3-33
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はじめぼくは、何が起こっているのかわからなかった。
もう全部終わったはずなのに、今さら何を、騒ぐ必要があるんだろうって。
そんなただただ不思議な気持ちで、みかんの名を必死で呼ぶおばさんを呆然と見つめていた。
でも次の言葉で、ハッと我に返った。
「みかん、目を覚ましなさい! みかん!」
——突然。
ぼくは、ドンッと背中を突かれたかのように、おばさんに上体を小さく揺らされている、みかんの元に駆け寄った。
「みかん?! みかん?!」
ぼくが呼びかけると、みかんが薄っすらと目を開けた。
途端に両肩と紫色になっている唇を、ガクガクブルブルと震わせながら。
その合間合間に、ガチガチと歯を鳴らす音まで聞こえてくる。
「みかん! どうしたの?! 寒いの?!」
「……うん。ちょっと、そうかな」
ぼくは、この部屋にテレポートして来る前に飛んでいた、星空みたいな空間が、寒くなっていたことを思い出した。
そう、あのときの現実でのぼくらは、きっと火星の地中の氷の中を、突き進んでいたに違いない。
だからお父さんが言ったように、穴から溶けた水が吹き出していて、みかんがこうして寒がっているに違いない。
だってフットがルキンをコーティングしていたということは、氷の中を実際に突き進んでいたのはフットだったというわけで、クアットのダメージがマスターに伝わるのだとしたら、きっとフットが感じていた寒さはみかんに伝わっていたはずで、ということはつまり、みかんはずっとその寒さに耐えていたということになるのだから。
つまりそう、事実上氷の中を突き進んでいたのは、フットであると同時に、みかんでもあったということになるのだから。
居住区の外の最低温度は、氷点下八十度まで下がるわけだから、普通に考えて、地中の氷は同じくらいか、もっと低い温度のはずだ。
そんな寒い場所を、みかんは裸同然の格好で突き進んでいたのだ。
ルキンはクアットが無事な限り、マスターに伝わった痛みでマスターが死ぬことはないと言っていたけれど、今回は痛みではなく寒さだし、しかもフットとみかんの連結は、切れてしまっているのだ。
ということは、みかんが凍え死んでしまっても、なんの不思議もないことなのだ。
ぼくはお父さんとおばさんに、みかんがなぜ寒がっているのかを説明した。
おばさんはぼくの右腕がないことに驚いていたようだったけれど、そこまで説明している余裕はなかった。
「間違いない、急性低体温症だ。檸檬さん、こうやってみかんちゃんを抱いていてください。すぐに救護班を呼んできます」
お父さんがおばさんに言いながら、おばさんの胸とお腹の上で、みかんを抱っこするように抱きしめさせた。
それから脱いだ戦闘服をみかんの背中にかぶせ、リモコンでエアコンを操作したあとで、急いで部屋を出て行った。
「もう、おじさんたら、大げさなんだから……」
言葉とは裏腹に、みかんはぐったりとしたまま動かなかった。
震えは止まっていたけれど、回復したようにはどう考えても見えなかった。
「ミズト……いるの?」みかんが言った。
「いるよ」
ぼくはみかんの目線に、顔がくるようにひざまずいた。
「どこ?」
みかんの目は開いているにもかかわらず、ぼくが見えていないようだ。
ぼくはみかんのだらりと垂れ下がっている手を左手で握った。「ここだよ」
「……やったんだよね、わたしたち」
「うん。勝ったんだよ。レヴィを殺さないまま、誰も殺されないままみんなを守ったし、あの作戦も、ちゃんと成功したみたいだよ」
なんて冷たい手をしてるんだろうか。
今にも溢れ落ちそうな涙をどうにかぼくは堪えた。
「……ほんとに?」とみかんが尋ねた。
「ほんとだよ。外がすごいことになってる」
「……教えて。どうなってるか」
ぼくはみかんの手を握ったまま、身体の向きを変えて立ち上がると、窓から見えるままを言葉にしてみかんに伝えた。
ルキンとフットが空けた穴から、地中の氷が溶けた、大量の水が吹き出していること。
今もまだイワシとヒトデたちが、その穴に吸い込まれ続けていること。
遠くの丘が盛り上がりながら、煙を上げていること。
それはきっと、死んでいた山が、活火山と化しているようすなこと。
吹き出した水がどんどん溜まって、湖みたいになり始めていること。
今では大きな虹まで空にかかっていること。
「すごい、虹まで。わたしたちがやったんだね……」
「そうだよ」
——そう、そうして火星を昔の状態に戻すことが、レヴィを封じ込めるのとは別の、ぼくらのもうひとつの作戦だったのだ。
