薔薇の栞

三夏ふみ

「そんなことはないわよ」

病室の祖母は、栞を受け取ると窓を見つめた。

「あの人は造園一筋、植物命だもの」

そう話す横顔は少女の様に頬を薄紅色うすべにいろに染め、それでいて息を飲むほど静かだった。

市ノ瀬美晴いちのせみはるは祖母の手元を見つめ、落ち着かない心を隠すように、話した数々を反芻した。だけど、たった一行、たった一言が美晴の心を縛る。

視線を感じ顔を上げると、祖母の優しい瞳と目が合う。姿勢を整え拳を握る。

「おばあちゃん。あのね、」



「へぇ。ロマンチストだね、美晴のおじいちゃん」

西条千夏さいじょうちなつは可愛らしい栞を見つめ、紙パックのストローに口を付けた。

「そうだと、思うんだけどさ」

歯切れの悪い返事に食いつくように身を乗り出す。

「なになに、なんか訳ありなわけ」

「いや、その、なんと言うか」

千夏なら、そう思って言いかけた時、千夏の視線が背後に外れる。

「あ、そうだ。そうだった。私、職員室に呼ばれてるんだった」

出来の悪い三文芝居に嫌な予感が首筋を走る。

「後で聞かせてよね」

「いや、まっ」

耳元で呟いて立ち去る千夏を慌てて目で追い後ろを振り向くと、高山健吾たかやまけんごが立っていた。

「市ノ瀬、今ちょっといいか?」

それだけ言い私の返事も聞かずに廊下に出る。

片瀬さんと話す泉君を横目で確認して廊下を見ると、ついてこいと言わんばかりの顔でこちらに向き直っている。いやいや席を立ち廊下に出る。程なくして教室から歓声に近い話し声が聞こえてくる。

あぁもう、なんでこうなちゃったのよ。

怒りに似たこの感情をどこにぶつければいいのか。ブレザー姿の大きな背中を蹴りたい衝動を抑えつつ、美晴はしぶしぶ高山の後に付いていった。



「おい。ずばる

真新しい校舎の廊下で、昴は声のする方を振り向いてすぐに前に向き直る。

「おい、待てって」

後を追う声。小走りに近寄ると横に並ぶ。

「まだ、なにか用?」

「釣れないこと言うなよ。相変わらずだな」

昴より頭ひとつ大きいその男は馴れ馴れしい口調で詰め襟の肩を抱き寄せる。迷惑なそうな顔と悪ふざけな顔が向かい合う。

「ちょっと直樹なおき、止めなさいよ。嫌がってるでしょ」

鈴の音に似た声が飛んできて、同時に顔が向き直ると、玲奈れなが仁王立ちで通路を塞いでいる。

「友達に声かけて何が悪いんだ」

「そうは見えないって言ってるの」

「へいへい」

「それに野球部の子達が探して居たわよ」

そう言われても昴から離れよとしない直樹の手を取り強引に引き剥がそうとするが、細腕ではびくともしない。それどころか反動で逆方向によろけて、上がる悲鳴。尻もちをついた玲奈の先で、同じく廊下に倒れて座る人影が、直樹はその人影に手を差し伸べると引き起こす。目が合うふたり。

「私には手を貸してくれないわけ」

不機嫌な声で立ち上がる玲奈。

「お前がぶつかったんだ、相手を助けるのは当然だろ」

そう言いじゃれ合うように離れてい行くふたり。菜月なつきと書かれたノートを拾った昴が手渡すと、引き起こされた女生徒は会釈して去っていく。

ひとり残され足元に視線を落とす。忘れられた破片。それを拾い上げるとじっと見つめ、そっと開いた本に挟みその場を立ち去る。



「おかしいな。確かここらへんで、」

「おい。もしかしてこれか?」

そう言って高山が目の前に差し出した栞を見て、美晴は目を丸くする。


確かここで見たんだよね。

祖母の部屋に忍び込むと本棚の背表紙とにらめっこする。

泉君が手にしていた本は図書室にも図書館にもなかった、だけど、ここで見た気がしたのだ。端から順に追っていく。

あった。

やはりあった、手に取り引き出す。ノートが一緒に引き出され落ちる。慌てて拾い上げると、一枚の紙切れがはらはらと舞う。


「ありが……」

受け取ろうとした手が引っ込み、困惑と抗議の顔を向ける。

「ちょっと頼みがあるんだ」

そう言って生徒手帳から取り出しのは、赤が鮮やかな栞。

高山の手の中で並ぶ二枚の同じ顔をした栞に、美晴は目をさらに丸くする。



「ほんとにセンスがないわね」

「うっせえなぁ」

直樹が悪態を付くと、机を挟んで座っていた菜月が席を立つ。

「いいのよ」

「そっちこそ、忘れるなよな。登山のこと」

にらみ合ったまま動かない。

「その、悪かったよ」

詫びる声で、席に座り直す。

栞を睨む直樹、節だった手を盗み見て、視線を上げると窓に目をやる。薄っすらと写る影、腕組しているその顔の輪郭をそっと目線でなぞる、一点を見つめるその黒い瞳は力強くでもどこか優しく輝いている。窓の外では、流れる風が落葉を運び夏を何処かへ追いやろうとしていた。

