第3話「初めてのいってらっしゃい」

 環境が変わっても意外と寝れるらしい自分に感謝している。が、うるさい。あいつがバタバタしてるらしい。アラームはまだ鳴ってないはず。時間は。6時半。は? あと1時間寝れる。


「おじさーん。起きたなら起きちゃってよー。朝ご飯冷めるからー」

「パス」

「なにー? 何か言ったー?」

「朝は喉通らんからパス」

「はいはい。いいから食べるよー。起きてー」


 おそらく味噌汁と、炊き立てのご飯の匂いが部屋に充満してやがる。食べる気がないときにぐこの匂いは。逆に飯テロか。


「おじさんいつも何時に起きてんの」

「7時半」

「で、何時に出るの?」

「7時40分」

「は? いつもどうしてんの」

「顔洗って、歯磨いて、着替えたら出れるだろ」

「いや、髪は整えてよ」

「適当に撫でてれば何とかなるだろ。歩きながらできるし」

「そういう問題じゃなくない? え、スーツは?」

「あー、やば。無いわ。取りに帰るか」

「じゃあもう出なきゃじゃん」

「あー」

「おじさん、自分の緊急事態加減分かってる?」

「理解はしたが。布団から出れん」

「ちょっと! もう、起きてって!」


 さすがにバタバタ叩かれるのでは起きるしかないか。いや、まずいな。だるすぎる。冷静に考えると、なんでスーツ持ってきてないねん。昨日の俺はアホか。アホ過ぎるな。

 女と同棲する事実に浮かれてたか。浮かれてたかもしれんな。情けねえが。


「やっぱ飯いらねえわ。出るわ」

「もー。ネクタイ直したかったのにー」

「お互いに昨日気づかんのが悪いな」

「じゃあもうちょっと待ってよ。お弁当渡すから」

「そんなん持ってたら走りにくいだろ。今日はいらん」

「えー。せっかく作ったのにー」

「じゃ、行ってくるわ」

「じゃあじゃあ、行ってらっしゃいだけは」

「は?」

「はいはい、靴履いて。いってらっしゃい」

「あいよ」


 ちょっとドキドキする自分がいることに驚きだが。やはり誰かいる家から出かけるってのもいいかもしれんな。

 近いとはいえ、歩いて30分は朝一に行くには遠いな。しかも、汚えな。この部屋こんな汚かったか。きれいな部屋と比べちまうとさすがに気にもなるか。

 夏の蒸し暑さと、ごみの腐ったにおいが充満する。虫も飛び交ってる。あー、スーツも汚れてんな。まずいな。軽くはたいてとれればいいが。だめだ。もう諦めよう。

 時間は、いつもよりちょい早いが。今から二度寝できる状況でもないし。出るしかねえか。虫しかいない部屋に一声かけても仕方ない。あー、「行ってきます」なんて言ったの、何年ぶりだ。新居では結局言ってねえな。

 ん? スマホがない。うわ。やったわ。取りに戻るのは無理か。あいつの電話も。ラインしか知らねえし。無理かー。今日一日きっついな。だー、どれもこれもクソだな。




 キーンコーンカーンコーン。

 ふう。飯か。どうせ時間的に大したものはないし。慌てる必要はないが。これでゆっくり行ってたら余計何もなくなる。余り物を争奪するこれもまた絶望だな。

 まあ、いつも通り見事だな。昆布とおかかと。タバコは。あー、買っとくか。

 食べる前に一回吸うか。ん? あれ、あいつか?


