れんしう

@miim

杞人憂天

 叫んだ時には遅かった。

「見ないほうがいいよ」とハルコが言う。顔を背けて、身をひるがえし、この場を去ろうとする。

 わたしはそれを追いかけつつ、後ろを振り返る。車から運転手が降りて、血だまりの中で動かない猫に近寄っていくのが見えた。

「どうしようもなかった。あぶないって叫んでも猫には通じない」

 わたしは弁解めいたことを言った。

「だから車は嫌い。乗り物はみんな嫌いだ。威力が大きすぎる」

 苦し気な顔をしてそう言うハルコは、確か母親を交通事故で亡くしている。それ以来ひどい不安症に悩まされていると、相談されたことがあった。考えすぎないほうがいい、というような無意味な応対しかできなかった。今回もまた。


 回り道をして、駅に到着した。わたしたちは帰宅途中だった。電車を待つホームに安全柵はない。急行が通過する風が、ハルコの前髪を乱れさせた。

 これほどの破壊力を持ったものが、すぐそばを移動しているという状況を、あたりまえのように受け入れている社会は発狂しているというハルコの主張が正しく思えてくる。猫の死にざまがそうさせる。折れた足、ゆがんだ顔の輪郭。

 ハルコはつまらなさそうな顔をして言う。

「それでも、しばらくしたらその怖さを忘れちゃうと思うよ。杞憂だから大丈夫だって。空が落ちてくるのを恐れるのはやめようって。そしてそれが健康な精神の反応なんでしょう」

「そうなのかな」

「だってそうじゃないと、何もかもが怖くなって動けなくなるでしょう」

 けれど、と続けて、ハルコはみぞおちあたりを抑える。

「けれど杞憂が実現するときもある。それを経験してしまったら、もうその人にとっては、統計や確率はどうでもよくなる。その経験をしてしまったという事実は変えられないんだから」

 この二つの考えの間でハルコは引き裂かれていた。一か月ぶりの外出はひどい結末になってしまった。無理やり誘いだしたことをわたしは後悔し始めていた。

 見上げると、あの猫の瞳のように青い空があった。それが落ちてくる気配は、しかし、まったくなかった。

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