桜の樹の下で

@8163

第1話

  工場の門のすぐ左に休憩室があるのだが、そこへの小道がS字に造られている。砂利が敷いてあり、日本庭園風に装飾したつもりなのか桜が植えられていて、春になると桜の花のトンネルを通って歩く事になり、納品時の楽しみなのだが、青いプラスチックの座面のベンチが二つ置かれていて寝転んで見られるのも素敵だ。

 桜の花の白と薄桃色の気体のような花びらを通して春霞の空が覗いている。

 毎日のように納品にくるのだが、必ず一時間以上待たされる。伝票の処理にどうしてか解らないが、待たされるのだ。最初は怒れたが、もう慣れてこの時間を楽しむ事にした。春は桜、夏は葉桜の下での横になっての休息。秋冬は、しょうがない、中に入って雨の日のようにマッサージチェアーでも使おうか?

 大した仕事もしてないのに疲れているのか、マッサージをすると効く。特に脹ら脛を両側からエアーで膨らんだ袋で圧されると痛痒くて、筋肉にスが入っているのかと錯覚する。大根じゃあるまいし、と、思うのだが、頭でイメージするのは密な白い大根ではなく、青くて鮮度はあるのに、隙間があり、二つに切ると真ん中が崩れていて大根おろしにもならない不良品だ。あれは果物で言えば熟れすぎた状態なのだろうか、つまり腐る直前なのか?

 どうしてなのか、意に添わぬ仕事をしているからだろう。四・五十人ほどの中小企業の営業職に潜り込んで配達に毛が生えたような仕事をしている。だが、仕事を取って来る力はなく、クレームがあれば行って謝り、検査済みを代わりに納品するくらいしか能がない。午前中は大概ここ。午後は自動車関連の会社へ行く。専属の運送屋が配送しているが、積み残しが出るのだ。もう一台頼むほどではなく、バンや2トン車で持って行く。勿論、注文書に基づいての出荷準備もし、現場への指示もする。だが、大した仕事てはないし、悩む事もなく、下請けだから親会社から無理な注文があるのかと思うが、そんなのは上司の仕事で平には関係ない。気楽なものだ。それに、ここには鼻薬を嗅がせた人物が少なくとも一人いる。お歳暮の時期に誰に何を贈るのかリストがあり、そこに、この工場の人物の名があり、トラブルの際に味方になって擁護してくれた事があったのを思い出し、そうゆう訳かと納得した経験があるのだ。だから納品にクレームが来ようが係長や課長に睨まれようが平気だ。お中元やお歳暮の使い方の威力をまざまざと実感する思いだ。

 以前、大きな会社で働いた経験があるので、人間関係のあれやこれやは少し理解があり、何処をどう突けば何処に達するのか、観察済み。違うのは中小企業では社長がワンマンで、根回ししても鶴の一声でひっくり返ることだ。

 去年の社員旅行の幹事を社長の娘婿の専務と二人で任されたのだが、旅行会社を変えてやろうと社長の了解を取って進めていたら、直前になってこれまた、社長の鶴の一声でチャラになり、元の木阿弥、いつもの会社に戻って富士山をぐるっと回ってバス旅行だ。まあ、どうせ飲んで食って温泉だが、どうせ温泉なら鄙びた所で一泊二日、静かにしていたかったが、幹事も楽だし、それも叶わず、危機感を覚えたのか旅行会社は課長を添乗させ、お土産を配って歓待し、宴会では張り切って司会を買って出て、事もあろうに幹事が呼び出されて隠し芸を強要され、仇討ちされてしまった。慰安にならない旅行だった。

 「何を笑ってるの?」

 マッサージチェアーで目を瞑っていたのに、多分、思い出して苦笑いしてたのだろう、生命保険の勧誘員、午後行く会社へ納品する運送屋ドライバー中田の奥さんに声を掛けられた。結婚の時、引っ越しを手伝った事がある。

 目を開けるとスタイル抜群の女が此方を覗き込んでいる。とても子供を産んだ女とは思えない。

 「何か良い事でもあったんですか?」と、営業スマイルで訊いて来る。

 工場の門で守衛に微笑み掛け、賄賂でも渡すのかどうか知らないが、昼休みを狙って休憩室で待って社員を勧誘する。新入社員はユニホームが新しいので直ぐに判別可能で、効率よく話を進められる。その時、ミニスカートとスタイルの良さが武器になる。色気で迫られては大概の男は拒否出来ない。話を聞かない訳には行かないだろう。

