第6話 フィレンス・アールハバート公爵

 聖女が朝一番にする仕事は祈祷です。


 正装に着替えて、教会にある礼拝堂にて祈りを捧げます。


「……神よ。愛し子である民をお導きください」


 聖女になった私には神様との繋がりがあり、高位の精神体だけが到達できるとされる真理の世界に行くことができます。


 意識の中の世界。私は祠に向かって祈ります。


 祠には私などでは到底計り知れないナニカがいました。神官たちが言うには、それが神なる存在だそうです。


 魂までもを浄化するような清らかな水に浸されながら、私に満ちる魔力が吸い取られていくのを感じます。体を透過して、脆い核である心から淡い光が漏れだしていくのが私の目に見えました。


「——祈りは終わりました」

「三時間も微動だにせず……とんでもない集中力だな。僕には到底真似できないよ」


 ―たった十数秒に感じる時間でも、意識が体に戻れば何時間も経過していることが多々あるそうです。当然、体は無意識の中でも疲労を感じています。私の額には玉の汗が浮かんでいました。


「ルシアナ!」

「眩暈がしただけです。……なるほど、これが聖女の日課ですか。覚悟はしていましたが、厳しいものですね」


 私は地面にへたり込みながら震える声で言います。足から指の末端にかけて肌が冷たく白んでいるのがわかります。


「僕から神官に告げておこう。今日はゆっくり休んでくれ」

「そうはいきません。聖女とは人々の希望であらねばならないのです」


 少なくとも、私が知っている聖女は誰一人、弱みを見せませんでした。強くて、優しくて、気高い。それが【聖女】なのです。


「お手を」

「ありがとうございます」


 私はハルの手を借りて立つと、礼拝堂を出ました。次は大聖堂での祈りが待っています。


「今ここにはルシアナと僕しかいない。せめてここでだけは外面を気にせず休んでいい」

「お気遣いありがとうございます。では、しばしの間だけ」


 今だけはお兄様の優しさに甘えさせて貰います。


 —未熟で弱い私を見せられるのは、この先もずっと夫であるハルだけですね。



◇◇◇



「見事ですな。聖女様」


 大聖堂で祈りを行った私をキュエス大神官が労います。


「……ありがとうございます。キュエス大神官様、今日のご予定は?」


 私はキュエスに悟られぬよう静かに息を整え、苦悶の表情をひた隠しします。昔から顔に出さぬのは得意ですので、キュエスの目にはきっと表情のない私が映っていることでしょう。


「今日は聖女就任の祝いに貴族様が訪れておりまする。一度に全員はお通しできないと思いましたので、勝手ながら順番を決めさせてもらいました」


 聖女の存在は政治的にも大きいです。いつの時代にも聖女は国家がなにか政治を行う際の理由にされてきました。


 特に今は王の力が陰りが見え始め、宮中が穏やかではありません。


 王がどうこうというよりかは、貴族の力が増していると言うべきですね。王の地位を脅かす貴族の派閥が戦争などによって強大化しているらしいのです。


「今日は誰がお見えになるのでしょう」

「フィレンス・アールハバード公爵様です」


 やはりフィレンス公爵ですか……あの方は貴族の中でも特に大きな力を持っていて、王の暗殺をもくろんでいるのではないかと噂されている人物です。


 なんでも当代のイネス国王、ウーデルド・エス・レドモンドとは熾烈な政争をしているのだとか。


 今の宮中では王派、公爵派に勢力が二分されており、ウーデルド王がフィレンス公爵を処刑できるのか、それを内部工作で阻止し、フィレンス様が王を暗殺できるのかで勝者が決まるとされております。


「わかりました。フィレンス公爵をお通しください」


 私はキュエスにそう命じます。


「直ちに」


 キュエスを筆頭に控える神官たちは私に一礼をして大聖堂を出て行きます。

 おそらくはフィレンンス公爵をここに連れてこられるのでしょう。権力があると言っても公爵は聖女よりも低い地位にありますからあちらから出向くのが自然な礼儀です。


「……本当は断るべきなのでしょうね」


 しかし、例え私が断ってもキュエスらが強引に事を進めてくるのは明白です。なにせ神官は金に貪欲ですから。きっと今日面会する貴族にフィレンス公爵を選んだのも、裏で取引があったに違いありません。

 

「困りましたね……政治に関しては不干渉を貫きたかったのですが……」


 どうやらそうは言っていられない状況のようですね。


 しばらくすると、コツコツと厚底の革靴が床の大理石を踏み鳴らす音が聞こえてきました。


「お初にお目に掛かります。聖女様」

「これはフィレンス公爵。ご機嫌よう」


 色白で大柄な男が表面上は友好的な笑みを浮かべて私に挨拶してきました。


 武人のような背丈ですが、見た目は官僚寄りです。骨が浮き出すようなほど肉付きが悪く、黒いマントを羽織っている姿は蝙蝠を連想させます。目元には隈が深く彫り込まれており、目の奥にはただならぬ底を感じさせます。


「……んん、叶うのであれば、就任初日にお目通りをしたかったのですが、なにぶん叶わず申し訳ありません」


 フィレンス公爵は口元を緩ませますが、目は全く笑っていません。


「……ふむ。それにしてもお若いですな。貴方が聖女でなければ、そして未婚であれば、息子の婚約者にでも、と思うほどです。いや、私も貴方の美しさに惹きつけられてしまったよ」

「っ、お褒めに預かり光栄ですが、手を放して貰えませんか?」


 この人……気味が悪い。


 フィレンス公爵に手を掴まれ、顎を引かれた私は恐怖に慄きます。フィレンス公爵は私の顔をじっくりと舐めるように見てきました。


「はて……その美しい金髪……どこかで。…フフハハハハ! ああ、そうか……君か」

「私をご存じなのでしょうか?」


 私は虫の羽音みたいに不快な笑い声をあげるフィレンス公爵に訊ねました。


 コルセーヌ伯爵家とアールハバート公爵家に確執があるのかは知りませんが、私自身はフィレンス公爵に一度も会ったことはないのです。華を嫌うフィレンス公爵様が舞踏会など表だった交流の場に直接いらっしゃった憶えはありませんでした。


 ですが、私もこの嫌な目つきは記憶にあります。


「いやなに。黄金と称されるルシアナ様は我が家が懇意にしているルジオール伯爵家の次男と婚約をしていると聞き及びまして」

「……過去の話です。今は別の方と結婚しました。その話はもう忘れてください」


 私はフィレンス公爵を睨みつけると、その手を払いのけました。


 ルジオール伯爵家の次男……レイサム・ルジオール。思い出すだけで、吐き気がする名前です。


「しかし、なにゆえ平民と結婚なされたのですか?」

「神のお告げに文句があるのでしたら、どうぞなんなりと仰ってください」


 私がそう言うと、フィレンス公爵はおどけた口調で私を挑発する。

 

「なるほど、それはお可哀想に。好いてもいない相手との……しかも近親での結婚ですか。誰も、生まれてくる子供ですら幸せになりそうにないですね。これなら政略結婚の方がマシだったのではないのですか?」

「っ! 口を噤みなさい!」


 ―パシン!


 気づけば私はフィレンス公爵を平手打ちしてました。フィレンス公爵は赤く腫れた頬を面白そうに摩る。


「……これはこれは。神の裁きでしょうか」

「私からの抗議です。二度は言いません。この場から立ち去りなさい」


 聖女らしく厳格な態度で私が退出を命じると、フィレンス公爵は「では、またお会いしましょう」と言って優雅な足取りで大聖堂を後にした。

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