第2章 カイホードーム

 カイホードームは第八地区の中心に位置している。

 数千人は収容できようかという巨大な立方体。そこに、半球型の屋根が鎮座している。

 ローレンス氏はドームの正面に立った。

 ドームの、向かって左側は大きくえぐれている。そこを直撃した砲弾の形や大きさが一目瞭然だ。崩れた箇所から鉄骨が幾筋も飛び出していて、ひどく生々しい。

 もとは真っ白な壁だったのだろうが、ところどころ煤のようなものがこびりついている。ローレンス氏はゆっくり近寄り、いくつかの汚れを払い落とした。

 周辺は整地されていて、植えられたらしい芝が砂地を覆いつつある。

 ローレンス氏のすぐそばを、子どもが駆けて行った。

 ドームの内側には、何人かの人影が見える。

 このドームはどうやら公園として整備され始めているらしい。同時に記念碑的存在として、戦地巡礼の呼び水となっているようだ。公園の脇には、いかにも土産物屋めいた露店も立ち並んでいる。

 これもまた、経済再生のかたちだろう。


 ローレンス氏は露店へ足を向ける。アクセサリー、菓子、服。それらの店が雑然と並ぶ中に、酒を売り出している屋台があった。

「何がいいの?」

 無愛想な女がローレンス氏に尋ねた。秋も終わりに差し掛かっているというのに、女はキャミソールを着ただけで、大胆に肌を見せている。

 ローレンス氏はウイスキーを注文する。

 一目で安酒と分かる色のウイスキーを女はグラスに注ぎ、コインと交換に差し出した。店の奥では、水を張った瓶にいくつかのグラスが浮かんでいる。衛生面に多少の不安が残る。まさか水をくぐらせただけのグラスを使っているわけではあるまい。

 ウイスキーをちびちびなめて暖をとるローレンス氏を尻目に、女は煙草に火をつけた。

「ここに一人で何しに来たの?」

「観光だ」

 ローレンス氏の返答に女は吹き出し、煙を一面に散らした。

「もっとましな嘘をつけばいいのに」

「どうして嘘だと?」

「わざわざ相場の二倍支払って、汚いグラスで安酒を呑みたがるやつがいる?」

 言いながら女はローレンス氏のグラスを指さしてみせる。なんともしたたかだ。

 ローレンス氏はウイスキーをまた一口なめる。そして短く「巡礼だ」と言った。

「巡礼ね。てことは、軍にいたの?」

「そんなところだ」

「兵隊さんは大変な経験をしたって聞くわ。怪しい薬も出回ってたとか、ほぼ全員が心に傷を負ったとか」

 女はかぶりを振った。

「哀しいわね。あなたも戦地を巡って、散った仲間たちの弔いってわけ?」

 ローレンス氏は答えない。女は、少し言い過ぎたのかもしれないと悟ったようだ。

「気を悪くしたのならごめんね。あたしもあの大きな戦争が終わって、こうして故郷に戻ってきた身だから、人のこと言えないんだけどさ。失くしたものばかり追いかけても辛いだけだろうと思って」

「記録を残しているんだ」

「記録?」

「そう。大事なことを忘れないためにね。決して、失ったものを数えているわけじゃない」

「ふうん」

 女は分かったような分からないような反応を返した。

「つまり、それがあなたなりの前の向き方ってことね」

「そうだ」

「そう、それならいいの。でしゃばって悪かったわ」

「そんなことはない」

 女は煙草を地面でもみ消して、「それで」と言った。

「おかわりは?」

 やはりしたたかな女だ。

「遠慮しておく」

 ローレンス氏は空のグラスを返す。それからカイホードームの方を振り返った。

「ここからよく見えるな」

「いい場所でしょう? 大空襲のあった夜に、街中の人間を守り抜いた伝説のドーム。それを見ながら酒が呑めるのよ」

 戦争が終わる直前、この地区は空襲で壊滅的な被害を受けた。街の人間は全員このドームに逃げ込んだ。

「建物も森も燃やし尽くされた中で、死者ゼロよ。あのドームのおかげでね。すごいことだと思わない?」

 ローレンス氏はドームから目を離し、「そのとおりだ」と言った。


 女に別れを告げ、ローレンス氏は再び歩き始める。

 戦争からの「解放」、けが人の「介抱」、カイホードームの名称には様々ないわれがある。もとをたどっていくと、街の人間を抱きかかえるように守ったから「懐抱ドーム」なのだそうだ。

 ローレンス氏の前をネズミが横切り、彼ははたと足を止めた。

 ネズミと言えば、ニッパだ。

 幼い頃から貧しく、扉の破れた家に住んでいた彼の話し相手は、ネズミや野良猫たちだった。

 三人の拠点だった野営用のテントにも、小動物たちは遠慮なく入り込んで来る。そうしてニッパはネズミを見つけると、喉の奥からなんとも形容しがたい音を出す。ネズミなら「チューチュー」、猫なら「ニャーニャー」というのは、彼曰く見当外れらしい。

 彼の発する音を聞くと、ネズミたちは必ず立ち止まり、ニッパの方をじっと見つめたものだ。それは幼い頃からの鍛錬の賜物だったのだろう。他の人間がニッパの真似をしてみせたところで、ネズミたちはわき目もふらずに走り去っていくだけだった。

 回想は留まらずに広がっていく。

 軍では、一チームに一人の上司が割り当てられていて、三人の上司は「レンチ」と呼ばれる無口な男だった。ちなみに呼び名はその上司のくせ毛に由来している。いつも頭の両側の髪が跳ねていて、それがモンキーレンチに似ていたのだ。

 愛想もなく、上層部の命令を伝達するだけのロボットみたいな人間だった。ただ、大きな任務が終わると、ポケットマネーからいくらかの小遣いを三人に渡した。

 三人はその金で安酒を買い、塀に上っていたというわけだ。

「金が要るんだ」

 ニッパは酔うと、毎回そう言った。

 夕日を見ながら、顔を真っ赤にして、いつもの笑顔で。

「金が要るんだ。俺、動物病院を作りたいんだよ」

 たいてい、まきじゃくが茶々を入れる。免許は持っているのか、とか、それよりも人間様の病院が必要だ、とか。

 それに、ニッパもむきになって反論する。

「別に自分がドクターになりたいわけじゃないんだ。戦争が終わったら、稼いだ金を動物病院設立のために出資する。そうして、動物病院が建つ。想像してみろよ。その頃には、それだけ平和だってことなんだ。

 彼の言った「平和」は訪れようとしているのかもしれない。まだ時間がかかるにしても。

 ローレンス氏は最後にもう一度、ドームを振り返った。

 女の言葉が脳裏をよぎる。

 ——死者ゼロよ。あのドームのおかげでね。

 違う。

 それは表向きの情報だ。

 死者は出た。一人だけ。

 ニッパがここで命を落とした。

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