 中には逆に詳しい話を家でと聞こうと誘う男もいる。そんな仕事に結婚し子供が産まれても戻るとは、少し怪しい気がしてたが、案の定、離婚の噂が立っている。そんな風なのに笑顔が晴れやかで一点の曇りもない。噂は嘘で、夫婦仲は上手く行っているのだろうか? それでも、そんな噂には続きがあって客の一人と深い仲になり、もう別居しているとの話もある。

 どだい中田と結婚したのが解らない。何処で知り合い、しがないドライバーの中田と結婚したのか。出来ちゃった結婚らしいから女としては仕様がないのかも知れないが、直ぐにセックスする相手でも無かろうにと思うが、妻子ある男性と不倫してボロボロになって別れ、自棄になったからじゃないの? と、これはある女性の説だ。

 そんな説を流すのはどんな女なのかと思うが、会社の事務員のお局様、会社のFBI、大統領ならぬ社長のスキャンダルをも知っていると噂される女で、皆に敬遠されてはいるが、仕事は確実にこなし間違いはない。本物のFBIフーバーは長くその地位を保ったが、お局様は仕事も出来ない若い女に追われ会社を辞め、何と生命保険の勧誘を始め、直ぐに主任に出世、そこでも情報収集に余念が無かったのが仇になったのか癌で入院している。

 お喋りな女は沢山いるだろうが、男とくっついただの別れただの、恋バナだけでなく、前後の状況や力関係、その影響まで知っていて、まるで統括分析官だ。だから間違いなく、やけ婚。そう言う事だろう。

 「はい、どうぞ!」そう言って勧誘の備品である飴玉を一つ渡すと、中田の奥さんはマッサージチェアーに座ったままの此方に背を向け、例の足先を一直線に前に出すモデル歩きをして出て行く。食堂の方へ回るつもりだろうが、お尻が動いてモンローウォークになっていて色気を振り撒いている。扇情して靡く男が大勢いるので得意になっているとしか思えない。つまり客観的に己を確認して行動していて、心理的には男なのではないたろうか。それで男を惹き付ける事によってドーパミンが出て、その酔いに抗い難いのだろう。ううん、こんな非難染みた考えをするのは、もう魅了されてしまったのかも知れない。

 癪に障るが、ガラスの引き戸を開けS字の道を歩いて行く女を目で追っている。南側と東がガラス張りになっているので、桜の花の下を抜けて門から続く二車線の工場内道路を横切って事務所ビルに歩いて行く姿を見送っていると、入れ替わりに歩いてくる事務員の女性がいた。背も高くグラマーな肉体を持ち、加えて映画に出てくるメガネ秘書のような尖った赤い眼鏡を掛け、左手で書類を抱え、額に垂れた後れ毛を右手の指で掻き上げながら歩いてくる。

 まるで外人、たっぷりな肉体、それでいて顔は小さい。多分、人妻。見知ってはいて、以前から見惚れてはいたのだが、話した事はない。別に口説こうとか、そうゆう下心があっての事じゃない。そりゃぁ色気は感じる。でもその色気に母性が混じっているような気がして不思議なんだ。ゴロニャンと猫が喉を鳴らして甘えるように、頭からすり寄ってしまわないかと危惧して近寄れない。このところは、此方を認めると咎める雰囲気でメガネを持ち上げ、顎を上げ、鼻を反らせて歩き去る。嫌っている素振りたが、姿勢を正すので意識しているのが判る。それもまた好ましいのでオーケーだ。あちらも、生活のちょっとしたアクセントにはなるだろうし、仕事のリズムが変わって面白さを感じるのかも知れない。

 そう言えば製品の納入先の由美ちゃんが寿退社するらしい。ちっちゃくてコロコロと笑い、その癖、声に艶があり色気もある。天真爛漫が売りのアイドルだが、お相手は同じ会社の男だ。顔くらいは見たことがある。大きな堂々とした奴たが、既婚者な筈だ。どんな経緯があったのか、ドロドロの不倫劇じゃなけりゃいいが、また、男に子供がいるのかいないのか、略奪愛は、そりゃぁ萌えるだろうが、想像するだけで大変だ。男とすれば浮気でおしまいにしたい所だ。それを離婚して再婚。考えただけで萎える。

