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 手が痺れるほどの手応えを感じていたにもかかわらず、ぼくは、みかんを刺すことができていなかった。

 いつの間にか、ぼくの目の前で両膝を折って屈んでいた、まるで黒曜石で作ったかのような、不思議な長い上着を着た大人の男の人が、身代わりになっていたからだ。

 でも男の人は、まったく怪我をしていなくて、見ると、折れてしまったナイフの刃が、その場に落ちていた。

 どういうことだろうと不思議に思っているぼくに、その大人の人が、上着の脇のポケットから取り出した、小さなリモコンのようなものを自分の喉に当てて、にっこりと優しく微笑みながら、機械の声で言った。

「ミズトくん、思い出すんダ」

「……おじさんは、だれなの?」

「それは、言えないんダ」

「どうして……?」

人工知能AIと一緒なんだよ。どれだけ情報を持ってても、自分からの説明がうまくできないんだ。もしくは、二十四時間経たないとネ」

 ぼくはいつか、どこかで同じような台詞を聞いたことがあると思ったけれど、すぐには思い出せなかった。

 微笑んだまま男の人が言った。

「でもぼくは、ミズトくんがよく知っている人だヨ」

「しってる?」

「そうだよ。だから、思い出すんダ」

「おもいだす?」

「そう。もっとよク」

「もっと、よく?」

「そう。『もっと、よく』だよ。さっき見てきた、思い出のことヲ」

「さっきみてきた、おもいで……?」

 おうむ返ししかできないぼくに、そうだヨ、と男の人が応える。

「でも、どうすればいいのかが、わからないよ……」

「じゃあぼくが、手伝ってあげよウ」

 男の人はそう言うと、喉に当てていた道具を上着のポケットにしまったあとで、両腕でぼくを、そっと抱き寄せた。

 それからぼくの頭に、ぽんと片手を置くと、自分のおでこを、ぼくのおでこにぴとりとつけながら、ゆっくりとまぶたを閉じてゆく。

 そのときはじめて、ぼくは男の人が、丸いメガネをかけていることに気が付いた。

 その奥にたたずむ瞳の色が、妙に薄いことに気が付いた。

〈——さあ、一緒に、目を閉じてごらん〉

 声こそ聞こえなかったけれど、確かにそう言われた気がしたぼくは、男の人と一緒に目を閉じた。

 閉じてみると、そこは、お母さんの葬式が行われている、ぼくの家の中だった。

 ぼくはそこで、さっきと同じように、過去のぼくの低い目線から、泣いている自分とは別の、冷静な意識でそのようすを眺めていた。

 やっぱりぼくは、泣き喚いていたけれど、でもよく見ると、よく聞くと、もうひとり、大人の女の人の足にしがみつきながら、ぼくと同じ冬用の幼稚園の制服を着て、同じように泣き喚いている、ぼくと同じくらいの年齢の子どもがいることに気が付いた。

