第4話「ちょっと長い夜」

 朝のドタバタなんてものは、俺がどうこう言っても変わるものではなくて。感謝する気持ちもわずかながらに心の片隅にいて。しかし朝飯だけはどうにか回避したいと思いつつも、弁当をもらえる手前やはりこれも無下にできず。

 つまり、もう起きているのに邪魔しないようにベッドでウダウダ惰眠をむさぼっているわけで。しかしなんてこった。いつもはできるはずの2度寝ができん。

 時間は。6時25分。昨日よりさらに早い。なのにもかかわらずすっきりとした目覚めなのはなぜなのか。


「おじ。晋吾しんごさん起きたー? 顔洗ってきてよ」

「今のはセーフの範囲なのか?」

「ダメ? アウトにする?」

「李衣菜がどう考えてるか聞きたかっただけだ」

「ま、言い切らなければセーフかな」

「じゃあそれでいいか」

「おはよ。実は結構前に起きてたでしょ」

「気づいてたのかよ。起こせばいいのに」

「だってー、さすがにまだ早すぎるかなって。ご飯の用意しちゃうから。顔洗って。はい、タオル」

「おう、さんきゅう」

「ごはん大盛ねー?」

「聞いてんのか、決めつけてんのかどっちなんだよ」

「大盛っと」


 朝飯なんて何年振りか分からんが。喉が悲鳴を上げてるのだけは確かだ。これ以上酒が入らない時と同じ感覚。嗚咽感がする。やっぱり炊き立ての匂いはきついな。明日からはパンにしてもらうか。