ぼくら自身が、エネルギーと磁力と重力のかたまりである中性子星となって、火星の真ん中に
「よかった、うまくいって……」
ふっと、目を閉じながらそう言ったみかんがおばさんの肩にうなだれたまま、動かなくなった。
「みかん? みかん?!」
おばさんが言いながら、みかんの身体を揺すった。
ずっとそこに隠れていたのだろうか、その拍子に、みかんの体育帽の中から和金が出てきて、みかーンと言いながら、心配そうにみかんの頬を突つき始める。
みかんがそっと目を開けて、また唇と身体を小さく震わせ始めた。
「寒い、寒いよ母さん、ミズト……」
いてもたってもいられなくなったぼくは、ブランキージェットシティーのTシャツを首から引き裂きながら脱ぐと、みかんの首に巻くように置いた。
少しでも身体をあっためてあげたくて、みかんの脇にかがみ込んで、取った手にはあっと息を吹きかける。
「もう、ミズトまで……」みかんがぼくを見た。今度はちゃんと見えているようだった。「うそ、片腕は……?」
「ぼくのことはいいから、救護の人が来るまで頑張って……!」
「そっか。あのとき、ルキンちゃんのお腹の中で、かばってくれてたんだね……ありが、と……」
ふっと、またみかんが目を閉じた。
今度は震えどころか、息まで止まっているように見える。
「みかん! みかん!」
「ルキン、QUAで治して! 早く!」
とっさにぼくはそう怒鳴っていたけれど、ルキンが現れることは当然なかった。
こんな終わり方ってない、こんな終わり方って……。
とそのとき誰かが、大丈夫なノ、とぼくに声をかけた。
元ホオジロザメの和金だった。
「ワキン?」
〈ぼくをみかんの口に入れて、ふーするノ〉
「どういうこと?」
〈肺から、QUAであっためるノ〉
「でもそれじゃ、ワキンが死ぬんじゃないの?」
〈血の中で生きるノ〉
「でも……」
〈でなきゃワキン、吸われるか消えるだけなノ〉
ワキンの言う通りにしなければ、ワキンも外のイワシやヒトデたちと同じように穴に吸い込まれるか、いずれ自然消滅するということが言いたいようだ。
〈はやく。恩返しなの。手遅れになるノ〉
確かにみかんがいなかったら、ワキンはとっくに死んでいたはずだった。
ワキンはそのときの恩を返したいのだ。
「……わかった、ありがとうワキン」
〈まかせとくの。みかん戻るまで、寝かせて、心臓叩くノ〉
「わかった」
ぼくはおばさんが頷いたのを見たあとで立ち上がると、みかんの口を、強引に開いた。
ワキンがみかんの口の中へ泳ぎ入ったあとで、おばさんがみかんに口付けし、ふーっと息を吹き込んだ。
ワキンはどうやら、無事みかんの気道から肺に入れたようだ。
そのあとぼくは、ワキンの指示通り、みかんをその場に仰向けに寝かせると、Tシャツと戦闘服を首と身体にかけて、心臓マッサージをしようと思ったけれど、やり方がわからなかった。
けれどちょうどそこへ、オレンジ色のAEDを持った谷口さんが部屋に駆け込んできて、急ぎながらも冷静に、正確な心臓マッサージを開始した。
谷口さんはぼくの片腕がないことに一瞬驚いたようだったけれど、傷も塞がっていて意識もはっきりしているのを見て、大丈夫だと判断してくれたようだ。
「ミズトくん」と心臓マッサージをしながら谷口さんが言った。「私の心臓マッサージと人工呼吸のやり方を、よく見て覚えるんだ。私がAEDを用意する間に、ミズトくんにしてもらうからね。片腕でもできるかい?」
「やります。大丈夫です」
ぼくは谷口さんの心臓マッサージと人工呼吸のやり方を、頭に叩き込んだ。
馬乗りになって、手のひらでの心臓マッサージを三十回。
そのあと顔の脇に移動して、鼻をつまんで、口から息を吹き込む人工呼吸を二回。
「覚えたかい?」と谷口さんがぼくに尋ねる。
「はい、覚えました」
「よし、じゃあ交代だ。胸の骨が折れそうなことは気にしないで、力強くマッサージするんだよ」
「わかりました」
ぼくはすぐにみかんに馬乗りになって、心臓マッサージを開始した。
開始しながら、みかんに呼びかける。
「みかん、もう大丈夫だからね。谷口さんが今、AEDで、起こしてくれるから……」
心臓マッサージ三十回を終えたぼくは、すばやくみかんから降りると、今度は人口呼吸二回を始める。
恥ずかしがっている暇なんて、一瞬もなかった。
そしてまた心臓マッサージ三十回。
谷口さんは、そんなぼくの邪魔にならないように、みかんからTシャツと戦闘服を剥ぎ取り、躊躇なく制服と下着を破いて上半身を裸にすると、AEDから取り出したコード付きのパッドを、みかんの胴体の二箇所に貼り付けた。
