第3話 ジャノメ姫(2)
物資は驚くほど早く到着した。
太陽が真上に昇り、オモチと一緒に畑の雑草取りとトマトや茄子の苗を植え、明日はお米の苗植えだなどと考えていると、突然に空が暗くなり、突風が地面を打った。
空を見上げると蝙蝠のような膜を張った羽を待つ全身を緑の鱗に包んだ生物・・・
「また派手に」
オモチは、呆れたように言う。
アケとオモチは、顔を見合わせて
オモチの裕に4つ分はありそうな巨体を地面に寝そべらせた
アケより少し若いくらいの美男子とは言えないまでも凛々しい顔をした金髪の少年だ。少し背は低いがその身体が鍛え上げられたものであることは甲冑越しにも分かる。
少年は、アケの姿を見ると嬉しそうに微笑み、
「ご無沙汰しております。姫様」
「その呼び方はしないでといったでしょ。ナギ」
少年・・ナギの畏まった姿を見てアケは苦笑する。
「子供の頃みたいに
「とんでもございません」
ナギの恐縮した態度は変わらない。
「頼まれた物をお持ちしました」
「そんな急がなくていいのに・・・」
そうは言いながらも小麦粉が早く届いたのは嬉しかった。
「いえ、姫がお困りなのではない・・・」
「だから姉様」
アケに強く言われてナギは言葉を飲み込む。そして小さく咳払いをして「姉様」と言い直す。
アケは、嬉しそうに微笑む。
「近衛大将も肩なしだな」
アケの後ろに立っていたオモチが面白そうに呟く。
ナギの目がオモチに向く。
その目はアケに向けられた好意的なものとは正反対の敵意を剥き出したものだ。
「恐れ入ります」
その声は、穏やかだが小さな棘が見え隠れしている。
オモチもそのことに気づいており、頬を小さく掻く。
「黒狼様は、どちらに?」
ナギは、オモチに向かって聞いたのだが答えたのはアケだ。
「主人は・・・」
「ここにいる」
突然、背後から降ってきた言葉にアケは振り返る。
金色に輝く大きな黒い狼がそこに立っていた。
地面を踏み締める柱のような四肢、優雅で強健な体躯、黄金の輝く黒い体毛、氷山のような牙、そして知性に溢れる黄金の双眸・・・。
黒い狼は、黄金の双眸てアケを、オモチを、そしてナギを見る。
「主人・・」
アケは、嬉しそうに口にしてから「あっ」と口を押さえる。また怒られると思ったが黒い狼・・・ツキは何も言わずにアケを一瞥し、そしてナギに目を向ける。
「遠路遥々、感謝する」
ツキは、威厳のある声で言う。
「滅相もございません」
ナギは、表情を固くも恭しく頭を下げる。
しかし、彼の身体が帯びる敵意をツキは見逃していなかった。
「疲れたであろう。ゆっくりしていってくれ」
ツキは、黄金の目をオモチに向ける。
「荷物を下ろすのを手伝ってやれ」
「はっ」
オモチは、右手を肩に回して頭を下げると
「アケ」
「はいっ」
アケは、背筋をピンっと伸ばして返事する。
「彼を労え。コーヒーを出しても良い」
コーヒーという言葉にアケは驚く。
「いいの?」
「アケの大切な客人だ。しっかりともてなしなさい」
「はいっ」
アケは、嬉しそうに返事してツキの首元に顔を埋める。
ナギは、首を垂れたまま千切れんほどに唇を噛み締め、刀に手を掛けるのを懸命に堪えていた。
屋敷の東側にあるガーデンテラスは、畑だらけの正面と違い四季折々の花々に包まれている。風が舞えば花弁と甘い香りが漂い、日に当たれば鮮やかに、雨に降られれば煌びやかに表情を変化させる。
アケは、白い円卓のテーブルにナギを座らせるとコーヒーを淹れた。豆を挽き、ドリッパーに粉にした豆を入れ、お湯を掛けた時に立ち昇る甘い湯気がアケは大好きだ。ガラスのサイフォンに溜まったコーヒーを青い陶磁のカップに注ぎ、手作りの焼き菓子を持ってナギの元に運ぶ。
ナギは、目の前に置かれたコーヒーをじっと見る。
「コーヒーよ。白蛇の国じゃあまり見かけないわね」
アケは、ナギの真向かいに座る。
「名前だけは知ってます。華族の方々の間で流行っているようですが私たち平民には縁遠いもので」
「近衛大将が何言ってるの?」
アケは、可笑しそうに笑い、ナギの左胸に描かれた白蛇を指差す。
それは白蛇の国の武士でも最高位のものにしか授けられぬ紋章だ。
「"朱のナギ"の名前は周辺諸国にまで広まってると聞いたわ」
「恐れ多いことです」