「おい、おいって。これはどうだ」

短冊には丁寧だが無骨な文字が並ぶ。

「20点」

「ええ、厳しすぎないか?」

「だって、最高の一言を書きたいんでしょ?」

隣の机には栞の山、それに加わる新しい失敗作。溜息を付きつつ、次の栞に向かう直樹。それを頬杖を付き、窓を見つめて待つ。いつまでも。



「で、どうだった」

「いや、それなんだけどね」

「約束は一週間だったはずだが」

「そうだなんだけどさ」

校舎の裏手、なぜここで私は責められているのか。泣きたくなるシュチュエーションをぐっと堪える。元はと言えば私の不注意だった、勝手に持ち出した栞、押し花が色鮮で手帳に挟んで持ってきたまでは良かった。気がつくと無くなっていた。慌てて探したが見つからず、諦めかけた時、高山が現れた。

睨むように腰に手をやりぶっきらぼうに突っ立つこの男には、ほとほと嫌気が指す。泉君とは大違いだ。

「仕方ないな。約束はなかったことに」

「ちょ、」

「約束は約束だ」

背を向ける高山に頭の血が上る。なんてやつ、そりゃ落とした私が悪いよ、だけどそれじゃぁ泥棒だ。

悪態を付くため口を開きかけたその時、かすかに私を呼ぶ声が聞こえてきて、間抜けに口を開けたままの格好で振り返る。

「おぉぉい、市ノ瀬。家から電話だ」

慌てた様子で小走りに掛けてくる担任の平井先生を見て、美晴の胸はざわつき出していた。



本から取り出した色鮮な栞、ひっくり返すと真っ白になる。ゆっくりと時が流れ落ちる部屋で、そっと本に挟み静かに閉じると右手を裏表紙に乗せ、机の端に置かれた手帳に目をやる。漏れる笑み。その表情は満ち足りている。



「すまなかったな」

学生服の美晴が黒と白の垂れ幕の前で大粒の涙を流す。無言でハンカチを差し出す高山。

そんなことはお構いなしに美晴は続ける。

「だって聞けるわけないじゃない。どうして高山君のおじいさんがおばあちゃんと同じ栞を持ってるのって、どうしておばあちゃんが大切にしてる栞を持ってるのって。だって話してくれたんだもん、おじいちゃんがくれた栞の話。クッキー缶にいっぱいあった、いっぱいあったの。失敗作なんだよって、楽しそうに話してた。なのに聞けるわけない、なら、この栞は何って、そんなの……」

大粒の涙は止まらない。


祖母が最後に見せてくれたのは、クッキー缶いっぱいの栞だった。

「これはね。おじちゃんが私宛に書いてくれたラブレターなのよ。私の目の前でね。他のクラスメイト宛だって言って頼んで来たけど、すぐ分かったわ。だってあの人、嘘が下手だから」

その栞にはありとあらゆる愛の言葉が綴られていて、そして全てにバツが書かれていた。

「全部、失敗作だけどね」

笑う祖母は本当に嬉しそうで、両手いっぱいに持った栞はまるで、薔薇の花束のようだった。


美晴は聞けなかったのだ、あの日高山に頼まれたことを、高山の祖父が大切にしていた本に挟まっていた栞のことを、偶然拾った美晴の栞と同じ栞の正体を。

泣きじゃくる美晴を前に、立ち尽くすことしか高山には出来なかった。



「やっぱりロマンチストじゃない、美晴のおじいちゃんって」

千夏は栞片手に紙パックのジュースに口を付けた。

「……うん」

机にうつ伏せて窓を見る美晴。空は爽快に晴れている。

「やぁ。今いいかな?」

春風の声にすぐさま顔を上げると、泉君が立っている。

「これ、市ノ瀬さんの本でしょ。健吾のやつに返しておいてくれって頼まれて、市ノ瀬さんも読んだの?」

手渡された本をじっと見つめる。

「あ、ごめんね。凄くいいよねこの本。健吾から教えてもらってさ、あいつも好きでよく読んでたけど、寂しくなるよね」

顔を上げ、陽だまりの笑顔に疑問符を投げかける。

「あれ?聞いてない。健吾、転校するんだ。今日しゅっぱつ」

立ち上がる美晴。

「千夏。あとよろしく」

そうとだけ言い、本を持ったまま勢いよく教室を飛び出す。

「面白いよね、市ノ瀬さんって」

「まぁね、見てて飽きないよ。そうだ、泉君ひとついい?健吾君って今日どこから出発するか教えてくれる?」

残されたふたつの声が笑う。


駅のホームで電車をひとりで待つ。

平日のホームは閑散としていて、何でもないのに物悲しく感じてしまう。

階段下からそれを打ち破る騒々し気配が近づいて来る。やがて見えてきた黒い頭。息を切らして姿を表す美晴。

「ちょ、ちょっと、まってね」

健吾の目の前まで来ると膝に手を付き呼吸を整える。

「俺、おじいちゃん子なんだ」

それを見ながら健吾が口を開く。

「確かめたかっただけなんだ、じいさんの書斎で手帳を見つけて、悪いかなとは思ったけど」

淡々と静かな音に耳を傾け息を整える。

「ただ知りたかっただけなんだ、じいさんが手を貸した直樹さんと菜月さん。ふたりがその後どつだったかを」

見つめる黒い瞳は真直に美晴へと向けられている。

「悪かったな」

「私、泉君に告白する。それだけ言いたくて」

快速電車が通り過ぎて行く。

「それ、やるよ。いや、市ノ瀬に持っててほしいんだ」

美晴が差し出した本は受け取らず電車に乗り込む。

「じゃあ」

「うん、じゃあね」

閉まる扉、ゆっくりと直樹がスライドして電車が遠ざかって消えていく。

手元に残された本の隙間から赤いリボンが覗いているのに気がつく。そっと開くと栞が挟まっている。手に取り裏返すと『またな』と無骨な文字が並ぶ。

消えていった線路の先を見つめ、美晴は小さく笑った。

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薔薇の栞 三夏ふみ @BUNZI

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