晋吾しんごさん、遅いよ」

「なんでいるんだよ」

「お弁当。あとスマホ。買い物のついで」

「おお、センキュウ。でも買ったぞ」

「それ、私食べるから。晋吾さんはこっち食べて」

「足りねえだろ」

「それ晋吾さんの方こそじゃない? 私はこれで十分」

「そうか」

「いつもこんな少ないの?」

「昼休憩入るタイミングが遅いから。コンビニなんもないんだわ」

「じゃあちょうどよかったね。これから毎日お弁当渡すから」

「それは。ありがとな」

「あー、嬉しそう」

「毎日残飯みたいな中からぎりぎり選ぶのに比べればな」

「うんうん。素直に喜んでもいいんだよ。じゃ、いただきまーす」

「うん。まあまあだな」

「それなら十分だね」

「美味しいって言えとか怒るだろ。普通」

「お弁当が美味しいなんて幻想だよ。駅弁かってね」

「それも、そうか」

「あ、何が欲しい? あと、家から持ってくるの何?」

「パソコンだけでいい。必要なのは髭剃りくらいだな。あとビール」

「じゃあそれ買っとくね」

「よし、食った。じゃ、行くわ」

「え、昼休み終わるの?」

「いや、寝る。あとタバコ」

「付いてく。から。ちょっと待って」

「付いてくんな。待っとけって。ってか帰れって」

「せっかく来たのに全然喋ってないじゃん」

「仕方ねえだろ。むしろ仕事の合間に来んな。普通会わねえんだわ」

「ぶー」

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

「あ。ちょっと。待って」

「待たねえって」

「お仕事頑張ってのチュー」

「は?」

「ま、しないけど。雰囲気だけ。投げてあげる。チュッ」

「あ、ああ」

「がんばってねー」


 カチッ。ふぅー。

 焦った。いや、焦った。あいつはやっぱり悪魔だったわ。ニヤニヤしやがって。最初から狙ってやがったな。吊り橋効果か。くそ。

 そうか、吊り橋か。だからビックリしてるだけだ。なんてことはない。予想外のことが起きれば誰だってそうなる。ただそれだけだ。

 ラインッ!

 ん? あいつか。「何時ごろ帰ってくる?」。ん-。10時頃。「りょ」。なんでゴリラのスタンプが飛んでくるのか。なんか暗示してんのか。使いどころ難しくないのか。まあいいか。午後も適当にやるか。




「ただいまー」

「おかえりー。おっそい」

「待ってろとは言ってねえだろ」

「でも帰ってくる時間聞くってことはそう言うことじゃん。ねね、あれやってみる?」

「あれ?」

「ご飯にする? お風呂にする? それとも」

「風呂だな」

「はーい。めっちゃちゃんと洗ってよ。昨日全然寝れなかったんだから」

「あー、それはすまんが」

「それとも何? 洗ってあげないときれいにできない?」

「あー。そうかもしれんな」

「はあ?」

「いつも通り洗ってもくさいなら、やってもらうしかねえだろ。それでくさければお前のせいだ」

「おじさんがもともとくさい説は?」

「やってみんと分からんな」

「えっとー。マジ?」

「冗談。テレビでも見とけ」

「ちょっ」

「覗くなよ?」

「覗かないわよ!」


 一泡とは言わないでも、ちょっとびっくりくらいはさせれたか。でも、一緒にいてほしい気持ちは正直眠っている。あそこで確認されなければお願いしてた、と思う。

 昨日の不安がまたよみがえってくる。仕事中はなんやかんやでバタバタしてるせいでこの事実を忘れてるらしい。

 殺す。殺すんだよな。なぜ俺がこう不安にならなきゃならんのか。いや、お互いなのか? 殺されるほうもそれなりか? 聞いてみるか。いや、あえて話題にすることでもないか。