ナギは、恥ずかしそうに言い、陶磁のカップを手に取り、コーヒーを飲む。そして思い切り顔を顰める。
「あっ苦かった?」
アケが慌てて立ち上がるもナギが手を伸ばして制する。
「大丈夫です。少し驚いただけですから」
無理にということが分かるな笑みを浮かべてナギは言うと今度はそっとコーヒーに口を付ける。が、やはり顔を顰めるのは隠せない。
「ごめんなさい。主人の感覚で淹れてしまったのでお砂糖のことは失念してたわ」
申し訳なさそうに肩を萎める。
ナギの眉が小さく動く。
「黒狼様は、これを好まれるのですか?」
「ええっ。1日何回も飲むわよ」
「・・・・どうやって?」
ナギの言葉の意味が分からず、小首を傾げかけるも「あっ」と思い至る。
ツキは、アケとオモチ以外に人としての姿を見せることはない。
人に獣以外の姿を晒してはならない。
それが古来よりのルールだとツキは言っていた。
その為、ナギが知っているのはあの恐ろしくも雄々しい金色の光を纏った大きな狼の姿でしかないのだ。
きっとナギの脳裏には大きな器に大量のコーヒーを満たして舌で掬いながら飲むツキの姿が浮かんでいることだろう。
それはそれで可愛いとアケはムフフと想像する。
アケのそんな様子をナギは切なそうに見る。
「楽しそうですね・・・姉様」
「えっ?」
アケは、怪訝な表情を浮かべる。
ナギは、嬉しげな、そして少し寂しげな笑みを浮かべる。
「姉様が白蛇の国にいた時、そんな嬉しそうに、楽しそうに笑ったりするのを見たことがはありませんでした」
「・・・そうだった?」
アケは、自分の頬を触る。
あの頃、私はそんなに笑ってなかったのだろうか?
今は、そんなに楽しそうに笑っているのだろうか?
「私は、そんな貴方を守る刀になろうと懸命に修行に励みました」
ナギは、テーブルに立てかけた刀の柄を握り、そして離す。
「でも、結局守れなかった」
ナギは、下唇を小さく噛む。
「そんなことないわ。貴方がいてくれることがどんなに私の支えになったか」
いつも側で笑って元気づけてくれた小さな少年。
彼が側にいるだけで冷たくなっていた心は熱を保つことが出来たのだ。
「しかし、私が姉様を守れなかったのは事実です。白蛇様が長い眠りにつき、黒狼様を恐れる大臣や貴方を邪険に扱う神主達を止めることが出来なかった。そして貴方は黒狼様のもとに・・・」
ナギは、言いかけた言葉を飲み込む。
しかし、その言葉をアケが拾う。
「捨てた・・でしょ」
ナギの顔に動揺が走る。
「貴方は、あの時、国にいなかったのだから仕方ないわ。それに・・・」
アケは、小さく微笑む。
「私は、ここが大好きよ」
偽りなど感じさせない透き通ったアケの言葉にナギは大きく目を開き、そして小さく口元に笑みを浮かべる。
「そうですね」
「それに捨てられたなんて思わないで。私は主人の元に嫁ぐことが出来て幸せなんだから」
そう言って唇を尖らす。
「そうですね。本当にそうだ」
2人は、大きな声で笑った。
アケは、本当に楽しそうに、ナギは右手の拳を血が出るほどに握りしめて。
「あの人達は元気?」
ナギの表情から笑みが消える。
「はいっお変わりなく。黒狼様がいつ襲ってくるかビクビクしてますが」
「そう。本当に変わらないのね」
アケは、苦笑する。
「あの人達に伝えて。主人は貴方たちなんて襲う程暇じゃないって」
アケは、ナギにじっと顔を向けて言う。
その顔からは笑みの一つも溢れていない。
ただただ無表情であった。
ナギは、背筋が震える。
「畏まりました」
ナギは、恭しく頭を下げる。
「さっコーヒーが冷めちゃったでしょ?淹れ直してくるわね」
そう言ったアケの表情には朗らかな笑みが戻った。
そして手際よくカップを回収し、屋敷へと向かう。
ナギは、じっとアケの小さな背中を見つめる。
「姉様・・・」
その声は精悍な武士から想像も出来ない程に幼いものだった。
「僕が必ず貴方を守ります」
ナギは、誰にも聞こえない小さな声で誓いを立てた。
ツキを見るやナギの表情が険しくなる。
ツキもそれに気づいてはいるが態度には出さず、何かを咥えるとすっと立ち上がってアケとナギに近寄る。
ツキが咥えているのは麻紐に括られた程よく太った2匹の虹鱒であった。
「土産だ。今絞めたばかりだから新鮮だ。猫の額の虹鱒は美味いぞ」
