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その次の日の、幼稚園での、自由あそび時間のときだった。
ぼくはお父さんの言いつけを早くも破り、隣りに住んでいる、幼なじみの
お父さんは気のせいだと言ったけれど、ぼくにとって当たり前なことは、みんなにとっても、そうだと疑っていなかったからだ。
にもかかわらず、みかんは不思議そうな顔をして、何も言わなかった。
そこでもう一度ぼくは尋ねた。
「いないの? おさかな」
「しましまとか、ぐるぐるのこと? かいがらみたいな」
よくわからなかったけれど、みかんが言っているのは、まぶたを透けて見える光や、血管の影のことだろうと感覚的にぼくは思った。
「……そういうんじゃないよ」
不安になったぼくは、ほかの園児にも尋ねてみた。
でも、誰もがいないと言うか、不思議そうな顔をするだけだった。
そうしてぼくは、ぼくだけが、まぶたの裏っかわに琉金を飼っていることを知って、ショックを受けた。
それからのぼくは、お父さんの言いつけを、きちんと守るようになった。
予想外のことが起こったのは、その何日かあとの、自由あそび時間でのときだった。
みかんが突如、ぼくにこう尋ねてきたのだ。
「ねえミズくん。ミズくんの、あたまのなかのおさかなは、なにいろなの?」
ぼくはなんだか、『バツ』が悪かったけれど、興味を持たれたことがうれしくて、訊かれるがままに答えていた。
「まっくろだよ」
「どんなかたちなの?」
「おめめがでてて、しっぽがながいよ」
「『でめきん』なんだね?」ニカッと笑いながらみかんが言った。「でも、おみずがないのに、いきてるの?」
そんなことを考えたこともなかったぼくは、不安になりながら答えた。「……たぶん。およいでるから」
「ごはんは、なにをたべてるの?」
一番心配していたことを訊かれて、ぼくの不安は、一気に頂点に達した。
「……なんにも、たべてないよ」
「なんにも?」
「なんにも……」涙目になってぼくは訴えた。「ねえみかんちゃん、おさかな、しんだらどうしよう……?」
「だいじょうぶだよ。わたしがごはん、もってくから」
みかんは、水色の制服の腰元を、両手でつかみながら胸を張った。
ちなみに、大丈夫だよ、は、その頃からの、みかんの口癖だ。
「ほんとうに?」一瞬喜んだものの、すぐ不安に返りながらぼくは尋ねた。「でも、どうやってあげるの……?」
「えっと、えっと……」
今度は、みかんが涙目になる番だった。
気が付けばぼくらは、その場にべったりとしゃがみ込み、合唱でもするかのように、わんわんと泣き始めていた。
結局、琉金に餌をあげる方法はわからなかったけれど、それがきっかけになって、まぶたの裏の琉金は、ぼくとみかんの、共通の秘密になった。
琉金の体調を心配したみかんが、次の日からぼくの家まで、毎日訪ねてくるようになったからだ。
「どう? ルキンちゃん」
「まだ、へいきみたい」
『ルキン』とは、みかんの言い間違いから付けられた、琉金の名前のことだ。
「よかった——ねえこれ、おこづかいでかってきたんだけど。ルキンちゃんの、ごはん」
みかんの手には、『金魚まっしぐら』と書かれた、短い筒状の、プラスチックケースが握られていた。
「わー、ありがとう……。でも、あげかたがわからないよ……?」
ぼくの嫌な予感を、射抜くようにみかんが言った。
「ミズくんがたべるんだよ?」
「どうして、ぼくが……?」
「ルキンちゃんを、しなせないためにだよ」
「……こうかあるのかな、ぼくがたべて」
「きっとあるよ」
「でも……」
「だいじょうぶだよ。みっつのぜんだまきんと、クロレラがはいってるから」
「それって、おさかなにいいものでしょ……?」
「だいじょうぶだよ」と、得意げにみかんは繰り返した。「だってにんげんってね、おさかなから『しんか』したんだから。パパがいってたもん。だからおさかなにいいのは、にんげんにもいいんだよ?」
『パパ』の話が出たら、もう断るわけにはいかない。
みかんは学者さんであるお父さん《おじさん》を、誰よりも尊敬していたからだ。
でも、それはぼくもおんなじだった。
なぜならみかんのおじさんは、量子テレポーテーションの原理を応用して、たとえば月にいる人とでも、たったの〇・一秒のズレもなく通話ができる、ものすごい電話を発明した人だったし、いっつもかけていた、銀縁の丸メガネも妙にかっこよかったし、その奥にたたずんでいる、灰色っぽい瞳も普通にかっこよかったし、何よりもぼくに会うたんびに、優しい笑顔で『おいでおいで』をすると、口元に人さし指を立てながら、こっそりとおこづかいをくれて、頭に手をぽんとおいてくれていたからだ。
「ごめんね、パパのはなしなんてして……」
みかんのおじさんと、ぼくの死んだお母さんは知り合いだったらしいから、おじさんの話をしたら、ぼくがお母さんのことを思い出してしまうんじゃないのかと、みかんなりに気遣ってくれたのだろう。
「なんともないよ」
ぼくは本心からそう答えた。
お母さんがいなくて当たり前だったぼくには、お母さんがいなくてかわいそうだという感覚が、わからなかったからだ。
実はお母さんが、みかんのおじさんとおんなじ学者さんだったということは、今ではぼくも知っていて、髪が長くて彫りの深いお母さんの顔も、仏だんやタンスの上に飾ってある写真でよく知ってはいるのだけれど、死んでしまったのは、ぼくがまだたった三歳のときだったから、はじめからいないという感覚の方が、ずっと強いのだ。
だから一度なんて、よく知らないおばさんから、かわいそうに、お前の母親は頭がおかしくなって、自分から死んでしまったのよ、と衝撃の事実を伝えられたときにも、そんなにショックを受けなかったというわけだ。
そういう意味では、ルキンに餌をあげようとしたそのときから、約一年後の六歳のときに、おじさんが研究のしすぎで死んでしまったみかんの方が、ずっとかわいそうだと思う。
お葬式のときに、だいじょうぶだよ、パパはここにいるから、と、自分の頭を指さしてみかんは言っていたけれど、辛くなかったはずもない。
ちなみに、これもあとで知ったことだけれど、みかんのおじさんは喉の病気で、うまくしゃべることができない体質だったそうだ。
どうしてもしゃべらなければいけないときには、喉に当てた特殊な機械で、喉の動きを読み取らせた、人工音声での発声をしていたということだ。
だからぼくに会うたんびに、声をかけるのではなく、おいでおいでをしていたというわけだ。
と、それはともかく、そのとき、単純に金魚まっしぐらを食べたくなくて困っているぼくに、あー、ミズトくん、ひとりでたべたくないんでしょー? でも、だいじょうぶだよ、と、あっけらかんとみかんは続けた。
「わたしもいっしょに、たべてあげるから」
結局、みかんのその一言が決定打になって、その日から毎日、ぼくらはひとつまみずつ、金魚まっしぐらをこっそりと食べる——というか、『飲む』ことになったのだった。
ぼく越しに餌を与えることに効果があるのなら、ぼくが普段食べている、ご飯やお菓子で十二分に間に合っているのでは? という驚愕の真実に、たどり付くその日まで。
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