3-2

 

  ⌘


 でもぼくには、みかんがやって来ることがわかっていた。

 部屋に入ったときに、みかんが来るヨ、とルキンが教えてくれていたからだ。

 ちなみにそのルキンは、ふっと姿を消したまま、まだ戻ってはいないのだけど。

 トントン、とノックされたドアを開けてみると、そこには予想通り、みかんが立っていた。

 いつもの巻き貝のピンでおでこを出していて、服はぼくとおんなじ寝巻きとして支給された、灰色のスエットの上下を身に着けていて、足元はスリッパという格好だった。

 と。みかんが貝好きになったのは、無意識にフットの存在を感じていたからかもしれない。

 みかんの黒い前髪をぴっちりと留めている、白い巻き貝のヘアピンを見たぼくは、ふっとそう思った。

 とそれはともかく、予想外だったのは、元ホオジロザメの、和金も一緒に来たことだった。

 きっと谷口さんに見つからないように隠れていたのだろう。

 みかんの後ろの髪の毛からぴょっと飛び出してきて、肩の上で、白い尾びれをゆらゆらと揺らしながら、宙を泳ぎ始めた。

 けれどもぼくが触ろうとしたり、何か音がしたりすると、またさっとみかんの髪の間に、隠れてしまう用心深さだった。

 ちなみに和金は、この基地でQUAを上書きすることができたから、自由になることができたのだった。

 そしてそれ以来、命を救ってくれたみかんに、べったりになったというわけだ。

 ちなみのちなみに、名前はそのまんま、ワキンと付けられたようだ。

「寝てた?」とみかんが尋ねた。

「起きてた」

「入ってもいい?」

「うん」一気にドキドキし始めながらぼくは答えた。

「おじさんたちはまだ?」

「うん。おばさんは?」

「もう寝るとこ」

「ここに来るの、谷口さんに怒られなかった?」

「うん。お母さんが許可してくれたから。もう遅いから、十分だけって約束だけど」

「そうなんだ」十分という短さに、がっかりしたことを悟られないようにぼくは応えた。

 つい見てしまった腕時計型スマホのデジタルは、一時二十分〇二秒を示していた、

「十分経ったら、谷口さんがドアノックしてくれるって」

「ん」

 と言ってドアを閉めたあと、部屋の灯りを点けようとしたぼくをみかんが止めた。「大丈夫だよ、暗いままで」

「わかった」

 みかんを招き入れたぼくは、それまでにいたベッドの頭側に座り、みかんは同じベッドの足元側に、壁を背に、体育座りで座った。

 今やうるさいくらいにドクドクと鳴っている心臓の音が、みかんにまで聞こえているんじゃないかって恐れおののきながらも、ぼくはどうすることもできないままに、それまでそうしていたように、今もなお忙しそうに歩き回っている軍人さんたちの姿を、すぐそばの窓越しに見た。

 ようやく心臓が落ち着き始めた頃に、「ねえミズト」とみかんが言った。「地球の神さまは、どうして進化の道を選んだのかな」

 そんなことを考えたこともなかったぼくは、驚きながら、思わず振り返って訊き返した。「進化の道を?」

「うん」抱えた両膝に頬っぺたを乗せながら、青味がかった暗闇越しに、こっちを見ているみかんが答える。

 それとも、目の前を泳いでいるワキンを見ているのだろうか。

 わたしね、と、静かな口調でみかんが続ける。「そのことと、関係してる気がするんだ」

「何が?」

「わたしたちが、どうして生まれてきたのかが」

「……そんなこと考えてたんだ」

 みかんがつっと向こう側に顔を向けて、反対側の頬っぺたを膝に乗せた。

 ワキンはみかんの頭の周りを、居心地良さげに泳ぎ続けている。

「昔ね」とみかんが話し始める。「母さんと喧嘩したときに、産んでくれなんて頼んでない、って言っちゃったことがあるんだ。そしたら母さん、すごく悲しそうな顔して、そのあと、ずっとわたしは後悔してた。母さんだって、もしかしたら、わたしを作る気なんてなくて、勝手にできちゃっただけかもしれないから」

「そんなこと……」

 みかんは顔を上げて左右に振ると、白くて細い顎を、とんっと膝に乗せながら正面を向いた。

「違うの。卑屈とかでそう言ってるんじゃないの。科学的に言ってるんだよ?」とそこで、みかんが目だけでちらっと一度、ぼくを見たような気配と間があった。「だって母さんは、子どもを望んでたかもしれないけれど、それと実際に、わたしが生まれたこととは、関係がないでしょ?」

