第5話「いつもより長い週末」

「いただきます」

「どうぞー」


 ルーティンとは怖いもので、自然と飯の前に手を合わせる自分がいたりする。

 先週と比べて食生活が改善されたことがよく分かる。今日のメニューは、レバニラと茄子。それと、ビール。

 なぜか酒にぴったりなものが出てくる気がするが気のせいか。

 しかし今日もまた、音のない食卓。俺が席に着くまではあんなにうるさかった家の中が嘘のように静まり返る。

 帰宅したときのただいまも慣れてしまったもので、それに対する返事があることにも慣れてしまった。

 ただ、今日はいつもより豪華なお帰りだった。「一週間お疲れさま」。初めてかけられた言葉で、一瞬我を見失ってしまった。季衣菜による俺の未体験は、まだ続くらしい。


「おいしい?」

「普通に美味い」

「他になんか食べたいのない?」

「なんでもいいな」

「なんでもはダメ。どうでもいいに聞こえる」

「そういう意味じゃないんだが。飯なんて大体何食っても美味いから、何が出てきても食うぞって」

「私が作るから?」

「クックパッドがあれば大抵なんとかなるんだろ?」

「ぶー」

「ごちそうさん」

「お粗末様でした」


「ねね、週末だね」

「あ? まあそうだな。ようやく仕事から解放された」

「お疲れさま」

「なんだよニヤニヤして」

「私、そんな顔してる?」

「なんとなく、そんな気がした」

「ムカつく」

「なんでだよ」

「晋吾さんは楽しみじゃなかったの、週末?」

「楽しみってか、なんだろな。とりあえず二日間は仕事のことを考えなくてすむが」

「そういうことじゃなくて。約束してたじゃん」

「あら、なんかあったか? すまん」

「エッチは週末だけって」

「あー。え、でも、それって、週末にするとは」

「言ってないよ?」

「だ、だよな。焦った」

「でも、したいでしょ? 楽しみだったんじゃないの?」

「いや、えっと」

「あんなにチューはしてくるくせに」

「あれは違うだろ。お前が罰ゲームって」

「はい。んっ」

「季衣菜が罰ゲームって決めるから仕方なく」

「仕方なく、夜通しチューしちゃうんだ」

「一回あたりの時間決まってなかっただろ」

「言い訳が苦しいよ? それに、ずっとおっぱい見てるし」

「ずっとは見てねえだろ」

「裸見せつけてくるし」

「見せたかった訳じゃねえ!」

「晋吾さんさ、エッチしたくなんないの?」

「うっ」

「そこで言葉に詰まっちゃうのは、白状してるのと一緒だけどね。いいよ、今日のところは許してあげる」

「ああ」

「その代わり、恋愛遍歴を聞かせて」

「は? 俺の?」

「そうだけど。だって、恋くらいは人並みにしてたんでしょ? 一つや二つあるよね?」

「無いことはないが。んー。詰まらんぞ」

「聞いてから判断するからいいよ」

「お前なあ」

「まただ。好きだよね、チュー。んっ。ね、チューはしたことあった?」

「……。ない」

「えー! 恋してたのに?」

「告白してフられた。だから彼女がいたことないし、そういうことをしたこともない」

「風俗は?」

「行き方が分からん。あと高い」

「そーなんだ」

「あんなのは富豪の遊びだ。だから俺はそういう経験はない」

「だったら、余計に夢抱いてるんじゃないの? してみたいよーって」

「バカにしてるだろ」

「ちょっとね。でも、半分は本気」

「半分もバカにしてたのかよ」

「じゃあさ、エッチしたくなるほど人を好きになったことあるの?」

「はあ。実は正直よく分からん。いや、何を言わされてんねん」

「いいよ、素直になっちゃって。でも、告白したんでしょ? 好きですって」

「それはそうなんだが。そうだな。告白した直後には、そこまで好きか? とか、付き合えたとして、だからどうしたいんだ? とか。色々考えててな。だからよく分からん」

「真面目すぎるんだね、きっと。あ。じゃあじゃあ。未経験って言うのを脱すれば考え方も変わるんじゃない?」