「よし、ミズトくん、離れるんだ。これから電気ショックで、心臓に刺激を与えるからね。感電しないように、みかんちゃんに絶対触らないように」
「わかりました」
みかんから離れたぼくを見届けた谷口さんが、AEDのスイッチを入れた。
ビーッという冷たい機械音が響き渡り、みかんの身体が少しだけ痙攣した。
でも、いつまでたってもみかんが目覚めることはなかった。
信じられないまでに真っ白な顔と身体になっていて、それは問答無用に、死体になったみかんを連想させた。
とそのとき、デンキショックハフヨウデス、という容赦ない音声をAEDが上げた。
「谷口さん、今のって……」
「落ち着くんだミズトくん。電気ショックが不要と判断されただけで、心臓マッサージも効果がないということじゃない。私がAEDを切って合図を出したら、すぐに心臓マッサージと人工呼吸を再開するんだ。できるね?」
「はい」
ぼくは谷口さんの合図を機に、またみかんに馬乗りになって、心臓マッサージと人工呼吸を開始した。
心臓マッサージを三十回。
人口呼吸を二回。
けれど、みかんが反応することはない。
また心臓マッサージにかかりながら、半ば無意識のうちにぼくは言っていた。
「みかん……嘘でしょ……ワキンまで、命をかけてくれたのに……」
谷口さんが電気ショック用のパッドをみかんから剥がしながら、ぼくに声をかける。
「絶対にあきらめちゃだめだよ、ミズトくん。目覚めると信じて、救護班が来るまで、マッサージを繰り返すんだ。疲れず続けられるように、人工呼吸は私がしよう」
「はい、わかりました」
「三十回したら、合図をしてくれ」
「わかりました」
みかんの身体の、そのあまりの白さと冷たさに、思わず叫んでしまいそうだったけれど、ぐっとその衝動を飲み込みながら、ぼくはまた心臓マッサージを開始する。
「お願いみかん、目を覚まして。どんなピンチも、一緒に乗り越えてきたじゃないか……」
いつの間にかぼくは、みかんとくぐり抜けてきた、数々のピンチのことを思い出していた。
——いや、みかんがいつだって、ぼくを助けようとしてくれていたことを思い出していた。
みかんの名前を繰り返し、何度も呼びながら。
みかんがシールドで、みんなを守ってくれたこと。
みかんがぼくをかばって、両腕をなくす大怪我をしたこと。
それでもぼくが無事でよかったと言ってくれたこと。
ルキンにあげるご飯を、一緒に食べてくれたこと。
おこづかいを使ってまで、それを買ってきてくれたこと。
ただひとり、ルキンの存在を信じてくれたこと。
ぼくが忘れてしまっていた記憶の中で、ずっとぼくに寄り添ってくれていたこと。
無感情のぼくの前で、愉しそうに笑ってくれていたこと。
元気付けようと、懸命におどけてくれていたこと。
一緒に泣いてくれていたこと。
そんなみかんが死ぬはずがない。
そんなみかんが……。
「みかん! お願いだから目を覚まして! みかん!」
でも、みかんは目を覚まさなかった。
顔色が白さを通り越して、どんどん青ざめてゆくことだけが、はっきりとわかった。
「谷口さん、三十回です!」
谷口さんが人口呼吸を二回したあとで、ぼくはまた心臓マッサージを開始した。
みかんの名を呼びながら。
と。車椅子から落ちるように降りたおばさんが、這いながら脇までやって来て、座った体勢になると、みかんの片手を両手で握りしめた。「みかん! みかん!」
「みかん……」と心臓マッサージを続けながら、ぼくもまたみかんの名前を呼んだ。「ルキン、エキジットだよ。フット、みかんを守って。ワキン、みかんをあっためて……」
けれど、みかんの反応はない。
「みかん! 目を覚ましなさい! みかん!」
おばさんがまたみかんの名前を呼びながら、握っているみかんの手を持ち上げた。
「お願いだよみかん、みかん、みかんっ……!」
気が付けばぼくは、決壊したダムのように泣き始めていた。
どっと溢れ出した涙が鼻筋と頬を伝い、いつからか噴き出していた顔の汗と一緒に、鼻先と顎先からみかんの血の気のない胸にぼたぼたと落ち始めたことによってその事実に気が付いた。
汚くてごめんと思ったけれど、どうすることもできなかった。
「みかん、お願いだから目を覚まして! こんな終わり方嫌だよぼく! お願い、お願い……!」
とそのとき、部屋の入り口が途端に騒々しくなって、ようやく救護班が到着したことがわかった。
けれどもぼくは、心臓マッサージを今もまだし続けている。
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