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「わふちゃん……ついて、来たの……?」

 首に回された男の人の腕を、華奢な両手でつかみ、泣きそうな顔になっているわふなちゃんを見ながらぼくは言った。

「ごめんなさい、ミズ兄。ごめんなさい……」

「そこまでだ。バットを捨てろ!」

「……」

 こうなってしまったら仕方ない。

 男の人の言う通りにしようとしたぼくに、ルキンが声をかける。

〈その必要はないヨ〉

〈? どういうこと?〉

〈このまま、あの男を叩くヨ〉

〈……でも、わふちゃんは?〉

〈ほっとけばいいヨ〉

〈そんなわけには、いかないよ……〉

〈どうしテ?〉

〈? どうしてって、悲しむ人がいるからだよ〉

〈カナシム? どうしテ?〉

 一切の屈託なくルキンは繰り返した。

〈どうしてって言われても……〉

 一体どう説明すればいいのだろうか?

 迷いながらもぼくは言った。

〈一度消えた命は、絶対に戻らないからだよ〉

〈イノチは、ニクのこト?〉

〈そう、そうだね〉

〈ニクが戻らないと、カナシム。カナシムト——〉

「さあ、早くバットを捨てろ!」

 ぼくは言われるままに、バットをその場に投げ捨てた。

 とそこでどこからか戻って来たホオジロザメが、男の人の頭の上の、後ろ側の空中でスッと動きを止めて、紐でつながれている風船のように停止した。

 普通のサメだったらそんな風に一箇所に留まれないはずなのだけど、宙を泳いでいる時点で普通ではないわけだから、今さらその点に驚くようなことはなかったものの、それとは別に、純粋にぼくを驚かせたのは次の点だった。

〈眼の傷が、治ってる……?〉

 ホオジロザメの、ブクブクと泡立ちながら再生している眼を見てつぶやいたぼくにルキンが応える。

〈QUAが傷を治すよ。サンシータにも、ちょっとはあるヨ〉

 はーっはっはっはっはっはっ! と、被っているフードを揺らしながら、突然笑い始めた男の人の声が霧に乗って響き渡る。

「三下とは言ってくれるじゃないか、エキジットもできない出来損ないが」

 どうやら男の人にも、ルキンの声は届いているようだ。

 それよりも、エキジットとは、どういう意味なのだろうか?

「しかもどうあがいても、お前らに勝ちめはなくなったというのにな!」

 そう続けてまた笑った男の人と一緒に、ガフッ、ガフガフガフッ、と、ホオジロザメも大口を開けた顔を上下させながら笑っている。

 ぼくは男の人をにらみつけた。

「バットは捨てたよ。わふちゃんを、離してよ」

 男の人が、シュッと瞳を細くした猫のような顔で言った。「嫌だと言ったら?」

「……ズルい、よ」

「大人だからなあ」

 ぼくは男の人をにらみつけたまま、ルキンに話しかけた。

〈ごめんねルキン。ルキンだけでも、逃げられないの?〉

〈どこに逃げるノ?〉

〈え、だってときどき、いなくなるよね?〉

〈あれはミズの世界を、ピクニックだヨ〉

〈そうなの? どっかに行ってるのかと思ってた〉

〈グーゲンカできなきゃ、ルキンはどこにも行けないヨ〉

〈じゃあぼくが死んだら、ルキンも死ぬの?〉

〈だヨ〉

〈ごめんね、せっかくおしゃべりできるようになったのに……〉

〈——ミズ、その気持ちだヨ〉

〈?〉

〈その気持ちの果てに、グーゲンカの扉があるヨ〉

〈?〉

〈もっとその気持ちになるよ。カナシムヨ〉

〈そんなこと言われても……〉

〈早くカナシムヨ〉

〈無理だよ……!〉

 ぼくらが言い争っている間に、男の人に命令されたホオジロザメが、まるで助走でもするかのように、男の人の頭上をグルグルと旋回しながら泳ぎ始めた。

「いいかガキ、少しでもQUAの流れを感じたら、こいつを殺す」

 男の人の言葉にぼくは応える。

「どういうこと……?」

「お前の脳内金魚に、QUAを使わせるなということだ。お前の衣服や身体に、注入したりしてな」

「……わかったよ」

 まさに男の人が言う通りのことを、密かに実行しようとしていたらしいルキンだったけれど、ぼくがお願いすると、わかったヨ、と意外にも素直に言ってくれた。

 その間もホオジロザメは、男の人の頭上をグルグルと泳ぎ続けていて、そしてついに、これ以上はないというくらいの速度に達すると同時に、歯ぐきと牙だらけの大口を、グワバアアアッッッ! と自慢げに開きながら、ぼく目がけて突っ込んできた。

 ぼくはぎゅっと目をつぶって、ルキンと一緒に、死の瞬間を待った。

 けれどその直後、左右の肩に時間差で衝撃を感じて、ぼくは誰かに突き飛ばされて、横向きに倒れたことを知った。

 地面に一方の肩を、ズザッと擦り付けながら目を開けて、ぼくはぼくを突き飛ばした人の、正体を見た。

 それは、みかんだった。

 ぼくが立っていた場所に、両腕の肘から先が、ぶっつりとなくなっているみかんが、高いバレーレシーブをした直後のような体勢で立っていた。

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