「は?」

「ほら、ワンナイトとかあるじゃん。たぶん、その良さが分かると考え方も変わってくるんだよ」

「お前。まるで知ってるように言うな」

「ねえ、今罰ゲーム貯まったけど。どうする? チューだけで終わっちゃう? それとも、明日のことなんて考えずに。んっ!」

「バカ言うな。そう簡単に女の子が体を許すな」

「シャワー覗きに来たくせに」

「あれは、そういうのじゃなくてな」

「んー、晋吾さんは難しいねー。どうしたらエッチしたくなるんだろ」

「俺はそんな、欲望で人をどうこうしようとは」

「でも私は凄い好き勝手にやってるよ。晋吾さん引っ越させたり」

「まあ、それはそうなんだが」

「じゃあお互い様なんじゃない? やりたいことをぶつけてもさ」

「いや、しかしな」

「あー、じゃあ罰ゲームになっちゃえばいいんだ。罰ゲームならやりたくなくてもしなきゃいけないもんね」

「いや、それはお前」

「チューみたくね。んっ。こうやってすぐに自然とチューできてるわけだし。今私は、しろって言ってないよね」

「や、約束、だから。な。」

「ふーん。いいこと聞いちゃった。じゃあねー、新ルールね」

「おい、勝手に」

「大丈夫。今まで通り気を付けてればいいんだから。金曜日の夜ごはんが終わった後から、罰ゲームはチューじゃなくてエッチになります! けってーい!」

「あのな」

「はい。繰り返して。お?」

「お」

「ま?」

「ま」

「え」

「いや、言わねえよ? 誘導が甘すぎて」

「ダメだねー。詰めが甘いよ。私の口を塞がなきゃ」

「なんでだよ」

「晋吾さん。私、言っちゃったから。お前って」

「はあ?」

「晋吾さんって言わなきゃいけないところで、お前だって。私も偉くなっちゃったもんだね。あーあ、罰ゲームしなきゃ」

「お、おい。俺はまだ了承してない」

「まだ?」

「うっ」

「はいはい。どうどう。まずは目を閉じて深呼吸してー。はい、吸ってー。吐いてー。もういっかーい。んっ。吸ってー。吐いてー」

「なあ、目を開けちゃ不味い気がするんだが」

「なんで?」

「お前、脱いでるだろ」

「はい、アウトー! あと私、脱いでませんよーだ!」

「な、てっめえ!」


 怒りと言うのは恐ろしいものだと初めて知った。

 自分の体なのに自制が効かなくなるらしい。

 よくよく考えれば分かりきっていたことだった。

 衣擦れ。足を踏む音。引っ掛かる服を外すあえぎ。こもった掛け声。半笑いの「なんで」。ゆっくりと近づく気配。顔にかけられた息。

 季衣菜は当然のようにそこにいた。一糸まとわぬビーナスのように。

 こいつは分かっている。アクシデントなら折れるしかないことを。

 こいつは狡猾こうかつだ。エッチが何かを定義してない隙に、裸体を見せた。

 俺はこの悪魔に完敗した。

 いや、すすんで勝ちを譲ったのかもしれない。

 腕が顔の両側に伸びてくる。それはそのまま視界を通りすぎ、首に引っ掛かった。

 体が押し当てられる。抗うように腰を引く。後ずさる。

 踵が何かに触れる。でも背中はまだ自由だ。だから仰け反る。

 しかし無情にも、二人の体はより密着する。

 抵抗も空しく、二人でベッドに倒れ込んだ。

 見たことあるまったりとした笑顔が貼り付いていた。「これは、「お前」の分」そう言って口が塞がれる。

 心臓が心臓のていをなしてないかのように。今まで経験したことないスピードで叫んでいる。

 暑い。顔が火照る。鼻血が噴き出しそうに。顔全体がどくどくうなる。

 長い。あまりに長いキス。いつもの3倍。いや、10倍くらい長い。

 泳いでいた目が季衣菜に捕まる。捉えられた目は蛇ににらまれた蛙のように動かせない。

 そうだ、あの時の目だ。喫煙所で認められてしまったあの時と同じ。

 気づいたことがバレたかのように、季衣菜の目が溶ける。

 「これからは、「てめえ」の分。言葉が乱暴で傷ついちゃったから。私もそれなりの罰ゲーム、するよ?」言い終わるなり、甘すぎる蓋に再び口が塞がれた。

