1ー10
⌘
二階の自分の部屋に行って、金属バットとグローブを持つ。
バットは一応何かあったときのための武器代わりで、グローブは、それをカムフラージュするためのものだ。
いくらぼくが子どもとは言え、日没間際にバットだけを持って歩いていたら、不自然ではないかと思ったからだ。
ちなみにぼくは、野球が特に好きというわけではないのだけれど、今着ているブランキージェットシティーのTシャツと一緒で、このバットとグローブも、叔父さんがくれたものだ。
ずっと押入れで眠らせていたものを、引っ張り出したというわけだ。
少しでも不審さを減らそうと、学校の体育帽を被ったぼくに、ルキンが声をかけてきた。
〈ダメ、頭に白ハ〉
「帽子の色のこと? どうして?」
〈狙わレるヨ〉
「狙われる……?」
ルキンは答えてくれなかったけれど、ということは、やっぱり悪いひとたちと、闘うことになるのだろうか?
ぼくはドキドキしながらも、帽子をいつも被っている、黒地に赤文字のJAWSキャップに被り直した。
うん、やっぱりこっちの方がしっくりくるし、私服に体育帽だと、逆に怪しさが増すというものだ。
ちなみにJAWSの意味は、サメではなく、『ジョー《顎》』の複数形という意味らしい。
サメは他の生き物よりも大口を開けられるように、上下の顎の骨が、頭蓋骨からそれぞれ独立しているから、複数形のジョーズということのようだ。
いつかの叔父さんが、得意げにそう教えてくれた。
準備が整ったぼくに、またルキンが声をかけてきた。
〈忘れないデ、金魚バチ〉
「金魚鉢……?」
〈コトバ、思うだケで伝わるヨ〉
ルキンは、ぼくの質問に答えないままそう言った。
どうやらルキンへの返事は、声に出さずとも、思うだけで伝わるということがルキンは言いたいようだ。
ぼくは試しに、声を出さないままでルキンに尋ねた。
〈わかったけど、どうして金魚鉢?〉
〈それよりも、とーさまに会ウ〉
〈お父さんに? 会えってこと?〉
〈No,〉
ルキンは、こと細かに話してくれる気はないようだ。
頭の中で思っただけで、会話ができるということがわかったからま、いっか、とあきらめたぼくは、いつかのわふなちゃんが持ってきて以来、本棚の上にずっと置きっぱなしになっていた、まるい金魚鉢を背伸びして取った。
コルクのふたのホコリを手で払ってからグローブで挟み込んで、タコ糸でグローブの両端を結びつける。
こうしておけば、鉢が飛び出して割れることはまずないだろう。
うんうんとひとり頷きながら、グローブの手を入れるところをバットの先に突き挿して、いくらも入っていないマジックテープ式の黄緑色の財布を、お尻のポケットに突っ込んだ。
よし、準備万端だ。
そうしてぼくは、泥棒のような足取りで一階に降りて、こっそりと家を出ようとしたのだけれど、なんともタイミング悪く、階段を降りきった玄関前で、ばったりお父さんと出くわしてしまった。
とーさまに会ウ、とは、お父さんに出くわしてしまうという意味だったようだ。
「ミズト、さっきの電話、誰だったんだ?」
金魚鉢が見えないように、さりげなくグローブの位置を調整しながら、せいいっぱいの落ち着きを装ってぼくは答えた。「クラスの友だち。そいつとちょっと野球してくる」
野球? ミズトが? そしてなぜ友だちは携帯じゃなく、家の電話にかけてきたんだ? その子の名前は?
なーんて突っ込まれたら言葉に詰まるところだったけれど、お父さんは、そっか、楽しんでこい、ただ、歩いて行けよ、片手運転は危ないからな、あ、あと暗くなる前には帰るんだぞ、とむしろ優しげに言っただけだった。
どうやら感じからして、神かくし事件のことはまだ知らないようだ。
それで安心して、
「はーい」
と、答えたまではよかったのだけど、そのときぼくはお父さんが、じっと何かを見ていることに気が付いた——グローブから覗いている、金魚鉢だ。
しまった。
つい油断して、グローブから注意を逸らしてしまっていたようだ。
一体どう言いわけすればいいんだろうか?
いっそルキンに相談したかったけれど、あいにく今は、どこかへ消えているようだった。
例のかすかな感触で、それがわかっていた。
結局何も思い付かなかったぼくは、行ってきまーす、とだけ言うと、慌てて玄関を降りながら白いエアフォース・ワンにつま先を突っ込んで、最後までちゃんと履くために、かかとをダンダンとたたきに打ちつけてから、玄関を飛び出した。
絶対に金魚鉢のことを訊かれると思ったのだけど、意外なことにお父さんは、特には何も言わなかった。
ぼくの聴覚が確かならば、気を付けていってらっしゃい、とさっき以上に、優しげに言ったほどだ。
多分ぼくが気にしていたから焦っただけで、お父さんからすれば、特に気にするほどのことでもなかったに違いない。
きっと途中の用水路で、メダカかなんかを捕るとでも思ったのだろう。
とそれはともかく、そうしてぼくは、グローブを挿したバットを肩にかけて、とりあえずまずは記憶を頼りに、まだまだ明るさを保っている区の道を、てくてくと歩き始めた。
愛車のジョーズ号に乗れないのはけっこう痛かったけれど、それはさておき、そうやって歩き続けているうちに、ルキンが突然しゃべりだしたことに、うわああっと時間差であらためて驚いて、なんだか無性にうれしくなった。
みかんを助けに向かっているという事実に、たまらなく興奮し始めた。
冒険だ、とぼくは思った。
これはあの、トム・ソーヤとハックルベリー・フィンの二人が泣いてうらやましがるほどの、大冒険なんだ!
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