「主人、お待たせ!」
アケは、満面の笑みを浮かべてリビングに入ると、鮮やかな水色と緑色が目に飛び込んでくる。
ツキは、いつものように丸太を半分に切って加工したダイニングテーブルに悠然と座っていた。
長い黒髪に整った凛々しい顔だちはもう一つの姿である狼の容貌を残しつつも気品に溢れている。金糸で花の模様が縫われた黒い長衣越しにも逞しい身体付きをしていることが分かる。そして何よりも特徴的なのは目だ。威厳と覇気に満ち溢れた黄金の双眸。そのあまりにも魅力的な双眸は、ツキの向かい側で膝を付いて会釈している2人に向けられていた。
1人は、水で解いた絵の具を落としたような鮮やかな水色の髪をし、もう1人は昼の新緑のような艶やかな緑色の髪をしている。どちらも小柄でどちらも簡素なシャツと膝丈までの獣の皮で作った腰巻きを巻き、どちらも髪と同色の尾羽を臀部に、そして本来、腕があるべき部位にあるのは羽毛に包まれた大きな翼、いや、腕であるはずの部位が翼に変化していると言うべきなのか?鳥ならば地上から綺麗に畳まれているはずであるが2人の翼は人間の腕のように曲がって膝の上に上腕を置き、もう一つの翼を床に擦れる程に下げていた。そして翼の先にあるのはアケと同じ肌色の手だ。
「姑獲鳥?」
アケは、思わず呟く。
それは白蛇の国に伝わる鳥に酷似した姿をした物怪の名だ。
「しぃ」
アケの横からキーの高い声が聞こえる。
蛇の目を向けるといつの間にかずんぐりと大きな白兎、オモチが立っていた。
オモチは、表情こそ変わらないがその円な赤い目で窘めるようにアケを見て、口元に人差し指を立てる。
どうやらでなくても怒られているらしい。
蛇の目を戻すと案の定、ツキの前に跪いている2人の目線がアケに向いていた。
敵意を持って。
2人とも幼いが整った可愛らしい顔立ちをしている。
そして多少の違いはあれど同じ作りだ。
それだけでこの2人が兄弟、もしくは双子であることが分かる。
「王、この者は?」
水色の髪が言う。
その声色は低く、女の子のように見えるが男であることが分かる。確かに顔つきも少し細く、尖っているように見え、隈のような黒い縁に覆われた羽と同じ水色の目も三白眼で細長い。
「何故、人間がここに?うんっ人間?」
戸惑ったように言う緑髪の方は間違いなく女の子の高い声だ。黒い隈に覆われた緑色の目は丸く、輪郭も可愛らしく丸い。
水色の髪の方は敵意を持っていることが明確に分かるが、緑髪の方は敵意と言うよりは好奇心からアケを見ているように感じる。
アケが2人の反応に戸惑っているとツキが小さく息を吐き、笑みを浮かべる。
その笑みを見るだけでアケは心が暖かくなる、安心するのを感じる。
「その娘は敵ではない。術を収めよ◇△」
聞き取れない発音の名前で呼びかけられたのは水色髪の少年と分かった。彼の羽毛に覆われた翼の手に緑色の小さな魔法陣が展開していたからだ。
オモチから魔法陣が色によって操る精霊が違うことを習った。赤は炎、水色はそのまま水、茶色は土、そして緑色は風だ。
ツキに言われて水色の髪の男は魔法陣を消す。
「随分と上手くなったなあ」
オモチが感心したように腕を組む。
「いえ、恐れ多い」
水色髪の少年は、オモチの言葉に頭を下げる。
「あの・・・王様・・・」
緑髪の少女が遠慮がちに口を開く。
「この方って・・人間ですよね?おめめが少し違うけど」
おめめ!
物心付いてからこの目をこんなにも可愛く表現されたことがあったろうか?アケは、驚きのあまり口を丸くしながらも嬉しさと恥ずかしさに胸がきゅっと締められる。
「ああっ人間だよ。人間の娘だ」
ツキも当たり前のように答える。
「白蛇の国の姫で・・・俺の妻だ」
天にも昇ると言うのはまさにこの気持ちのことを言うのだろう。
アケは、嬉しさのあまり表情筋の全てが緩んでしまうのではないかと思った。
「白蛇の国の・・・」
水色の少年に驚き怒りが浮かぶ。
「妻あ⁉︎」
緑髪の少女は、両頬に手を当てて口を丸くする。
ツキは、表情の一つも変えずに立ち上がる。
「アケ」
「はいいっ」
アケは、思わず声が上ずる。
頬が熱くなるのを止められない。
「この2人はかつて俺の従者だった者たちの子どもだ」
「従者?」
「そうだ。長く旅をしてここまで来てくれたのだ。しばらく猫の額に居を構えて住むそうだ」
そう言うツキは少し嬉しそうであり、寂しそうだった。
アケは、小さく首を傾げる。
「すまないが、何か食べれる物を用意してやってくれないか?丁度、昼時だろう」
その瞬間、アケの表情が青くなる。
あまりにも分かりやすい変化にツキは、眉を顰め、隣に立つオモチは首を傾げる。
「どうした?」
まだ、猫の額に来て半年足らずだがこんなにも悲壮な顔を見るのは初めてかもしれない。
アケは、両手に持ったお盆に載せた料理と今だ片膝をついて畏まる2人を見比べる。
「どうしよう・・・」
蛇の目が泣きそうなくらいに震える。
「今日のお昼ご飯、親子丼だよー」
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