 今日のシャンプーは良い匂いがしたが、乾いた髪からはそんな匂いはしないな。


「どうどう? くさい?」

「知らん」

「うわ、くっさ。どうする? マジで洗ってあげよっか」

「俺はこのままでも変わらんから。お前次第」

「ん-。むしろなんでおじさん、そんな消極的なの」

「そりゃ、俺だけの問題じゃなねえからな」

「ん? 私が一緒にお風呂入るって言ってるんだよ?」

「髪洗うだけだろ? 服着てても洗えるだろ」

「あー」

「なんだ、アホなのか?」

「むかつく。明日から毎日髪洗ってあげるから。覚悟しといてね」

「なんで喧嘩腰なんだよ」

「もういいよ。ご飯食べるよ」

「ビールは」

「はい」

「あー。何本買った?」

「え、一本しか買ってないけど」

「よかった」

「そんなに飲まないんだ」

「違う。銘柄がな」

「あー、そう! それ! ビール種類多すぎ!」

「キリンの一番搾りがよくてな」

「ちょっと待って。調べるから」

「その辺に落ちてるだろ」

「新居はきれいなので、ゴミなんて落ちてないです! えっと、一番?」

「一番搾り。キリンな」

「これ?」

「あーそうそう。俺がビールって言ったらこれね」

「よし。覚えた」

「で、基本3本。たぶん2本しか飲まねえけど、念のため予備」

「これさ、定期便で頼んだら?」

「ん?」

「amazonでさ。あーないねー。じゃあいっか」

「なんだよ。定期的に届くってか」

「そう。でもこれはやってなかったね。残念」

「まあいい。食うか」

「うん。いただきまーす」

「料理はやってたのかよ」

「ちょっとだけど。ま、今はクックパッドさえあれば誰でも作れるけどね。あとさ、おじさん。いただきます言ってないよ」

「あ、ああ。いただきます」

「どうぞ」

「要るか?」

「絶対要るよ。料理を作った私だけじゃなくて、生産者や、命に感謝しなくちゃ」

「言いたいことはわかるが」

「これから、いただきます言い忘れたら罰ゲームね」

「なにすんだよ」

「チュー」

「それ罰なのか?」

「罰になんない?」

「いや、罰だな。よし」

「それはそれでむかつくけど。私のほうが罰なんだけどね。くっさいから」

「何とも言えんな」

「あとあれも。名前で呼ばなかったら罰ゲームにしよっか」

「それは」

「私もおじさんって言っちゃうし。お互い様だよね。これは」

「罰ゲームの内容は」

「チューでいいでしょ」

「はあ」

「晋吾さん。食べっぷりはいいよね」

「まあ、腹減ってるしな」

「かっこいい」

「は、ちょ、お前」

「はい。罰ゲーム」

「は? あ。やりやがったな」

「どうぞ」

「飯中だぞ」

「でも後にしちゃうと、何回か罰ゲーム重なっちゃうよ? どんだけチューする気?」

「仕方ないか」


 くっそ。目閉じやがって。なんだ。なんでこんなこと狙ってやがるのか。やけくそか。やるしかねえのか。

 心臓が爆発する。どうしたらいい。くそ、狙いが定まらねえ。触っていいのか。ほっぺを。ぷにぷにじゃねえか。くそ。


「まだ?」

「喋んな。口開けんな」

「でも舌入れるなら開いてたほうがいいんじゃない?」

「今はそんなことしねえよ。飯食ってる最中だろ」

「じゃ、御飯中じゃないなら入れちゃうんだ」

「だー、黙ってろ」

「はーい」


 はあ。落ち着いた気がするが。いや、マシになっただけか。もうするぞ。するからな。後悔すんなよ。くさいとか文句言うなよ。


「くっさ」

「うるせえ。食うぞ」

「さー。どんなけ罰ゲームやることになるかな」

「お前がおちょくるから飯も止まるしな」

「あーあ。おじさん狙ってない?」

「うっ」

「ちなみに私もやっちゃったから。お互い様だね」

「なんでわざわざ言った」

「だって、ゲームだから。卑怯なことしても面白くないでしょ。公平にね。だからおじさんも。あっ。晋吾さんも、自分で申告してよ?」

「分かった」

「さて、まずは晋吾さんから1回」

「お、おう」

くっさー。きっつー。で、私から2回。2回ってどうやってカウントするんだろ。ね」

「いや、知らんけど」

「んっ。んんっ。ぢゅっ。ん-。おえっ」

「おい」

「晋吾さん、ご飯美味しい?」

「あ? 美味いぞ」

「その口で美味しさ感じれるんだね」

「失礼なこと言ってねえか」

「うわー。先に歯磨こっかな。晋吾さんも歯磨いたら?」

「いや、いい」

「私の唾液消したくないから?」

「じゃねえ」

「あっそ。ちょっと磨いてくるから。食べてていいよ」


 随分と失礼な奴だが。わざわざ申告してまでキスしてきやがった。舌まで入ってきたな。びっくりしすぎて感触は覚えてないが。

 でも甘かった。同じ飯食ってるのにな。くさいか。いくら罰ゲームとはいえ。申し訳ないな。口臭の原因か。明日調べるか。

 スーパードライなんて何年ぶりに飲んだか。からい。が、今日はまろやかに感じる。初めてのキスはビールで流し込んだ。

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