[0-2]呪い竜、終焉のはじまり


 湖畔から吹く冷涼な風が路地に溜まった落ち葉をかき混ぜ、駆け抜けてゆく。蒸せ返るような夏の空気がようやく過ぎ去り、朝晩に秋の気配を感じるようになった九月の終わり。道ゆく人々の服装は面白いほどにバラバラだ。

 さほど鍛えていない両腕に重く掛かる荷物を抱え直し、私は足を止めて息を整える。

 読書に執筆というインドアな趣味に加えて、四十路を過ぎたこの身体では、ちょっとした徒歩移動でも息があがってしまうのだ。しかも腕には大きめの堅表紙書物ハードカバーが何冊か。これが、結構重い。


「あの子が言うように、ちゃんと運動すべきかな」


 言い訳のように口にしてみるも、そういう自分を想像できないほど生粋の運動嫌いである自覚もある。まぁ、涼しい朝に庭の草むしりをすることから始めてみてもいいか。

 汗ばむ首筋に伸び切った襟足が貼りつくのを鬱陶うっとうしく思いつつ、一休みを終えて残りの道程を歩き始めた――そのときだ。


 ドォン、としか表現しようのない、腹の底を揺さぶるような音が響いた。


 え、という声が喉からこぼれる。見たことのない、意味すらつかめない非日常が視界を侵食してゆく。物語であれば幾らでも描写が思い浮かぶのに、現実として面すれば人は語彙ごいを失うものらしい。

 雲一つなかったはずの青空が白い閃光に切り裂かれた。地面が不気味に揺れ、黒いかたまりが建物を崩しながら立ちあがる。今までの生活では全く縁のなかった、それでも知識としては知っているが、次々と地面から生じて肥大化し、暴れているのだ。


 人の悲鳴、叫び声、その中ではっきり響く快活な声。

 軍人たちが街の人々を招き、誘導していた。目をらして見れば、そびえ立つ国立図書館の辺りを境にして半透明の障壁が広がっている。あの内側はおそらく安全地帯なのだろう――何が起きているのかは、今もわからないが。

 四十路過ぎの運動不足な身体でも、走れば数分でたどり着けるだろう距離。しかし避難エリアの境界がそこだとしたら、私はまだ駆け込むわけにいかなかった。


 抱えていた書物を放り投げ、走り出す。

 この街に明るくない、少し方向音痴のあの子が、ひとりで逃げられるはずない。一刻も早く帰って、あの子を連れて避難しないと。


 慌てふためく人々に押し流されないよう道の端を走りながらも、私の目はつい空へと吸い寄せられる。民家の屋根より大きなばけものたちが大きな頭を振り、建物を次々と破壊していた。

 一見すれば腐りかけの巨大な直立竜。うつろな眼とドロっとした体表はドラゴンゾンビとでも名付けたくなる醜悪さだが、奴らはれっきとした兵器だ。国を捨てた者たちが莫大な資金と材料を捧げて作りあげたという、破城特化ののろりゅうである。

 それが現れたということは、誰かが我が国に戦争を仕掛けてきた――ということ、のはずなのだけれど。


 何かがおかしい。

 政治を知らない私でも、戦争の仕方システムや呪い竜の習性は知っている。奴らは兵器であり、破城に特化しており、知能や本能は備わっていないのだ。呪い竜が民家や住民を襲うなど、神が定めた規約ルール上ではあり得ない。

 しかし肌に感じるのは紛れもなく殺意。私のような運動音痴の一般人が奴らの目に留まったら、間違いなく叩き潰されるか踏み潰される。そんなはずあるかと心で呟きつつも、頭は不思議とこの現実を受け入れつつある。


 息も絶え絶えになって自宅である古書店へ辿り着いた頃には、往来から人の姿は消え失せていた。呪い竜が現れたのは中央市場の近くだったので、郊外にあたるこの辺にまだ破壊の手は届いていないのだろうが、きっとそれも時間の問題だ。

 ドアのハンドルにすがりつき、押し開ける。場違いに涼やかなドアチャイムの音に合わせ、愛らしい声が飛んでくる。


「おかえりですにゃ。こーにゃん、早かったのですにゃん?」


 舌っ足らずな子供のように幼なげで甘やかな声。情けないことに声も出せず、ドアにすがってぜいぜいと息を整える私を、とてとてとやってきたが心配そうに覗き込んできた。

 ふわふわした真っ白な毛皮に銀灰の花模様。もったり太くしなやかな尻尾と、キラキラ光るブルーの両目。背中に翡翠かわせみ色の翼を生やし、両前脚で大きなクジラのぬいぐるみを抱えた雪豹ゆきひょうキメラ、名前はイーシィ。私にとって掛け替えのない家族だ。この子を連れず一人で逃げられるものか。


「……ごめ、……大丈夫、だ。しぃにゃん、大変なことが起こってる、急いで、大聖堂へ……っ」

「はい、ですにゃ?」


 彼女が不思議そうに首を傾げるのも無理はない。何せこの街は長く戦争と無縁だったし、郊外にあるこの古書店には訪れる客も少なかったのだ。私自身もまだ理解できていない突然の非常事態を、すぐ把握はあくしろというのは無茶振りだろう。

 しかしゆっくり説明している時間などなく、命がかかっている。荒い息のまま手を伸べた私に何か聞き返すこともせず、イーシィはクジラを抱えたまますんなり私の胸におさまってくれた。

 店を後にし、安全地帯を目指して走り出した私の背後で、再び不気味な地鳴りが響く。私の肩に前脚を掛けて肩越しに後ろを見ていたイーシィが、びくっと震えて息を飲んだ。


「こーにゃん、あれ……呪い竜ですにゃ。戦争でも起きたのですにゃん?」




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