 タオルが。フカフカだな。洗濯機にかけるだけだろ。何が違うんだ。ゴワゴワな記憶しかない。


「なあ、李衣菜。これなんでこんなふわふわなんだよ」

「いいタオルだから?」

「いいタオル?」

「晋吾さん、やっすいのしか使ってこなかったでしょ。そんなのゴワゴワになるにきまってるじゃん」

「はあ」

「私みたいにキメ細かい肌に当たるんだから、ヤワヤワでフワフワなタオルにしないとね。はい、どうぞ」

「いただきます」

「覚えてたね」

「罰ゲームが待ってるからな。朝からあれをするのはきついしな」

「確かに。ってか、歯磨いてないよね」

「あ、ああ。食べてからでいいだろ」

「ダメー! もー。寝てる間に雑菌が増殖してるんだから。それ胃に入れちゃうことになるよ。明日からは先に歯磨いてね」

「はいはい」

「美味しい?」

「まあ、不味くはないが。明日からパンがいいな」

「あれ、パン派だった?」

「いや、そうじゃなくて。朝から炊き立てのご飯の匂いは胃がもたれる。吐き気が」

「ありゃま。でもどうせ、お弁当用に炊くよ?」

「おっと」

「どうする? お弁当はお昼に持ってってあげよっか」

「電車賃はどうすんだよ」

「どうせご飯の買い物いるんだし。ついでついで」

「そうしてくれるとありがたい」

「でも今日はもうできてるから。持ってってね」

「はあ」

「玄関で渡すから。さ、食べて食べて。昨日できなかったことやるよ」

「なんだよ」

「まず、スーツ着せてあげるでしょ。お弁当渡しながら行ってらっしゃいでしょ。あとはー」

「一人で着れるぞ」

「子ども扱いしてるわけじゃなくてさー。分かるじゃん。ラブラブ夫婦のそういうやつ」

「分らんくはないが」

「してほしいでしょ?」

「いやー。邪魔なだけだと思うが」

「そんなことないし! 今日やってみるから! それで判断してよね!」

「おう」

「食べ終わったね」

「おう。歯磨いてくるわ」

「はあ。おじさん。あっ」

「お前何してんだよ」

「晋吾さんもね。あのー、いただきますを言うなら、ごちそうさまもじゃない? 普通」

「言わんとすることは分かるが。それは罰ゲーム対象なのか?」

「何? 罰ゲームになんないとそういう常識もできないの?」

「そうじゃねえけど。でも今日のところはそれで罰ゲームにされても困るだろ」

「事後法の禁止ってことだね。うんうん」

「何に満足してんだよ」

「いいからいいから。晋吾さんでよかったなって。じゃ、罰ゲームね。まず私から。はあ。なんで歯磨いてないの?」

「普通、飯の後だろ」

「いいから、黙ってて。んっ。んちゅっ。んぱっ。おえぇ」

「なんでそこまですんだよ」

「はい、次は晋吾さんの番」

「俺も同じことすんのかよ」

「お好きにどうぞ」

「それは。ん-」

「ちゅっ。なんて可愛らしいチューなのかしら。はいはい。磨いてきて。着替えの準備しとくから」




「ね、ねえ。どうやって結ぶの」

「俺も自分でやらねえと分かんねえし。ちょっと貸してくれ。えっと。太い方を垂らすだろ」

「ちょうど股間のあたりだね」

「言わんでいい。で、細い方に時計回りに巻き付ける。1周。で、できた輪っかに上から通す。あとはギュッとする」

「うんうん。もう1回やらせて」

「これで最後にしてな。いい時間やで」

「大丈夫。私賢いってよく言われるから。えーっと。ここで巻いて、入れて、縛る。こんな感じ?」

「形がよくてもバランスが悪いだろ。こっちが垂れすぎ。まあ、縛りなおすわ」

「ごめんね」

「謝ることじゃねえが。ま、そのうち何とかなるだろ」

「じゃあじゃあ、もう出る?」

「まー、出るか。こんな格好でダラダラしにくいしな」

「せっかくアイロン掛けたんだし、汚さないでよ」

「どおりで。着にくいわけだ」

「あー、そうやって文句言うもん。もうやってあげないよ?」

「やったことなかったから構わん」

「もー、あー言えばこう言う」

「ほれ、弁当だろ」

「あ、そうそう。はい、お弁当。あと、ハンカチ。で、水筒」

「あのさ、なんか手提げみたいなのないかよ。持ってきにくいぜ」

「ん-、ちょっと待ってね。たぶん無いけど」

「だろうな」

「んー、ダメだね。ないね。今日買っとくね」

「明日からはお前が持ってきてくれるんだろ?」

「確かに。あと、罰ゲームね」

「うっ」

「ついでだし。行ってらっしゃいのちゅーにする?」

「ついでか?」

「はい、どうぞ」

「身構えるの早いんだよな。い、行ってきます」

「いってらっしゃい」


 朝から顔が熱い。夏のせいだけじゃない。はず。誤魔化すようにほっぺにキスして出てきたが。弁当が邪魔だ。どうにか。1回コンビニ寄るか。最悪ビニール袋で代用するか。




「ただいまー」

「おかえりー。今日は早かったね」

「まあ、思ったより時間かからんかった」

「それとも、早く私に会いたかった?」

「言っとけ」

「お弁当もらうね。じゃあ、今日はどうする? 私にする?」

「風呂だな」

「準備するから。スーツはハンガーにかけといてね。それくらいできるよね」

「さすがに馬鹿にするなよ」

「今までやらなかったくせに」

「言われればやるわ」

「はいはい。お前、なんだそれ」

「どうぞ」

「何が」

「罰ゲーム」

「はあ。マメだな」

「ちゅっ。で? 何だって何? 恰好?」

「そう」

「髪流すんでしょ。だからそれ用の服」

「わざわざ?」

「わざわざ!」

「それはどうも」

「どうすんのおじ、晋吾さん。脱ぐのも手伝うの?」

「いい。自分で脱ぐ。見んなよ」

「私は裸見られてるんだけど」

「見たいのかよ」

「興味がないことはない」

「はあ。エロガキだな」

「エロイんじゃなくて、知的好奇心が旺盛って言ってほしいよね。もう早くして」

「はいはい」

「じゃ、そこ座ってて。シャワー熱くない?」

「ちょっと温い」

「もうちょっと温度上げよっか。人の髪洗うなんて、私も初めてだから。知らないよ?」


 床屋に行っても普段シャンプーはお願いしないから。俺も人に洗ってもらうこと自体が初めてだ。だから比較しようがないが。指先が柔らかい気がする。爪じゃなくて指で洗ってるのか。

 こう頭皮を揉むような。マッサージだな、まるで。気持ちいい。

 たまに上から声がかけられるのもいいな。安心する。昨日までの風呂とは全然違う。疲れが取れるような。いや、実際取れてるんだろうが。


「へい、お待ち」

「待ってねえけど。ありがとな」

「うんうん。良い匂いだね」

「風呂あがっても良い匂いだといいな」

「でないと、そろそろベッドを分けなきゃだね」

「臭すぎてか」

「そだね。じゃ、先行ってるから。長風呂しすぎないでね」

「浸かれるもんもねえから。大丈夫」


 もうあとは体を洗うだけだ。早く出よう。玄関を開けたときに気づいていた。あの匂い。さすがに腹が減った。だが。ん-。歯ブラシ。磨いとくか。これ以上迷惑をかけるわけにはいかんから。

 ん? 違う。迷惑かかってるのは俺か。どうも最近思考がおかしい。そもそもだ。いつものループだが。なぜ俺はこの状況を受け入れているのか。

 どこかに寂しさがあったのか。迷惑をかけられたほうが、寂しさから抜け出せると思ったか。だから、明確に拒否することがないのか。

 だが、この受け入れているという状況は。のちの殺人喪失感を誘発する。どう転ぶ。くっそ。まただ。

 自力で抜けれなくなる。あいつに頼るしかないのか。くそっ。


「ちょっと晋吾さん。なんで裸で出てきてんの。着替え置いてなかった?」

「どこ置いてある」

「洗濯機の上。昨日と同じじゃん。もー、しっかりしてよー。それとも。見てほしかったの?」

「違えわ。ちょっとぼーっとしてた」

「のぼせた?」

「かもしれん。水くれ」

「はいはい」


 一息つく。もちろん裸のまま。心配した目で見ているが、のぼせたわけじゃない。いや、思考にのぼせたかもしれない。

 とにかくこいつからアクションをとってもらわないと、クソみたいな思考から抜け出せない精神になっていることは分かった。

 さっきまでしていたはずの匂いも感じない。まずはとにかく着替えよう。余計に心配させるだけだ。


「わりいな。食べるか」

「いいけど。ほんとに大丈夫? チューする?」

「それで治るなら」

「やってみよっか」

「罰ゲームなんだろ?」

「じゃああの呼び方したげよっか」

「いや、いい。食べよう。いただきます」

「いただきます」


 死んでた鼻も何とか意識を取り戻したようで。今日も料理は普通だ。普通にうまい。中華なのはメインの回鍋肉ホイコーローだけだが。これもまた家庭の味か。

 ご飯をそっちのけにビールで流し込む。味噌がきつくて酒に合う。もっと濃くても良いが。こいつの食事でもあるし、我慢か。

 無言が続く。お互いに日中には大したことがなかったと見える。でも、嫌じゃないな。この無言も。食事中に喋ることを行儀悪いという親だったかもしれない。

 食べ終わるのを待つか。よく見れば食事の所作も、見栄えがいい。見苦しくない。いや、奇麗なのか。丁寧なだけか。


「何?」

「いや、よく見ると奇麗だと思ってな」

「今更」

「所作が」

「は?」

「食べ方きれいだよな」

「私は?」

「だから、お前が」

「はい。どうぞ」

「あ? あー。敏感だよな?」

「チューが? 口が? 性感帯じゃないよ。たぶん」

「そうじゃなくて」

「わかってる。んっ。ね、食事中にチューするのってどうかと思うよ」

「お前が最初に。あっ」

「わざと?」

「ちがっ」

「いいから。んっ」

「テレビつけてもいいか?」

「いいけど。何もやって無くない」

「見るつもりはない。ただ流したいだけ」

「静かだから?」

「まあ、そうだな」

「いいじゃん。静かで」


 食事中に罰ゲームをするのは、たしかにどうかと思うが。楽しい面があるのは否定しきれない。ちょっとくらいうるさくて、せわしない方が、人生充実するんだろうな。

 そういえば今日はキスしても嫌がられないな。休み時間に調べた甲斐があった。匂いは? 自分では分からんが。


「匂いはどうだ」

「え、そういえば気になんないかも。いんじゃない」

「それならよかった」

「なに? 気にしてんの」