「……そうなの、かな」

「うん。少なくとも世の中には、作られるつもりじゃなくて作られた子も、いるんじゃないかってわたしは思うんだ。そして作られることを、誰よりも強く望まれたにもかかわらず、生まれて来れなかった命だってある。違うかな」

「そっか……違わないかも」

「だからね、突き詰めて考えると、きっと今のわたしがいることは、母さんにも責任がないんだって思う。子どもの責任を取れるのは親しかいないのかもだけど、それは単に、周りから決められた責任なんじゃないかって。だからわたしは、自分でそれを探さなきゃいけないんだって思う。責任のある場所を、自分で決めなきゃいけないんだって。それは本能や遺伝に沿っているものでもいいし、みんなの考えを元に培ってきた、心に沿っているものでもいいから、自分で。一体自分が生まれてきた責任は、誰にあるのか、どこに置くのか。DNAなのか、環境なのか、自分自身なのか。実際に責任を負えるのは、一体誰なのか。自分はこれから先、どうなっていくのか。一体この先、どうなりたいのか。そしてこれからなんのために、生きてゆくのか。一体なんのために、死んでゆくのか……。もしかしたら地球の神さまも、そんな気持ちでいたんじゃないのかなって思うんだ。それでいてもたってもいられなくなって、考えることができる、自分を理解してくれることができる、わたしたち人間を作ろうとし始めたんじゃないのかなって。別に、火星の神さまを傷付けたかったわけじゃなくて」

「……じゃあ地球の神さまは、悪くないの?」

 嫌味ではなく、素直にそう思ってぼくは尋ねた。

「多分善悪なんて、どこにもないんじゃないかな」

 みかんはくっと顎を引くと、抱えている両膝におでこをトンッと当てた。「パパがね、よく言ってたもん。善悪っていうのは、人間用の、単なる感情の、座標名に過ぎないって。緯度とか、経度みたいな?」

 そこでみかんは顔を上げて、今度ははっきりとぼくを見た。

 その拍子に驚いたワキンが、みかんの髪の毛にさっと隠れる。

「もちろん、それを傷付けた側が言っちゃいけないと思う。でも、でもその本質を忘れちゃったら、善も悪もぶつかり合うだけで、きっとどこにもいけなくなるんだって思う」

「……ねえみかん、ぼくたちは、どうすればいいんだろう」

 本当にわからなくて、純粋に知りたくてそうぼくは尋ねた。

「それはミズトが、決めることなんだよ?」

「そうだけど……正直に告白すると、ぼくはレヴィを、やっつけることしか考えられないんだ」

「確かに、それもひとつの道ではあるよね」

「他にも、何か方法があるの?」

 みかんは前を向くと、唇を膝で隠すようにして、

「たったひとつだけ」

 と、秘密を打ち明けるように言った。「たったひとつだけ、『ちゃんと終わらせる』方法があるって言ったら、どうする?」

「ちゃんと、終わらせる……?」

「うん。その方法を選べば、きっとすべてが、うまくいくって方法があったとしたら……」

「あるの? そんな方法が」

「実はね、未来が見えたんだ」言いながら、ゆっくりとみかんがこっちを見た。髪の毛から出てきたワキンが、みかんが首を回したのと逆方向に泳いで行った。「信じられる?」

「信じるよ。ルキンもときどき、未来を見れるようなことを言ったりするし」ぼくはルキンから聞いていたことを付け足した。「消えたときに、ぼくの意識の窓を通じて、少しなら見えるって言ってたし」

