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「え……?」

 と、思わずおばさんに言いながら振り返って見ると、わふなちゃんが割とすぐ近くに立っていて、その華奢で白い片手の指先には、みかんの『耳の先っぽ』が握られていた。

 みかんは痛がってはいるようだけれど、どこかあきらめたような顔つきで、されるがままになっている。

 ぼくは無意識に、スマホをはめている腕を下げていた。

「わふな、ちゃん……?」

 ぼくの言葉に、ゾッとするほど低い声でわふなちゃんが応える。

「黙れ。その名で呼ぶな。こいつを殺すぞ」

 わふなちゃんがみかんの耳をぐいっと引っ張り、みかんの白い眉間に、ぎゅっとしわが走った。

 ハッと我に返ったぼくは、腕を上げると、とりあえずみかんを連れて帰りますから、とおばさんに言ってから、指先で画面を叩いて通話を終えたのち、今度は意識的に、ゆっくりと腕を下げながらわふなちゃんにこう尋ねる。

「……君は、誰なの? みかんの妹じゃ、なかったの?」

 わふなちゃんは、子どものそれとは到底思えない、軽蔑しきった表情で言った。

「まったく、懐疑能力の著しく低い、品性下劣な下等種族だ」

「種族……?」

〈気を付けるよ、ミズト〉とそこでルキンがぼくに言った。〈あの子、ヒートじゃないかもだよ。すさまじいQUAの量だヨ〉

 禍々まがまがしい薄ら笑いを浮かべながら、わふなちゃんが言った。

「聞こえているぞ、ブラック・デーモンよ」

〈ぼくは、ルキンだヨ〉

 一体どこに、そんな力があるのだろうか?

 わふなちゃんは、ルキンの言葉には応えないままに、みかんの耳をまたぐいっと引っ張って、みかんをぬいぐるみでも扱うかのように軽々と目の前に移動させると、子ども用の黒いパンプスのかかとで背中を蹴って、つんのめらせた。

 みかんの腕の傷が心配になったぼくは、あっと声を上げたけれど、その点は大丈夫そうだった。

 みかんの両腕は、もうすっかり元通りになっていた。

 けれどわふなちゃんは、そんなことは一切おかまいなしという感じで、例のシロナガスクジラ型の白いポシェットから、水色の煙草の袋を取り出して振り、一本をくわえると、黄色いプラスチックのライターで、慣れた手付きで火を点けた。

 そして深々と一口めの煙をおいしそうに吸って吐き出しながら、

「品性下劣な下等種族ではあるが、この嗜好品だけは、悪くない」

 と、光の射し方のせいで、暗く見えている目元を歪ませて言った。

「君は、誰なの……?」もう一度ぼくは尋ねた。

「わたしの正体なら、いずれ、思い出す」

「思い出す?」

 わふなちゃんは答えないまま、また一口おいしそうに煙を吸って吐き出しながら、一歩進むと、みかんの背中をどんと踏んで、完全なうつ伏せにさせた。

 そして小さな靴のつま先で、みかんの制服のブラウスを荒々しくめくり上げると、煙草をみかんの背中に落とし、突然の出来事に何も反応ができないぼくをあざ笑うかのように、たっぷり五秒は待ったあとで、ぼくに見せ付けるかのように、みかんの背中で火を踏み消した。

 それでぼくは、みかんを虐待していた犯人が、みかんのおばさんではなくて、わふなちゃんだったことを知った。

「残念だが、わたしを倒すことは不可能だ」わふなちゃんが言った。「たとえ伝説の、ブラック・デーモンでもな」

 試してみるよ、ぼくは、ルキンだヨ、とルキンがわふなちゃんに言ったけれど、わふなちゃんはまたルキンをスルーした。

「ただし、貴様を倒すこともまた不可能だろう。今のわたしではな」

 と。わふなちゃんのすねから下の部分が、つま先の方から、身に着けている靴や靴下ごと、虹をかき混ぜたような紫がかった光の薄膜に、じんわりと包まれ始めた。

 と同時に、少しずつだけれど、確かにわふなちゃんの両足が、地面にズッと沈み始めていることに、気が付きながらぼくは尋ねる。

「……今の、わたし?」

 わふなちゃんは、当然のようにぼくの言葉もスルーした。

「だが、ブラック・デーモンよ。貴様を超えるときは、もうすぐだ。覚醒まで、いくばくの時間もないぞ。すぐに次の刺客も送る。せいぜい覚悟しておくことだ。それとも、今すぐに降伏するか?」

〈ふざけるなだヨ〉

「ならば、死、あるのみだ」

 そう言ったわふなちゃんの身体は、紫がかった光の薄膜に、やっぱり洋服やポシェットごと下からじわじわと包まれながら、すでに胸元のあたりまで、地面に沈んでいた。

 さらに沈みながらわふなちゃんが続ける。

「では、また会おう。下等種族と、出来損ないの、ブラック・デーモンよ」

〈ぼくは、デーモンじゃないよ。ルキンだヨ〉

 ルキンがそう言ったときには、わふなちゃんは地面の中に、もう完全に消えていた。

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