1ー12


   ⌘


〈だいジ。気付かれてないヨ〉

〈ごめんルキン、説明して。何が、どうなってるのか……〉

 あまりの力の入らなさに、全身が幽体離脱のように浮き上がってしまいそうな恐怖をどうにか堪えながらぼくは尋ねた。

〈それは、あの子を倒してからだヨ〉

〈か、勝てるの?〉

〈あんなサンシータには、負けないヨ〉

〈さんしーた?〉

〈ザコって意味だヨ〉

 と。ぼくのすぐ上空を、優に五メートル、多分七メートルくらいはありそうな、巨大すぎるホオジロザメの白い『裏側』が、ゆらり、と泳いで行った。

 瞬間呼吸がヒグッと止まり、内臓を直接手で触られたかのようなとてつもない恐怖が、股間から喉元までを、ずるんずるんと撫でていった。

 漏らさないでいるのが奇跡だ、とぼくは思った。

 いくら嫌いじゃない生き物、と言うよりはかなり好きな方のそれだとは言え、こうして間近で見ると、恐怖しか感じない。

〈あ、あれが、ザ、コ……?〉

〈——さあ、まずは早く、グーゲンカするヨ〉

〈ねえ、さっきからなんなのそれ!? グーでのケンカ?! あのサメと?!〉

〈いいから早く、今のうちだよ。ロレンチーニ器官で、すぐに見つかるヨ〉

〈ねえルキン! わからないことが多すぎるよ! ちゃんと教えてよ!〉

〈ロレンチーニ器官っていうのは、生体電流と磁場を感知する、サメのレーダーだヨ〉

〈そっちじゃないから!〉

〈あーあ、見つかっちゃったヨ〉

 と。ホオジロザメが、周囲に生え揃っている背の高いヒノキに沿って、垂直に昇り泳いでゆく姿が見えた。

 かと思っていると、ある地点で尾びれをグンッと動かして、ぐるりと百八十度、大方向転換をしながらぼくの真上に移動すると、上下の顎の骨が頭蓋骨から独立しているという噂でもちきりの、牙まみれの大口を、グワバッと開ききった。

 そうして開ききりながら、目が小さくて、歯茎が広めの人が、ガハハッと豪快に笑っているようにも見える顔で、ヒノキが滑走路でもあるかのように、間違いなくぼく目がけて真っ逆さまに、落ちるように突進してきた。

〈何してるの、避けるヨ〉

〈わーーーっ!〉

 ぼくは間一髪のところで、ホオジロザメの突撃をかわすことができた。

 でも、それは完全なる偶然だった。

 とっさに横に転がったのと、垂直に落ちてきたホオジロザメの口の位置が、地面の物を噛みにくい角度で付いているというおかげによる。

 いつの間にか、ますます暗くなっている濃い霧の中を、また垂直に昇り泳いでゆくホオジロザメの後ろ姿を見ながら、ぼくはルキンに正直に伝える。

〈ごめんルキン。腰が抜けちゃって、う、動けないんだけど……〉

〈だいジ。一瞬で勝てるヨ〉

〈一瞬で……ほんとに……?〉

 ルキンのさも自信ありげな口ぶりに、思わず期待を込めつつ訊き返したぼくが馬鹿だった。

〈ほんとだよ。サンシータの咬合力は、せいぜい二千ニュートン。ルキンのは、二万ニュートンだヨ〉

〈こうごうりょく……噛む力ってことだよね?〉

〈だから早く、グーゲンカするヨ〉

〈言うと思った……〉

 終わったー、と、ぼくは思った。

 さっきから言われている、グーゲンカのやり方はもちろん、それ自体の意味も、まったくわからないときているのだ。

 ——と。

 案の定また遥か上空で、グンッと大方向転換してきたホオジロザメが、再びぼく目がけて真っ逆さまに迫り始めた。

〈もしかして、知らないの? ルキンのグーゲンカホウ〉

 こんなときにもかかわらず、まったく焦っていない調子でルキンが尋ね、思いっきり焦りながらぼくが応える。

〈!? ルキンのグーゲンカホウ?! そうか、グーゲンカは具現化、つまり、ルキンを外に出すことなんだね?!〉

〈さっきから言ってるヨ〉

〈具現化なんて言葉が難しいし、発音がグーの喧嘩だからわからなかったよ!〉

〈わかったなら早く出すよ。グーゲンカするヨ〉

〈いや、知らない! 知らないってそんな方法!〉

〈どうしテ?〉

〈こっちが訊きたいって!〉

 ホオジロザメは、もう目前に迫っている。

 さっきの攻撃を反省したのだろうか、今度はぼくの頭の上の方に急降下すると同時に、地面に沿ってJの字に滑り、ぼくの頭をかっ喰らうつもりのようだ。

 緊迫感のかけらもない、冷静な調子でルキンが言った。

〈だったら、バットを向けるヨ〉

〈こ、今度は何?!〉

〈バットを持って、バンザイするヨ〉

〈——くっ!〉

 ホオジロザメがぼくの頭の上の方で、地面すれすれのJの字に、バギュムッと滑り始めたのと同時、ぼくはかろうじてずっと片手に握っていたバット(グローブは抜けてどこかにいっていた)を両手で持つと、剣道のメンでも打った直後のように、頭の上に振り上げた。

 その瞬間ホオジロザメが、見えない壁を回避するかのように、思いのほか丸みを帯びてはいるけれど、まったくかわいくなんて見えない三角形の鼻先を、その根元にクニッとシワを寄せながらグイッと強引にねじ曲げて、ギャウッと真横に向けて泳いで行った。

 風圧ならぬ霧圧が、ぼくのJAWSキャップを真上から押し付けて目元を隠し、正面が何も見えなくなる。

 ぼくは叫ぶようにしてルキンに尋ねた。

〈何!? 一体何が起こったの?!〉

〈バットにQUAを流したヨ〉

〈クア!? クアって何?!〉

〈Power,〉

 と。今度はホオジロザメが、ずっと向こうの水平方向から、超低空泳法で、いつか漫画版の聖書で読んだことのあるモーゼのように、長い雑草を二つに割り割り、ッグーンとおっきすぎる弾丸のように突進してくるのが横目に見えた。

〈来たよ。またバットを向けるヨ〉

 ぼくはゴロッと地面に横向きになると同時に、キャップのつばをピシッと指で跳ね上げると、夢中でバットを、でやっ、と、ホオジロザメに向かって突き出した。

 するとまたホオジロザメは、見えない壁を回避するかのように、鼻先をグイッと強引にねじ曲げて、ギャウッと真横に泳いで行った。

 どうやら本当に、バットを嫌がっているようだった。

 ただそれ以上に驚いたのは、ホオジロザメが逃げる瞬間、「チッ」と舌打ちをしたことだ。

〈あのサメ、しゃべれる……?〉とルキンに尋ねるでもなくぼくは尋ねた。

〈ルキンだってそうだヨ〉

〈でも、声に出してたような……〉

〈ルキンだって、グーゲンカできれば同じだヨ〉

〈そうなんだ。ちなみに具現化したら、ルキンはどうなるの?〉

〈サンシータよりも、黒くておっきくなるヨ〉

〈へー、そうなんだー〉

 いくら大きくなったとしても、出目金じゃあ今ひとつ迫力に欠けるよね、とつい思ってしまったぼくだったけれど、とまあそれはさておき、ルキンの自信をみると、一応信用してもよさそうだ。

〈それより、本当に知らないの? ルキンのグーゲンカホウ〉

〈まったく知らないんだけど……〉

 答えながらぼくは立ち上がると、キャップを横向きに被り直し、バットの柄を両手で握りしめた。

 ルキンがQUAというパワーを流し込んでくれたこのバットが本当に効くとわかったら、全身に力が戻り、なんとかそうすることができた。

〈聞いてないの? キューシャーニ〉またルキンが尋ねた。

〈キューシャー? キューシャーって?〉

〈ンキューする、ヒートだヨ〉

〈……余計わかんないけど、聞いてないかな!〉

 あくまでも冷静にルキンが応える。

〈じゃあ作戦変更だよ。ルキンの言う通りに闘うヨ〉

 ぼくは、姿を消したホオジロザメを警戒しながら訊いてみた。

〈ねえルキン、ルキンがその具現化法ってのを、教えてくれればいいだけの話じゃないの?〉

〈それはしたくても、できないことだヨ〉

〈知らないから?〉

〈知ってるけど、人工知能AIと一緒だよ。どれだけintelligence,を持ってても、自分からの説明がうまくないヨ〉

〈そうなんだ……何か、ヒントはないの?〉

〈もちろんあるヨ〉

〈あるんだ!? だったら教えてよ!〉

〈ミズが小さい頃に、よくやったことだヨ〉

〈ぼくが小さい頃に……? ごめん、全然わかんないや……他にはないの?〉

〈目玉をくり抜くヨ〉

 ——ふっと、ぼくはみかんとわふなちゃんとで、ルキンを出そうとしたときに、似たようなことを考えたのを思い出した。

 もしもルキンが眼から出てくるのなら、まず先に、眼が飛び出さなければいけないのでは? ということを。

 今のルキンの発言からすると、あれはあながち間違ってはいなかったということなのだろうか。

 仮にそうだとしても、さすがに目玉をくり抜くなんてわけにはいかない。

〈そんなこと、できるわけないでしょ!〉

 と思わず叫ぶように言ったぼくに、

〈ほんの冗談だヨ〉

 と、すまし顔ならぬすまし声でルキンが応える。

〈……!? もう! 他には何かないの?!〉

 真に受けてしまった気恥ずかしさをごまかすように、今度こそ叫んだぼくにルキンが言った。

〈時間が経てば、説明できるヨ〉

〈? 時間が経てば?!〉

〈ルキンの言葉が、だんだんうまくなるヨ〉

〈そう言えばルキン、最初より上手にしゃべれるようになってるもんね!? ちなみに、どれくらい待てばいいの?!〉

〈24hours,〉

〈うん、待ってられそうにないね!〉

 と。気配を感じて、背筋をめいっぱいに反らして見上げてみると、ぼくの後頭部の上空に位置していたその場所に、まるでヒノキの枝から逆さまにぶら下がるようにして、『縦』になったホオジロザメが、枝葉と霧に紛れるようにしながら、じっとこっちを見下ろしていた。

 そしてぼくと目が合ったその瞬間に、ズラリとむき出していた、縁がギザギザになった二等辺三角形の牙がビッシリと生えている二つの列を、さらにズバッとむき出して、ガフガフ、ガフッと声に出して不気味に笑った。

 一体どういう原理でそんな声を出しているのかは謎だったけれど、確かにこっちを見て、笑っているのだった。

〈クク、ジャッコ。ホントーにできんのか、グゲンカ〉

 ホオジロザメが、ぼくとルキンが会話するように話しかけてきたことに驚いたけれど、それ以上に驚いたのは、相手がルキンの存在や、闘っている事情までをも、ちゃんとわかっているらしいということだった。

〈『ホントーに』って、知ってるの? ぼくらのこと……?〉

 ——ふと、ホオジロザメの首というか、顎の付け根らへんに巻かれてある、綺麗な首飾りのようにも見える白銀のワイヤーに気付きながらそうぼくはホオジロザメに尋ねたけれど、それがなんなのかはさっぱりとわからなかった。

 そしてホオジロザメはぼくの質問を無視したけれど、どうやら確実に、ぼくらのことを知っているようだった。

〈ナールホド〉と、ホオジロザメが言った。〈グゲンカできないなら、あわてナイナイ。いくらQUAあっても、ジャッコだけなら、ホカクわけナイ。もてあそんで、テアシカミクダクだけ。ククク……〉

 どこかユーモラスな口調の反面、恐ろしすぎる内容のことをホオジロザメは言い終えると、たったまばたき二回分の時間で、ギャンッと方向転換しながら泳ぎ始め、木々の間を、結構なスピードでグネグネと泳ぎながら、暗い山林の奥に消えて行った。

 よくぶつからないで泳げるね、とつい独りごちてしまっていたぼくに、ルキンが声をかける。

〈タペータムのおかげだヨ〉

〈タペータム?〉

夜目よめのことだヨ〉

〈よめ? ああ、夜も見える目のことだね。そう言えばサメって、暗闇に強いんだもんね〉と、いつかの図鑑で見た情報を思い出してぼくは言った。〈てかルキン、これってかなり、やばい状況だよね……?〉

〈逆に、作戦タイムだよ。グーゲンカもできないと、まだ決まったわけじゃないヨ〉

〈まあそうかもだけど。作戦って……?〉

〈あのサンシータのキューショは、眼と鼻と、エラと喉だよ。バットでそこを狙うヨ〉

〈言うのは簡単だけどさ……ていうか、この会話って聞かれてないの?〉

〈サンシータは馬鹿モノだから、ニクの声と同じで、離れてればだいジだヨ〉

〈そうなんだ。ってルキンってかわいい声して、何気に毒舌だよね……〉

〈そんなことより、アタックの合図はルキンが出すよ——ほら、後ろから来るよ。構えるヨ〉

 ぼくはハッと振り返りながら構えると、今だよ、シンゾウの高さでめいっぱいに振るヨ、というルキンの合図に合わせて、無我夢中でバットをフルスイングした。

 すると予想外にもそれは、ホオジロザメの鼻にジャストミートして、ゲッゴォォォム! という聞き取りにくい悲鳴をホオジロザメが上げ上げ、身体をギュイギュイとよじらせながら、いそいそと逃げ泳いで行った。

〈あ、当たった。痛がってる……?〉

〈この調子なら、きっと勝てるヨ〉

〈だと、いいけどね……〉

 思わぬダメージに苛ついたらしきホオジロザメは、そのあとぼくの上空で小枝をピシビシとへし折りながら、数本のヒノキの周りを猛スピードでグルグルと泳ぎ始め、ランダムなタイミングでもって、急降下噛み付きアタックを連続でしかけてきた。

 でもルキンの的確な合図のおかげで、そのすべてではないけれど、ほとんどすべての攻撃に、振り下ろしや突きなどの、急所を狙った、敵の勢いを利用して繰り出すカウンター攻撃を決めることができた。

〈ウン、いい調子だヨ〉

 またホオジロザメが逃げ泳いで行っているときにルキンが言って、ぼくが応える。

〈でもあのサメ、なんだかダメージを受けてないように見えるけど……? 当たった直後は痛がってても、すぐにケロッとしてるっていうか……〉

〈隠してるだけだヨ〉

〈そうなの?〉

〈動物は、ギリギリまで平気な顔するよ——今だよ、今度は眼を叩くヨ〉

 ルキンの合図に合わせて、今度のぼくは、ホオジロザメの噛み付きアタックを、地面を斜めに蹴ってひゅっとよけた。

 直後に反復横跳びの要領で踏みとどまると、これもルキンの合図通り、バットを振り上げながら身体の向きを反転させて、Ωのような急カーブでバギュムッとぼくを追いかけてきていたホオジロザメの、思いのほかつぶらなその片っぽの眼を、袈裟ナナメ斬りの要領で思いっ切り引っ叩いた。

 するとバットの先端がジャストミートして、イディクシュッ! というやっぱり聞き取りにくい悲鳴を上げたホオジロザメが、尾びれをブブブッと動かし動かし、眼から紅い血をトロトロと流しながら、木々にぶつかりぶつかり、奥へと泳いで消えて行った。

〈ヨシ、片眼をつぶしたよ。今度は、こっちからしかけるヨ〉

〈わかった〉

 まったく現金なもので、勝機が出てきた途端、ワクワクし始めているぼくだった。

 そう、これは冒険なんだ。

 ぼくはあんなにもおっきな宙を泳ぐホオジロザメの怪物をやっつけて、みかんを救うのだ。

 ——けれどもそのワクワクは、そこが頂点だった。

 突然どこからか、

「そこまでだ!」

 という怒鳴り声が聞こえてきて、見てみると、十メートルくらい離れている木のないところに、迷彩柄のフード付き貫頭衣式雨ガッパ《レインポンチョ》を羽織った大人の男の人が立っていて、そしてその腕の中には、サバイバルナイフで脅されている、わふなちゃんの姿があったからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る