 それは、みかんだった。

 みかんはぼくの隣りで、むしろぼくよりも、わんわんと泣き喚いていた。

 そこでパッと風景が切り替わり、目の前に、蝋燭の立てられたケーキが見えた。

 それも、さっき思い出した光景だった。

 何もかもがさっきと同じで、ぼくは憂鬱だったけれど、よく意識してみると、違う点がひとつだけあった。

 隣りに、みかんが座っていたのだ。

 暗闇の中で、みかんは懸命に、小さな口を丸く開けて、バースデーソングを歌ってくれていた。

 そこでまたパッと風景が切り替わり、今度は目の前に、花咲かじいさんのアニメの映った、テレビが現れた。

 ぼくは日曜日の夕暮れどきに、それを観ていたはずだった。

 枯れ木になってしまったような気持ちのまま、たったひとりで、パジャマ姿のまま。

 でも、ぼくはひとりじゃなかったのだ。

 ふっと目を向けたその隣りには、夕陽色に染まったワンピースを着たみかんが、当然のように座ってくれていて、ぼくと一緒に、黙ってアニメを観ていたのだ。

 かと思っていると、すっくと立ち上がり、架空の籠からつかんだ架空の灰を、片足を交互に上げて飛び跳ねながら、おどけてぼくに、振りかける動作をし始めた。

 よっ、よっ、ほれっ、と、おじいさんの真似をして言いながら。

 そこでまたパッと風景が切り替わり、今度は目の前に、浴槽が現れた。

 これもさっき思い出した通り、ぼくは壁に背中をピッタリとくっつけて、身体を洗わせないで、ヘルパーさんを困らせていた。

 ただひとつ違ったのは、空色のオーバーオールを着たみかんが、にこにこと笑いながら、窓からこっちを見ていることだった。

 ぼくがぼんやりとしていたことには変わりなかったけれど、ぼくは何もない外を見つめていたわけじゃなく、屈託ない笑顔のみかんを見上げていたのだ。

 ぼくと目が合ったみかんは、ニカッと笑い直すと、タッと音を立てながら、窓の下にさっと消えた。

 それからガタガタとまた音を立てたあとでピンポンとチャイムを鳴らし、迎えに出たヘルパーさんに先がけてドタドタとお風呂場まで駆け込んでくると、さっと靴下を脱いでオーバーオールの裾をまくり、遅れて入ってきたヘルパーさんに、一転礼儀正しく頭を下げてお願いしてから、泡立ったスポンジを譲り受けて、嫌がるぼくを両手でくるんと裏返したあとで、ぼくの背中を、半ば強引に、懸命にごしごしと擦り始めた。

 あきらめたぼくは、ぐずりながらも、されるがままになっていた。

 ——そう、ぼくが思い出した記憶は、確かにぼくのもので、それは正しいものだった。

 けれどそれは、『何か』が欠けていたもので、それは、『みかん』だった。

 そう、お母さんがいなくなって、絶望に明け暮れていたぼくのそばには、いつだってみかんがいて、ときには一緒に泣いて、ときにはおどけた顔で、ときには弾けんばかりの笑顔で、ずっと励ましてくれていたのだ。

 誰でもないみかんこそが、虚無の向こう側に行こうとしていたぼくを、引き止めてくれたその人だったのだ。

 ぼくは今度こそ、はっきりとそのことを、『思い出した』。

「ミズト!」

 振り向くと、怖い顔をしたお母さんが向こうに立って、ぼくをにらみつけていた。

「何をぐずぐずしているの!?」

「お、おとこのひとが……」

 また振り向くと、男の人は消えていて、そこには、怯えたみかんだけが立っていた。

 折れたナイフの刃先が、その足元に転がっている。

「誰もいないじゃないの!」とお母さんが怒鳴った。

「いたんだ」ぼくはお母さんを振り返った。

「なぜ嘘を吐くの!」

「お、おかあさんじゃない……」ぼくは持っていたナイフの柄を落としながら、一歩みかんの方に後退った。

「何を言ってるの?! わたしはあなたの大好きな、お母さんでしょ!?」

「ちがう……すごくにてるけど、おかあさんじゃない……おかあさんはそんなふうに、おこったりしない……」

「黙りなさい! わたしはあなたのお母さんよ! さあ、早くその刃を拾って、みかんを刺しなさい!」

「……ほんとうに、みかんはわるものなの?」

 ぼくが尋ねると、お母さんは、般若のお面のような顔になった。

「決まってるでしょ! だからさっさと殺すのよ! さあ早く!」

「い、いやだ……」とぼくは、勇気をふりしぼって応えた。「だってほんとうは、みかんは、わるものじゃな」

「どこまでもグズな子ね!」お母さんはぼくに、最後まで言わせなかった。「じゃあ二人とも、わたしが殺してあげるわ!」

 言いながらお母さんは、ぼくが持っていたものよりもずっと大きなナイフ、というよりは日本刀を何もない背中側から抜くように取り出すと、両手で握って、真横に構えながら駆け寄ってきた。

 そして恐怖で動くことのできないぼくとみかんの首をいっぺんに撥ねたけれど、成功はしなかった。

 なぜならその直前に現れた誰かが、走りながらぼくとみかんを、さっと抱き上げていたからだ。

「だいジ? ミズト、みかんちゃん?」

 それは、もうひとりのお母さんだった。

 毛先がふわふわの長い黒髪を後ろでひとつにぎゅっと結いていて、白いセーターの上に、黒くて長い上着——黒衣を羽織っている。

「お、おかあさん?!」

 と。壊れたラッパのような怒鳴り声を上げながら、ギラリと光る日本刀を持って追いかけてくる、般若顔の、白い服を着たお母さんが後ろに見えた。

 そのお母さんと、ぼくとみかんを抱えて逃げている、黒衣のお母さんの顔を見比べながらぼくは尋ねる。

「どっちが、ほんもののおかあさん……?」

「ミズトが決めなさい」

「ぼくが……?」

「そう。あなたが決めるのよ」

 ——次の瞬間、もうひとりのお母さんは、ぼくとみかんを抱きかかえたまま、会場のドアを肩で押し開けて、外に飛び出したその直後、短い階段の最上段をダンッと片足で踏み蹴って、目の前の真っ暗闇のずっと下の方に見える、光の穴めがけて飛び込んだ。

 光の穴は向こうから近づいてくるようにみるみるうちに大きくなって、その中にすぼっと入った瞬間、ぼくはハッと目を覚ました。

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