第2話
翌朝から、弘子はさっそく緑色の本を読み始めた。その本には、「魔法のガラス職人」についての物語が書かれていたのだった。
その職人は、数々の美しいガラスの器や装飾品を作り、多くの高貴な人々に重用されたが、彼自身は自らの作品に満足することがなかったという。ある雨上がりの夜明け、彼は森で傷ついた妖精と出会い、恋に落ちた。
それからの彼は、今までの作風を捨てて、人が使うには小さすぎる、しかし、とてつもなく精緻な作品を作り始めた。「彼の工房には人を惑わす悪霊が住み着いている。だから彼はおかしくなったのだ」と噂された。それまで懇意にしていた顧客には去られてしまったが、彼は構わず、とりつかれたように作っていたという。わずかな人形愛好家たちだけが彼の顧客として残った。
その後何年かすると彼は、今度はガラスに精密な溝をいくつも作り、硬いガラスでもインクをなじませて書くことのできる、ガラス製のペン先を作るようになった。その美しい流線形のペン先を求める人は次第に増え、「ガラスのペン先職人」として再び日の目を見ることになる。ちょうど同じ頃、「彼の工房には願いをかなえる魔法の力を持った森の妖精が住んでいる」という話がささやかれるようになっていた。
そして、彼のガラスのペン先が世に知られるにつれて、それは不思議な力を秘めているという噂が流れ始めた。曰く、それには妖精の魔法がかけられており、使う人が心の中で強い祈りを込め、世界で最も赤いインクで書き記したとき、やがてその文字は眩く輝きながら空中に滲んで消えていき、そして、書かれた願いをかなえてくれるのだという。ただし、この魔法の力は一度しか使えず、その後は普通のペンになってしまうらしい。
これを聞いたほとんどの人は、その魔性すらたたえた美しさをたとえた話だと考えていたが、これらの話の真偽はともかくとして、彼は「魔法のガラス職人」と呼ばれるようになっていくのだった。
職人は美しいペン先を作る「魔法のガラス職人」として再び世間の耳目を集めるに至ったが、その頃には「彼の工房に何かが住んでいる」という話は、とんと聞かれなくなっていた。そして、彼が「魔法のガラス職人」として名を馳せるのに反比例するように、彼はペン先作りへの情熱を失っていき、次第にペン先を作ることをやめた。またも一人で工房に篭って、誰のためでもない何かを熱心に作るようになったのだ。
そして、弘子があの店で買ったこのガラスペンは、その「魔法のガラス職人」が、彼の人生の最後に、自らと森の妖精の願いと魂を込めて製作した、総ガラス製の魔法のペンなのだと。緑色の本はそこで結ばれていた。
弘子は、なんて粋なおまけをつけてくれるのかしら、と思わずつぶやく。客の買い物を最高の体験にするために、こんな物語を添えてくれるなんて。妖精とか、願いをかなえる魔法だなんて、さすがに大げさだけれどね。でも、あの店の奇妙な雰囲気と相まって、この物語がなんだか本当のことのように思えてしまうから不思議だ。
数日かけて緑の本を読了した弘子は、このペンで店主へのお礼を書きたいという気持ちになっていた。白檀のお香を焚きしめ、福寿草のあしらわれた淡い黄色の便箋を取り出すと、南天色のインクをペン先に含ませた。
―――R.B.ブッコロー様へ
この度は素晴らしいペンをありがとうございました。ただ美しいだけでなく、このペンを滑らせると、なんだか心が躍るのです。魔法のペンが、なんでもない日をとても幸せなものに変えてくれている気がします。
おまけとして頂いた本も、とても興味深く読ませていただきました。このペンにまつわる職人と妖精の、少し悲しい、不思議な物語を知ることができて、とても嬉しく思います。まるで私自身が魔法にかけられたように、強く気持ちを揺さぶられました。
あなたのお店との出会いは、本当に素晴らしい体験でした。古びているけれど、その年月の重みが温かさとなって感じられる空間でした。そこに並べられたブッコローさんのお選びになった商品の数々、どれも素敵なものばかりでした。また機会があれば、ぜひお邪魔させていただきたいと思っております。
魔法のペンで書いた、魔法の手紙を。
岡崎弘子より、心からの感謝を込めて。―――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます