2ー15


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 研究室の壁沿いの棚に置かれている、ミツクリザメの液浸えきしん標本を、みかんとぼくは、黙って眺め始めた。

 ちなみに液浸標本とは、ガラス容器に入れられている、薬品に浸した標本のことで、そしてミツクリザメとは、別名ゴブリン・シャークと呼ばれる、比較的小型のサメのことだ。

 ここの水槽に保存されている個体は、全長五十㎝というところだろうか。

 そのミツクリザメこと、ゴブリン・シャークは、普段はちょっと頭が長いだけの、割と控えめな見た目のサメなのだけど、餌を食べる瞬間だけ、牙まみれの顎を、ガバッと不思議な角度で頭の下に突き出して、言葉通りゴブリンのような恐ろしい顔になるという変わったサメだ。

 そのときの頭部をシルエットで言うと、ちょうどOKサインを横向きにしたような感じだろうか。

 横向きになった中指が頭で、丸めている人さし指と親指が、ガバッと突き出している顎という格好だ。

 ちなみのちなみに、標本のそれは、まさにそのゴブリン顔の瞬間で固められたもので、小さい割に、なかなかの迫力だった。

 そんなミツクリザメから目を逸らさないままに、みかんがふいに話しかけてきた。

「ねえミズト。わたしは、レヴィはわふ——人間の身体を、取ったんだと思う」

 思わずぼくは、みかんの方を向いた。「そうなの?」

「うん」

 みかんは一度こっちを向くと、ガバッと今もまだ顎を突き出し続けている、ミツクリザメに視線を戻した。「だってもしも誰かに作られたんなら、はじめから覚醒した状態になってると思うから。わざわざ覚醒を待ったりはしないと思うから」

 ぼくもミツクリザメを見た。

「あー、なるほどね。レヴィ、覚醒を待ってるっぽかったもんね」

「うん。だからレヴィは、どこかの居住区の、誰かの身体を取ったんじゃないのかな」

「そうか、そうかもね」

「うん。でね、もしそうだったらわたし、その子に、身体を返してあげたいんだ」

 ぼくはまたみかんの方を向いた。「みかん……」

 正直、その言葉に驚きながら。

 なぜならみかんは、わふなちゃんに、今までたくさんいじめられてきたはずだからだ。

 だからぼくだったら、きっとみかんのようには思えないはずだ。

 だけどもしもみかんの言うように、わふなちゃんが誰かの身体を借りているのなら、その誰かには直接の責任はないわけで、返さないといけないだろう。

 でも、だったらその誰かの心は今、どこにあるんだろうか?

 レヴィの中に、閉じ込められているんだろうか?

 その辺のことはわからないけれど、とにかくぼくは、「そうだね、その場合は、きっと返そう」とミツクリザメを見つめ続けているみかんに言った。

「うん」

 みかんはそれだけ言うと、次はあっちの見よ、と言いながらぼくの手を取って、引っ張った。

 そうしてぼくたちは、今度はニシンやナマコの液浸標本を見始めたのだけど、その間もずっと、手はつないだままでいた。

 そのせいか、ぼくはもはや、標本どころではなくなっていた。

 他にも似たような魚や海底生物が色々と保存されていたのだけど、ほとんど頭に入ってはこなかった。

 ただずっとドキドキしていて、お父さんたちの話が、少しでも長くなればいいのに、とそう思っていた

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