 まあ、可愛い娘なので彼氏がいないとは思っていなかったが、不倫とは予想外だ。同じ会社なら既婚なのは知っていた。そう考えて間違いない。小柄な由美ちゃんが大きな男に憧れるのは仕様のない事なのか、また、大男が小さくて可愛い女の子に惚れるのも必然なのか。それにしても不倫とは……。男としては、無責任に言えば嬉しい、に、違いない。

 この前、由美ちゃんと最後の挨拶を交わした。

 「残念だなぁ、由美ちゃんが居なくなると納品が楽しく無くなるよ」と、言うと、「本当ですか?」と、満更でもない顔。この先、納品検査は誰がするのだろう。などと、あらぬ事を考えながら、由美ちゃんの横顔や指先を見るとも無しに見ていると、「そんな風に言って貰えると、嬉しいです」と、羞じらい、呟くように言う。こんなにしおらしいのに、内には激情か渦巻いているのだろうか? 中田の奥さんのように派手ではないが、結果は同じようで比較せざるを得ない。

 離婚となれば、男は引き気味になると思うのだが、そこを押したり引いたり、時には拗ねて怒って、手練手管、恋の駆け引き縦横無尽、離婚させ結婚。由美ちゃんの印象からすれば身を引いて泣き寝入り。そんなストーリーなのだが、とんでもない。そんなイメージは男の勝手な思い込み。願望と幻想。追っても追っても辿り着けない蜃気楼のようなもの。

 けれども、それがあるから馬車馬の如く働け、生きられるとの意見もあると思うが、そうなると、男は踊らされるばかりの道化に成り下がる。そうだろう? 男の人権も認めて欲しい。泣きを入れる訳じゃないが、自分ではモテてるつもりが、その実、まるでモテない男の愚痴になるが、どんな風にすれば女の真心に触れられるのか。男を騙すのはチョロいものなのか。子供を孕ませれば男の勝ちではないのか。何れもNOの答えが戻って来そうだ。矛盾が在っても無くても気にしていない、の、かもね。


 そろそろ伝票が出る頃だ。桜の花は八分咲き、それでもチラホラと花びらが散って舞い降りて来る。

 事務所ビルに寄り、伝票を貰い、駐車場から車を出し、守衛の所で片手を上げて挨拶をして門を通過する。

 前の道路に信号は無いが、門が引っ込んでいて広く空間が空いていて左右の見通しは利く。

 右折したいのだが、車の通過が途切れない。南北の工場の塀に沿って道が通り信号があり、それが赤になれば途切れるのだが、その前にほぼ社員専用の横断歩道に人が入り車が止まった。その隙に右折して左車線に入った。

 信号から信号まで、工場の敷地だ。広大な工場で、普通は金網のフェンスで囲って木でも植えるのが普通だと思うが、コンクリートの塀が高く、延々と続く。目隠ししてるのか? その通りじゃないかと思われる。工場は色々のセクションに別れていて、元々は車のシートのクッション材を造っていたらしいが、銀行資本が入り、続々と手を広げ、自動車部品、プラスチック、化粧品、パソコンやファックスの部品まで、いや、不動産やマンション経営など商社並だ。

 中でも怪しいのが化学部門だ。中央を貫く片側一車線の構内道路の上を銀色のコンビナートのような配管が頭上を横切り、駐車場奥のタンクに繋がり、さらに奥へと延びている。塀の脇には窓のない建物があり、そこでプラスチックを溶かしてくっ付ける液体を貰った事がある。硫酸か塩酸か、その類いの液体だと思うが、強烈な刺激臭があった。毎日、夕方近くなると刺激臭が外の道まで漏れて臭うとも言われている。何を作っているのか、誰に訊いても教えてはくれない。大きな工場で、部門部門に別れていて、隣は何をする人ぞ状態なのかも知れない。その中で大勢の人が働き、トラックがひっきりなしに出入りし、蟻のように人が歩き回っている。俯瞰すればこのようになるが、近づいて見れば由美ちゃんやグラマーな事務員が歩いているし、中田の奥さんのような人も入って来る。かかわり合うのは人、考えるのも人についての事。けれども捨てて行ける。どっちも棄てて行けるんだ。抱えてなんか行けるものか。了

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