午前二時の足音

 肌寒い初夏の夜、慌ただしい足音を聞いて目が覚めた。

 何かが障子戸を走り回っている。まるでそこだけ重力の向きを違えたかのように、廊下に面した引き戸を何者かが駆け回る。踏まれる度に、しわ一つない障子紙がガサガサと音を立てた。怒り狂い追い立てるような、あるいは恐怖に引きつり逃げ惑うような、切迫した足音が仄暗い夜の底に響き渡る。そのうち障子紙を突き破りこちら側に来てしまうのではないかという恐怖で目が離せない。

 今夜は満月だ。月明かりに照らされた山々は真昼間と同じように山肌を晒し、庭の木々は地面に濃い影を落としているだろう。しかし、縁側から差しこむ月光は遮られることなく私の目に届いている。格子に整然と収まるまっ白な障子紙には影の一つも映らない。

 じぃっと目を凝らしても何も変わらず、そのうちぴたりと音が止む。虫の声ひとつ聞こえない静寂が帰ってきた。わたしはおそるおそる戸を開け、障子の裏側を覗いた。何もいない。ただいつもと変わらぬ引き戸と廊下が横たわっているだけだ。

 夢とうつつの狭間で呆けた頭が創った幻聴か、それとも、まだ夢の中にいるのだろうか。首筋に吹いたうすら寒い風から逃れるように、わたしは再び布団に横たわる。

 天井には、おびただしい数の黒がびっしりと張り付いていた。木目を覆うそれらはうごめき、朧気ながら人間を形作る。頭があり、腕があり、足がある。ただそれだけだというのに、わたしにはそれが誰か理解できた。

 あの日わたしが見殺しにした男だ。息を引きとらんとする男に背を向けて逃げた過去が、安堵と後悔と恐怖の日々が、黒々と波打っている。あの男は弱々しい呼吸の合間に何を思っていたのだろう。今まさに鼓動が止まるというときに、誰の顔を思いうかべたのだろう。おめおめとひとり逃げ落ちたわたしに知るすべはない。黒くぬりつぶされたそれは地に向かってしたたり落ちた。

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