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「ねえミズくん。ルキンちゃん、お外には出られないのかな?」

 ぼくらが琉金——ルキンを『出す』ことを初めて試してみたのは、小学校に上がってまもなく、みかんによって提案された、その疑問によってだった。

 日曜日の昼下がりだったその日、ぼくらは、ぼくのまぶたの裏っかわからルキンを外に出すべく、ぼくの部屋に集合していた。

 一体なぜ『集合』だったかと言うと、みかんとぼく以外に、『もうひとり』いたからだ。

 それはぼくらより三つ歳下で、当時三歳だった、みかんの妹の、わふなちゃんだった。

 みかんは秘密をばらしてしまい、バツが悪かったのだろうか。

 いつの間にかできていた二の腕のアザを、半袖ブラウスの袖で何度も隠しながら、しどろもどろになって釈明した。

「……あのね、わたしが寝言で、ルキンちゃんって言っちゃって。ルキンちゃんって誰? ってわふに訊かれて、ひみつって言ったんだけど、わふがどうしても知りたがって……」

 ルキンに興味を持つなんて、やっぱり姉妹きょうだいなんだなって思いながら、ぼくはみかんの言葉を聞いていた。

「でも、ダメだよね。すぐにわふ、連れて帰るから……」

 泣きそうな顔でそう言ったみかんに、

「大丈夫だよ」

 と、ぼくはみかんの口癖を真似て言いながら、みかんとまったくおんなじ泣きそうな表情で、まるくて透明な容器を抱きかかえている、わふなちゃんを見た。

 そしてそのときにはもう死んでしまっていた、いつかのみかんのおじさんの真似をして、天使の輪っかができているその黒いおかっぱ頭に、ぽんと手のひらを乗せた。

「だってわふちゃんは、秘密を守れるもんねー?」

 パッとわふなちゃんの顔が明るくなった。

「うん、まもれるよ!」

 ぼくは頷いて、わふなちゃんの頭から手をのけると、両膝に手をついて、わふなちゃんの前にかがみ込んだ。

「それでわふちゃん、その容れものは、何……?」

「でてきたルキンちゃんをいれるんだよ!」

「……なるほど。わふちゃんは、天才だったか」

 感心してぼくが言うと、わふなちゃんの顔が、いっそう明るくなった。

 みかんもすっかり、いつもの笑顔に戻っていた。

 そうしてぼくら三人は、わふなちゃんが持ってきた金魚鉢を囲みながら、ルキンを出そうと試し始めた。

 ぼくの頭を、みかんとわふなちゃんが振ったり叩いたり、頭やお腹に向かって、ルキンの名前を、呼びかけたりして。

 けれども正直、ぼくは、不可能だと思っていた。

 そもそも、一体どこから出てくるというのか。

 口から出てくるというのなら、ルキンはお腹の中にいることになる。

 それじゃあただ魚を食べているのと変わらないし、それ以前に、お腹の中にいるような感じが、どうしてもしなかったからだ。

 だったら、眼から出てくるのだろうか?

 でも、もしもそうだとしたら、まず先に、眼が飛び出さないといけないことになる。

 そんなことなんてありえないし、というかあってなんかほしくないし、想像しただけでもゾッとする。

 なんてことをあれこれと考えながら、みかんとわふなちゃんに体をいじられているうちに、ぼくのルキンへの興味は、急速に薄れていった。

 やっぱりルキンの存在は、気のせいなのかもしれない、と思って。

 ぼくだけに見える幻なのかもしれない、と思って。

 けれどもみかんとわふなちゃんは、真剣そのものだった。

 ルキンを実際に見たいということもあったようだけど、ぼくのこの話に、興味を持ったからだ。

 ルキンがときどき、どこかへ消えるという話に。

 その、ルキンが消えるときと再び現れるとき、ほんのかすかとは言え、確かな『感触』をぼくが覚えるという話に。

「ルキンちゃん、どこに消えるの?」

「わかんない」

 みかんが尋ね、ぼくが答える。

「そのときの感触って、どんななの?」

「のうみそをつままれて、ひっぱられて、パッと放されるような感じ?」

「それってさ、やっぱり物理的に、いるってことじゃないのかな」

「ねえねえ、ぶつりてきってなあに?」

「んーとね、ケーキがテレビの中じゃなくて、目の前にあることだよ」

 学者さんだったおじさんに影響されてか、理科好きのみかんが、物理的、なーんてませた言葉を使い、知りたがり屋のわふなちゃんが率直にぼくらに尋ね、国語好きのぼくが、たとえ話で説明する。