そう言って口をナギの前に持っていく。
「ありがとうございます」
ナギは、表情を固くしながらも丁寧に受け取る。
「あら美味しそう。うちも今夜は塩焼きにしようかな?」
アケは、嬉しそうに声を弾ませる。
「すまないが今あるのはこの2匹だけだ」
ツキが言うとアケは不満げに「えーっ」と唇を尖らせる。
「10匹くらい捕まえたんですけどほとんど彼女の胃袋です」
オモチは、器用に指を立てて地面に寝そべる
「彼女って・・・女の子だったんだ」
「
ツキは、アケの側に寄り説明する。
それだけでナギの表情がさらに固くなる。
「それでは姫・・・」
「姉様!」
「姉様・・・また用がありましたらいつでもお呼びください」
ナギは、恭しく頭を下げる。
「近衛大将がこんなパシリばかりでいいんですかい?」
オモチが頬を掻きながら聞く。
「姉様からの頼みを超える役目などない」
ナギは、はっきりと言い切り、オモチは「さいですか」と半ば呆れたように言う。
ナギは、
「邪教の信徒が動きだしていると聞きます。十分にお気を付けを」
邪教の信徒と言う言葉にアケの表情が一瞬固くなり、黒い布に覆われた目の部分を触る。
「分かったわ。ありがとう」
「黒狼様。姫のことを頼みます」
「心得ている」
ツキは、大きく頷く。
「それではまた直ぐに参ります」
そう言い残し、ナギと
アケとツキとオモチは、見えなくなるまで見送る。
「・・・なんか明日にでも来そうですね」
「まったくだな」
ツキは、身体をぐっと伸ばす。
身体を包む金色の光が強まり、形が歪み、金色の目の青年の姿となる。
「主人」
「ツキだ!」
ツキは、金色の目でアケを睨む。
「さっきまで呼んでも怒らなかったのに・・・」
アケは、不満げに頬を膨らませる。
「あの武士の手前ですよね」
オモチは、面白そうに口をモゴモゴ動かす。
「自分が亭主だって見せたかったんですよね。王でも嫉妬・・・」
刹那。
表情の変わることのなかったオモチの顔が波打ち、揺れる。口元が捲れ、真っ赤な眼球が飛び出さんばかりに顔の肉がへっこむ。
オモチの鼻先でツキの拳が止まる。
黄金の目が冷たく光る。
「今夜はウサギ鍋か。少し淡白だな」
「食したことあるみたいな台詞やめてください。それに僕はどっちかと言うとコッテリです」
乱れた顔を整えてながら戦々恐々と言う。
「ところで・・・アケ」
「はいっ」
「なんて言おうとしたんだ?」
「いや、虹鱒・・・もう捕まえないの?」
「・・・そんなに食べたかったのか?」
少し呆れ気味にツキは言う。
アケは、恥ずかしそうに俯く。
「美味しそうだったらしゅ・・・ツキに食べてもらいたかったなあと思って・・」
頬を赤らめ、両の人差し指をモジモジ絡める。
ツキは、黄金の目を大きく見開き、「そうか」と頬を赤くし、そっぽ向く。
「気持ちは嬉しいが小川に住む成魚は獲ってしまった。大きくなるのはもう少しかかるな」
「分水嶺に行けばたくさんいるでしょうけど、今から行って捕まえるとなると夕方過ぎますね」
2人の言葉にアケは、がっくりと肩を落とす。
ツキは、肩を銜めて小さく息を吐く。そしてアケの頭にポンっと手を置く。
「虹鱒はまたにしよう。それよりも蕗の煮物が食べたいかな」
ツキが微笑んで言うと、アケも嬉しそうに微笑む。
「準備してくるね!」
そう言って急いで屋敷の中に入っていった。
ツキとオモチは、彼女を見送る。
「オモチ」
「イチャイチャとは思ってませんよ」
「そうではない」
ツキは、ぎっと睨む。
オモチは、思わず顔の前に両手を持っていく。
「あの武士が言ったことを覚えてるか?」
「・・・邪教の信徒ですか?」
オモチの鼻がひくっと動く。
「程度の低い輩が
「方法がない訳ではない。あの武士のようにな。結界でも張れれば楽なのだが・・・」
「アケ様に悪影響ですからね」
「そう言うことだ。あの輩にとってアケはとても魅力的だ。警戒を怠るな」
「畏まりました」
オモチは、恭しく頭を下げる。
「ご飯出来ましたよー」
アケの明るい声が蝶のように庭を飛ぶ。
ツキとオモチは、顔を見合わせ小さく笑うと屋敷へと戻った。
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