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 門をくぐり、玄関ドアを開けて中に入ろうと思ったけれど、そうする必要はなかった。

 まばたきを一度した直後、ぼくはすでに家の中に入っていて、なぜか低い目線から、葬式のようすを眺めていた。

 黒い額縁に入っている、白黒のお母さんの写真の前で、黒い服を着たみんなが、啜り泣いているようすを、じっと。

 と。たったひとりだけ、叫ぶように泣き続けている、多分三歳くらいの、男の子の声に気が付いた。

 でもいくら見回しても、その子の姿は見えなかった。

 それも当然のことで、その子とは、誰でもない、ぼく自身だったからだ。

 気が付けばぼくは、小さい頃のぼくになって、懸命に泣き喚いていた。

 そしてそんなぼくのすぐそばには、痩せている背の高い男の人が立っていて、ぼくの背中を片手で抱き寄せながら、何かに耐えるように、じっとうつむいたまま動かなかった。

 その男の人は、若い頃の、お父さんだった。

 お父さんって、こんなに痩せてたんだ……。

 泣き喚いている頭の片隅で、冷静にそうぼくは思ったけれど、延々と泣き喚いているうちに、そのときのことをだんだんはっきりと思い出してきて、悲しくて悲しくて、ついに立っていられなくなって、目の前のお父さんの足にしがみついた。

 ——そう、ぼくはお母さんのことを、ちゃんと覚えていたのだ。

 そしてこんなにも泣いてしまうくらい、いなくなったお母さんのことが、大好きだったのだ。

 そう思いながら、またまばたきを一度した、直後だった。

 部屋のようすが一瞬で変わっていて、今度のぼくは、居間のローテーブルの前に座って、その上に載っていた、丸くて白いケーキに刺さりながら燃えている、四本の蝋燭を見つめていた。

 眉間にしわを寄せながら、まったくうれしくなんてなさそうな顔で。

 それはお母さんがいなくなってから、はじめての、ぼくの誕生日だった。

 そしてぼくは、その表情の通り、まったくうれしくなんてなかったのだ。

 それどころか、ケーキと蝋燭を見つめているうちに、いつだったかお母さんに、ケーキを食べさせてもらったことを思い出して、しくしくと泣き始める始末だった。

 そうして泣き続けているうちに、まただんだんそのときのことをはっきりと思い出してきて、ぼくはまたしても泣き喚き始めた。

 とそこでまた、一度まばたきをした、直後だった。

 そこはさっきと同じ居間だったけれど、今度のぼくは、そこにあるテレビで、録画したアニメ番組を、パジャマ姿のまま、膝を抱えながらひとりで観ていた。

 夕暮れどきで、窓からは西陽が射し込んでいた。

 柱にかかっている日めくりカレンダーの色で、日曜日だということがわかった。

 ——そう、そうだった。

 ぼくはお母さんがいなくなってから、外へ遊びに行くことに、意味を見いだせなくなっていたのだ。

 かろうじて幼稚園へは、行っていたというか、無理矢理行かされていたのだけど、それ以外の時間は、そうしてアニメをひとりで、延々と観ていたのだ。

 そしてそれは、いつかお母さんと一緒に観た、花咲かじいさんのアニメだった。

 それを観ていれば、お母さんが戻って来るのではないかと思ったし、お母さんのことを、思い出すことができたからだ。

 笑顔のおじいさんが、かごから振りまいた灰で、枯れ木に花を咲かせてゆくシーンを観る度に、ぼくはお母さんが戻って来る期待に胸を膨らませたり、隣りで微笑んでいたお母さんのことを思い出してしくしくと泣いたり、何度そのシーンを見てもお母さんが戻って来ない事実に絶望して、結局また泣き喚いたりしていた。

 そのさまが、一度まばたきをする毎に繰り広げられた。

 けれどいつからか、ぼくはまったくの無表情で、画面を観るだけになっていた。

 まったく何も考えないまま、感じないまま、ただ機械的に両目を開けて、画面の中で動く、笑顔のおじいさんを観続けていた。

 あたかも画面の中の、枯れ木になってしまったようだった。

 とそこでまた、一度まばたきをした直後に風景がパッと切り替わり、今度のぼくは、洋服を着たヘルパーの人に、お風呂に入れてもらっている最中だった。

 でも、背中をピッタリと壁にくっつけて、ヘルパーの人を困らせていた。

 またお母さんのことを、思い出していたのだ。

 ぼくは、お母さんと一緒にお風呂に入ることが、大好きだったのだ。

 泡まみれのスポンジで、背中をごしごしと洗ってもらうことが、大好きだったのだ。

 だからよく知らない人に、背中を洗ってなんかほしくなかったのだ。

 そうしてぼくは、壁に背中をピッタリとくっつけながら、空いている浴室の窓を、ぼんやりと見上げていた。

 それは昼間で、空はぴかぴかだったけれど、ぼくの心には、なんにも訴えてはこなかった。

 お母さんがいなくなった悲しさに感情を使いすぎて、心が空っぽになってしまっていたのだ。

 それにしても、どうしてぼくは、それらのことを、忘れていたのだろうか?

 幼い頃の、記憶だからだろうか?

 そうかもしれない。

 けれどぼくには、確信があった。

 ぼくはあまりにもお母さんが大好きだったから、お母さんを失った悲しみに耐えるために、無意識にお母さんとの記憶を、抹消してしまっていたのだ。

 持っていた感情を、すべて使い果たして。

 新たな感情が湧き出てくる、心の奥にある扉を、がっちりと封印して。

 ぼくがはっきりとそのことを理解した、次の瞬間だった。

 また一度まばたきをした拍子に、風景がパッと切り替わり、今度のぼくは、緑色のシートの引かれた、小さな会場内に立っていた。

 ズラリと並んだパイプ椅子で作られている、通路の真ん中に、幼稚園の冬用の制服を着て。

 制服は白いシャツに、黒いブレザーと半ズボンというもので、外用の黒い丸帽子も被っていた。

 そしてそのぼくのすぐ傍らには、毛先がウェーブがかった長くて黒い髪型をしている、首に真珠のネックレスを巻いていて、白くて綺麗なドレスを着た女の人が屈んでいて、ぼくの手を握っていた。

 お母さんだった。

「おかあさん!」

 あまりのうれしさに、泣きながら抱きついたぼくを、お母さんはぎゅっと抱きしめてくれた。

「思い出せた? お母さんが、大好きだったこと」

「うん!」

「本当の、悪者のことも?」

「ほんとうの、わるもの……?」

「あそこにいる、深海みかんよ」

 こぶしで涙を拭いながら振り返ると、その先には、同じ冬用の幼稚園の制服を着て、丸帽子を被っている、みかんが立っていた。

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