「そう言えば言ってたね、そんなこと」

「うん。だからもしかしたら、フットがテレパシーで、未来を見せてくれた可能性もあると思う」

「そっか。そうかもしれないね」

「……それで、どんな方法なの?」

 みかんは、何をどう話し始めればいいのかがわからないようだった。

「中性子星ってわかる?」とおもむろに、予想外すぎることをみかんが尋ねた。

「えっと、わかんないかな」

「簡単に言うと、物をぎゅーっと圧縮するとできる、ものすごく磁力のある、重くて熱い状態——星のことなんだけど」

「ブラックホールとは違うの?」

「ブラックホールの、ちょっとだけ弱い版みたいな星かな。弱いって言っても、宇宙で二番めに強いんだけど」

「そうなんだ。それで、その中性子星が……?」

 と。みかんはとっと裸足のつま先からベッドを降りてスリッパを履くと、ゆらゆらとあとを泳ぎ付いてくるワキンと一緒に、とことこと目の前までやって来た。

 そしてそっとぼくの両肩をつかむと、ふわりとぼくの耳に唇を寄せて、その、ちゃんと終わらせる方法の詳細を打ち明けた。

 聞き終わったぼくは、ごくり、と唾を飲んでから、ドキドキすることも忘れたままに、顔と手を離して一歩後退ったみかんに尋ねる。

「それって、本当にできるの……?」

「うん」とみかんが頷いて、外灯でしっとりと輝いている髪の毛が少しだけ揺れた。「確信があるんだ。そしてわたしは、それでもいいってもう決めてある。それがわたしの、『責任』なんだって」

 笑ってぼくを見ているみかんが、一瞬、大人の女の人のように見えた。

「もちろん、強要なんてしないよ」とみかんが続ける。「ミズトは、ミズトの方法でレヴィに立ち向かえばいい。でも、もしももうどうしようもないってなって、そうするしか方法がなくなったとき、ミズトがそれを『決断』すれば、わたしは、いつでも……」

「……わかった。考えとく。ルキンと一緒に」

 とそこで、トントンとドアがノックされて、ワキンがみかんの髪の毛にさっと隠れると同時に、みかんがくるりと向こうを向いた。

「じゃあわたし、そろそろ行くね。おやすみ」

「うん、おやすみ」

 と。みかんがぼくを振り向いた。

「あ、そう言えばミズト、誕生日おめでとう」

「みかんもおめでとう」

「今度ちゃんと——」

 と、みかんは言いかけたけれど、結局は続きを言わないまま、ニコッとどこか哀しげに笑っただけで、また向こうを向いた。

 けれどぼくには、みかんが何を言おうとしたのかがちゃんとわかった。

 誕生日パーティーのことを言おうとしたのだ。

 今度ちゃんと、誕生日パーティーをしようね、と。

 と同時に、それを言えなかったみかんの気持ちもまた、ちゃんとぼくにはわかっていた……。

 そうしてみかんが出て行ったあと、ぼくは、腕時計型のスマホを見た。

 見てみると、デジタルは、一時三十五分〇二秒を示していた。


   ⌘


 みかんが部屋を出て行ったあと、ぼくは、眠ることができなかった。

 レヴィが一体、どういう風に攻めてくるのかが、気になってだ。

 一番怖かったのは、レヴィが支配したという全部の軍人さんとクアットを引き連れて、総攻撃を仕掛けてくることだった。

 いくらルキンが強いと言っても、相手の数が多ければ、研究所のときのように大苦戦することになるだろうし、フットのシールドがあったとしても、守れる範囲に、限界があるはずだからだ。

 そうすると、純粋に数の勝負になるかもしれなくて、そうなると、兵力が約十分の一のぼくらは、普通に負けてしまうことになる。

 ルキンとフットのおかげで、みかんとぼくの家族と、叔父さんだけは生き延びられるかもしれないけれど、それはなんだか嫌だった。

 あとはそう、レヴィが言っていた、覚醒という台詞も気になっていた。

 詳しくはわからないけれど、覚醒さえすれば、ルキンもフットも相手じゃないという自信だけは、ありありと伝わってきていたからだ。

 とそうすると、ルキンとフットというこっちの切り札は、通用しないということになって、結局は純粋な数の勝負になって、ぼくらはおのずと、しかるべく負けてしまうということになる。

 そうすると、みかんが言っていた方法——作戦しか、なくなるかもしれない……。

 ぼくはその辺のことを、ルキンに直接訊いてみようと思ったのだけど、まだ戻ってきてはいないようだ。

 それでぼくは、引き続きどうやって攻められるのだろうかとか、お父さんたちは一体どんな作戦を立てているのだろうかとか、明日はぼくたちも参加することになるかもしれないとかを考えながら、眠れない時間を過ごした。

 でも、そのときにはもうすでに、レヴィは仕掛けてきていたのだ。

 そのことを知ったのは、明け方前にようやくうとうととして、日の出から二時間ほどが経ったあとに、『起こされた』ときのことだった。

 突然響き始めた、機械仕掛けの巨大なオオカミの遠吠えのような警報が、ぼくの眠りを粉々に粉砕して、ぼくはその事実を知ったのだ。

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