地に溶けて
なめらか
地下室の物体、外界を知る
薄暗い地下室、一人水槽の中から光を発している、その部屋唯一の照明に照らされていた。影のようにしか見えないその人は地下室の光景の一部の様に、その空間とマッチしていた。ごぽごぽという水音に紛れて、微かな会話が聴こえてくる。
「ねぇ、やっぱりでちゃいけないの?」
影の声だろうか。どうやら女の子の声の様である。少し高めだ。
物陰の方から、返事が聞こえてくる。落ち着いた、大人の女性の声だ。
「何度も言っているでしょう?ダメよ。だって、外には知らなくて良いものが沢山あるんですもの……」
「えー?知った方がいいかは見てからしかわからないとおもうけどなぁ……」
不服そうに、影の人は文句を言った。水槽の明かりに照らされた顔がむすっとした白磁の表情を浮かばせていた事から、普通の人なのだと分かる。
「ファクティ。私は外を知っているから言っているのよ。アナタが見なくとも分かるわ。」
「でもー……」
「危ないんだから、本当にお願いね。」
ファクティは日々そうやってマガ……地下室にいるもう一人の人間にねだっていた。外の光景が見たいと。何がいるのかが気になると。
ファクティとは違って、マガは毎日この地下室から上に行っていた。彼女には見ることの叶わない、上の世界に行っていた。
「マガだけズルいよ!私とあなたとで違うのは、大きさとちょっとした見た目だけじゃない!」
そうファクティが言い放つと、マガは少し困った様な、曖昧な笑みを浮かべた。
「……それじゃぁ、代わりに外についてお話をしてあげましょう。」
ファクティが外に出たいとねだるたびに、彼女は外についての話を聞かせていた。
その話を聞くのが、ファクティの一番の楽しみだった。
咲き始め、地面を覆う色とりどりの花の数々。電球などの光源なんかよりもずっと明るく燦々と輝くきれいな太陽。聞く話聞く話全てがファクティには珍しく、そして憧れを抱かせる楽しい話だった。想像してみれま見るほど美しく、信じられないような風景。見ることがないものということもあって、その話はとても魅力的だった。
そんな美しい外の様子を話す度に、話し手は少し寂しそうな顔をしていた。
(なぜだろう。そんなにも美しい景色についての話なのに。)
「ねぇ、マガ。もう我慢できない。外に行く!」
「何を言っているの、危ないと言っているじゃない。」
「あなたの言う『外』のどこに危ない要素があるのよ」
マガの言葉が詰まる。
「確かにすっごく強い動物の話なら聞いた事あるわ!でも、ここら辺にはいないと話していたじゃない、この場所がある『街』にはいないって……」
彼女は、確固たる意思を示していた。その目からは、一歩も引こうとする気がないことが窺える。
「そうね……でも……行かない方がいいわよ」
「何の理由が…!」
「……行かないで頂戴」
マガは、まるで理由が話せないかのように、苦しげに言葉を絞り出した。外の話をするときのような切なげな顔をして、ファクティを見つめていた。
結局その時ファクティが外に出ることは無かった。そんなことがあってから、少しマガからの外土産が変わった。頑張って描かれた自然の風景へと。毎回毎回、紙に閉じ込めた風景を持ち帰ってくる。そこまでしてファクティの夢をできる限り叶えてくれようとするマガに、彼女は罪悪感を少し抱いていた。
しかし、彼女の外への羨望は止まることを知らなかった。独特な匂いの染みついた絵を見る度に、憧れは膨らんでゆく。
(わがままかな……)
数日経っただろうか。ファクティは、遂に外に出た。
(マガが寝ている間だけ。ちょっとだけ……)
暗い地下室に隠された、冷たいの階段を登る。静かに上がって行く。
(どんな光景が広がっているだろうか)
天井に冷たく硬い、けれど床とは少し違うものがついている。取っ手があるのを見るに、扉だろうか。手を伸ばして開けようとするが、少し手を引っ込める。しかし、好奇心は抑えられず、恐る恐る扉を押し上げた。生暖かい冷や汗が腕を伝う。
(ちょっと覗くだけ……)