「だってさ、もしもルキンちゃんが幻覚だったら、感触なんてしないと思うんだけど」

「ねえねえ、げんかくってなあに?」

「んーとね、ほこりがわたあめに、見えることだよ」

 けれども当然というか、ルキンが出てくることはなく、その日は終わった。

 けれどもこれも当然というか、みかんとわふなちゃんの、ルキンに対しての興味が、尽きることはなかった。

 そのおかげでか、ルキンに対するぼくの興味も継続し、ぼくはルキンを、本当にいる存在としてみるだけでなく、いつからか、『仲間』として扱うようになっていた。

 たくさんの家庭にありがちな、靴棚の上の、半分忘れられた、金魚やグッピーのようにではなく。

 いつも誰かに気にかけられている、言うならば、『家族』の一員として。

 ぼくはまぶたの裏っかわに、黒い琉金を飼っている。

 そのあと何年かかけて、ぼくら三人の結束は、ルキンを通して、より固いものになっていった。

 休みのたんびに三人で集まっては、ひとつのこと——ルキンを出すことに熱中したり、そのための方法を見つけることを目的として、冬はみんなで、水棲生物の図鑑を読んだり、水棲生物の出てくる動画を観たり、ルキンを絵に描いてみたり。

 そして夏は、田んぼや用水路に行ったり、水族館に行ったり、やっぱりルキンを絵に描いてみたりして、日々を過ごした。

 ちなみに、ぼくが一番好きな水棲生物はサメで、中でもブラック・デーモンという異名を持っている、伝説のメガロドンが大好きだ。

 メガロドンというのは、ずっと昔に実在していた、他のどんなサメよりもずっと大きい、あの映画『JAWS』の主役である、ホオジロザメと見た目がそっくりな、灰色と白の巨大ザメだ。

 そのメガロドンがなんと、現代の地球の海にもいるのでは? と、いつからかささやかれるようになっていて、しかもその全長は、普通のメガロドンよりももっともっと大きくて、おまけに身体の上半分が、灰色ではなくて、真っ黒だともっぱらの噂なのが、ブラック・デーモンというわけだ。

 ちなみのちなみに、わふなちゃんが一番好きな水棲生物は、リバイアサンという名前の、これこそ完全に伝説の、海蛇のような身体をした最強の大海獣で、そしてみかんが一番好きなのは、どういうわけか貝だった。

 貝? とついぼくが尋ねて、だって大丈夫そうじゃない? とみかんがわかるような、わからないような答えを返してきたことを、妙にはっきりと覚えている。

 ただ、みかんとぼくが五年生になった頃から、三人で遊ぶことは、だんだんと減っていった。

 女子と男子が遊ぶことは、普通じゃないということを、なんとなく知り始めたからだった。

 とは言えそれは、どうやらぼくだけっぽかったし、それまで育んできた結束自体が弱まることは、なかったと思うのだけど。

 ぼくはまぶたの裏っかわに、黒い琉金を飼っている。

 今ではもう、それが人とは違う、奇妙なことだと知ってはいるのだけど、ぼくにとっては、かけがえのないことだ。

 と同時に、ごくごく自然なことでもある。

 それはたとえば、視界にいつだって映っている、鼻の先っぽでもあるかのような。

 ぼくはまぶたの裏っかわに、黒い琉金を飼っている。

 そうしてみかんとぼくは、小学六年生になった。

 ちなみに、わふなちゃんは三年生。

 みかんが虐待を受けているのではないかという噂を耳にしたのは、そのあと、七月に入ってからのことだった。

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