 言葉で抵抗する手段すら奪われた。

 手も、足も、体全体が弛緩しかんして、まるで感覚がない。振りほどくほどの体力すら、知らない間に奪われていた。

 もはや手がどこにあるのかも分からない。

 立っているのか座っているのか。いや、転がされてるのか。それすら曖昧。

 ただ顔だけが転がっていてもてあそばれている。

 理性を置き去りにして、俺は新たな罰ゲームを受け入れた。

 季衣菜との初めては、どっちが女だったのか分からないほどの夜だった。




 目が覚めた俺の隣に居たのは、スマホを構えた季衣菜だった。


「おはよ」

「いや、もう遅いだろ」

「分かってるならちゃっちゃと起きて。朝御飯にするよ?」

「お、おう。な、なあ、季衣菜」

「なあに?」

「昨日は、その」

「ちょっとー! 朝までそれ引きずっちゃダメ!」

「は?」

「あれは昨日の夜の出来事。しかも罰ゲーム。分かってる?」

「何が」

「罰を受けたってことは、贖罪しょくざいしたんでしよ? なら、ルールを破っちゃったって罪はチャラ」

「はあ」

「つーまーりー。今はゼロの状態! Are you OK?」

「お、OK」


 昨日とも、一昨日とも変わらない朝を演出する。俺もそれに合わせなきゃならんらしい。

 いやしかし。意識しないわけにはいかない。

 俺はあいつと昨日。

 込み上げてくる物はなんだ。喜びか。後悔か。懺悔ざんげか。悲しみか。

 あいつはどうなんだ。なぜ普通にしてられる。裸のままで彷徨うろつくな。


「なあ、せめて服を」

「今洗濯してる」

「ああ、うなってるしな」

「だから着るもの無いの」

「は?」

「あ、晋吾さんもだよ」

「なんでだよ!」

「なんでって言われても。私いつもと同じことしてるだけだから」

「でもいつもはもう一着くらいあるだろ」

「今日はドジしちゃった」

「はあ?」

「もー、家の中の服ぜーんぶ洗っちゃった。だから、服は着れないし、当然お出掛けもできない。なんか、ワイルドだね」

みだらなだけだ」

「わ、昨日あんな獣だった晋吾さんに言われても」

「昨日のことは引きずらねえんじゃねえのかよ」

「相手をおちょくる時だけは有りなんだよ」

「ふざけたルールを」

「じゃあ今からこれルールね」

「勝手に」

「いいでしょ? 晋吾さんもおちょくりたかったら言っていいよ? でも」

「でも?」

「それがもし、おちょくりに感じられなかったとしたら?」

「し、したら」

「ルール違反だよね」

「おまっ!」

「今のは際どいねー。一応ギリセーフにしてあげる。気を付けてよ? 金曜日の夜ごはん以降はエッチが罰ゲームなんだから」

「ん? つまり」

「そう。真っ昼間でも、罰ゲームしなきゃいけなくなっちゃうから。ホント、気を付けてよ?」

「そいつは、参ったな」

「あー、カーテン洗っちゃう?」

「は?」

「汚れてるかもだし?」

「それはおま、季衣菜。やっていいことと悪いことが」

「ダメなの?」

「公序良俗の面で」

「誰がこんな部屋の窓覗くの? むしろ覗かれたら私たちの方が被害者だよ?」

「見せつけてたら加害者だろ」

「見せつけるつもりはないもん。偶然カーテン洗っちゃった日に、罰ゲームをしなきゃいけないだけでしょ? あれ、むしろそういう想像してたの? エッチ」

「エッチなのは」

「あっ」

「お前の方。あっ」

「晋吾さん。語気が荒くなるとやりがちだから気を付けてって、言おうとしたのに」

「す、すまん。えっと」

「朝御飯どうする?」

「えっと」

「ねえ、ご飯にする? それとも私?」

「お前と言うか、罰ゲームだろ」

「ほんと、学習しないよね。おじさん?」

「なっ」

「食べさせてあげる。口移しで。で、しよっか。そのまま。罰ゲーム」



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