扉が開いた。外は暗く、地下室とは違った部屋が広がっているのが見える。地下と違うのは、明るい事だろうか?水槽の光が無くともものが見える。漂う不思議な、少し錆のような匂いを胸いっぱいに吸い込む。
(嗅ぎ慣れない匂い。どこから漂ってくるのだろう)
匂いの元を特定すべく、部屋の奥の方を見遣った。茶色い扉の前に、何やらブヨブヨとした肉塊が居座っている。明らかに彼女とは違う見た目なのに、まるで自分の一部……?もう一人の自分……?のような気がした。匂いの元はこの子の様だ。
「おいで、一緒に外に出よう」
呼びかけると、それは器用に肉の一部を動かして彼女の腕にくっついた。少し足にもまとわりつき、奥の方へ引っ張ろうとしている様な気がしたが、肉塊を抱き抱えて無視する。
反対側、光が差し込む穴がある方向にある扉に向かって走り込んだ。
マガは、目を覚ました。急いで辺りを見回すと、ファクティの姿がない。
(まさか外に出てしまったのではないだろうか)
「ファクティ!」
上の部屋まで上がり、手遅れかもしれないと内で思いながら、祈る様に呼びかけた。
ノブに手をまとわせる。腕の中の肉塊がノブを回させるまいと絡みつくが、気にせず回す。少し、肉塊の破片が千切れてしまった。
「……ごめんね?」
ガチャリ
外への扉が開いた。美しい太陽、色とりどりの花、動物、他の人への期待を胸にして。
しかし、その期待はただの夢であったことを、外の景色を目にした彼女は知った。空は赤く太陽を光らせていた。地面の花は枯れ果てた。土はひび割れ、廃れた建物の数々が目に入る。腕の中の肉塊はやめておけば良かったのにとでも言うかのように出っ張りを動かす。戻ろうと、腕を引っ張った。
ふと彼女が地面に目を向けると、何やら紙に印刷されたものが落ちていた。
(いつかマガの言っていた『新聞』とやらかしら)
表紙には大々的に、言葉の羅列が出されていた。
『⬛︎⬛︎ウィルス、終息させること叶わず』
その文字列を読み、理解し、飲み込んだ瞬間。彼女の頭の中に、見たはずのない記憶が渦巻いた。
世界は不可思議な病原体に侵され、皆無惨に死んでいった。みんな、哀れな肉と化していった。
たまたま死ななかったマガは、皆んなから取り残されてしまった。だから、偽物の愛娘、ファクティスを作った。だけど上手くはいかなかった。皆んな、すぐウィルスで死んだ。マガはそれが嫌だったから、何とか生き続けさせようとした。けれどもそれはもう肉塊。体が半分崩れた私に着せた意識。私に足などなかった。液体状の体が脚の役割を果たしていた。喉は崩れかけていた。喋るたびに水音がごぽごぽと混じり合う。ただし、それも万能ではなかった。外は、あれから万と変わったウィルスで満たされている。単独で増えられるようになり、最早バクテリアみたいだ。変化したウィルスに、古い抗体は効かない。
段々、身が食われて行く。賢明だった肉のあの子も、逃げる事あたわず少しずつ沈むように食われて行く。
(あぁ、マガの言っていたことは本当だったのだ)
(勝手に出ていかなければ良かったな)
後味の悪い感覚と共に、彼女の意識は溶けていった。
残された彼女はため息をついた。嗚咽混じりのため息を。塩辛い水を添えて。失った娘は帰ってこなかった。戻せなかった。見ていたかった幻覚は、今頃外へと溶けてしまっただろう。娘がまた溶け消えた。その事実が精神に強烈な一撃を打ち込む。それはとても耐え難く、遂には限界に近づいていたマガを崩した。
もう作ったって娘は帰ってこない。娘はあの世で過ごしているのだろうか?また会えるだろうか?いっそ…会いに行こうか。
外に踏み出す。彼女の想像していた以上に外の彼らは進化しており、すぐに肌を穿たれる感覚が体を襲う。きっと、娘もそうして死んだのだろう。
(彼らの身体の中で、かつての娘達と一緒になれるかしら……?)
地に溶けて なめらか @nushimiya4
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