「そりゃな。申し訳ないだろ。いろいろと」

「迷惑かけてるの私なのに?」

「それとこれとはちょっとな」

「ふーん」

「ごちそうさん」

「お粗末様でした」

「粗末なんて。美味かった。普通に」

「普通に美味しいって一番難しいよね」

「そうか?」

「だって、その人の味覚と、好き嫌いといろいろあるじゃん。あ、濃い薄いあったら言ってね。あんまりこれ以上濃くしたくはないけど」

「いや、大丈夫だ。ちょうどよかった」

「よかったー。もう寝る?」

「いや、もう1本開けてから寝るかな。せっかく買ってもらったし」

「じゃ、私も」

「飲めんのか」

「分かんない。ビール初めて飲む」

「んー。缶とさ、コップ持ってきてや」

「なんで。一緒のやつ飲めばいいじゃん。あ、間接キス気にしてんの。もうチューしちゃってるのに」

「違う。あのな。ビールは注いで飲むほうがうまいんだよ。だからコップに出して飲めって話。ガラスのコップとかない?」

「マグカップしかないよ」

「雰囲気は出んけど、しゃあねえか。ほれ、傾けて持っとけ」

「私が持つの?」

「お前が飲む分やからな。俺が立てろって言ったら、ゆっくり立ててけよ。最後に泡立てて完成やでな」

「ふーん」

「最初は泡を立てんように。まだまだ、寝かせとけ。で、そろそろゆっくり立て始める。こぼれん程度に。いいじゃん。完成」

「おじさんはそのまま飲むの?」

「コップないだろ。俺はいいよ別に」

「あっそ」

「じゃ、乾杯」

「乾杯。うへー。にがー。え、マジでこれ美味しいの?」

「ビールの中では相当飲みやすいと思うぞ」

「ちょっといらない。おじさんあげる」

「これくらい飲んどけ」

「あとね、晋吾さん。気づいてる?」

「え、やってた?」

「晋吾さんが1回。私は2回。まず晋吾さんからね」

「なんで回数数えてんだよ。確信犯かよ」

「宗教的な問題じゃないよ」

「は?」

「いいから。早く。罰ゲームなんだから、つべこべ言わずにやる。んっ」

「満足か」

「おじさんのチュー苦い」

「3回目だな。あと、苦いのは俺じゃなくてビールだろ」

「おじさんもめっちゃ数えるじゃん。あーあ、また増えちゃった。ちょっと待ってね。準備するから」

「準備って、お前飲みすぎ」

「ふぁい、ひっふぁーい。ふぁ、いふよー。んっ。んんっ。じゅっ、ちゅっ。んーん-。ん-! んぱぁっ。美味し?」

「驚きすぎて味がわからん」

「じゃ、晋吾さんも。1回分罰ゲームね」

「俺もすんのか?」

「ご想像にお任せします」

「飲めよ? こぼすなよ?」

「うん。んっ。ん-! んんーっ! ん-ん-! ん-! っぱー。にがーい!」

「仕方ねえだろ、ビールなんだから」

「でも、楽しいね。ビール」

「ビールが楽しいって」

「私ももうちょっと頑張って美味しく飲めるようにするね」

「もっと飲みやすい酒でいいだろ」

「ダメー。晋吾さんと一緒に、同じお酒飲むの」

「なんだそれ」

「だから、しばらく付き合ってね。ビール」

「付き合うも何も。俺はいつもこれ飲んで」

「今日みたく。明日も飲もー」

「お前暴れるだろ」

「はい、1回いただきました。あ、食後のビールはこうやって口移しだけにする? 罰ゲームとして」

「飲みにくいだろ。罰ゲームに追加するだけでいいだろ」

「じゃ、そうしちゃうよ。で、おじさん。あ」

「どうすんだよ」

「お互い飲んで、口の中で混ぜ混ぜする?」

「泡立ってキモイだろ。交互でいいだろ」

「積極的だね。じゃ、さきどーぞ」


 甘い香りの弾けるビールは早々に尽き。気づけばお互いの口を貪るだけの夜。罰ゲームという口実で求めることを覚えた俺の脳みそは、いつの間にか体を求めていた。

 これは俺の本能なのか。それとも熱にやられてるだけか。浮かされてるだけなのか。李衣菜の胸に延びようとした手を、煩悩から振りほどき、ただ熱い口を求めて2人でベッドに入った。

 寝不足なのは言うまでもない。

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